野いちご源氏物語 四〇 幻(まぼろし)

源氏(げんじ)(きみ)にはこれまでたくさんの女君(おんなぎみ)から恋文が届いた。
誰かに見られたら困るようなお手紙でも、どうしても捨てられなかったものが何通かある。
お部屋の整理をしているときに見つけたそれらを女房(にょうぼう)に破らせなさる。

須磨(すま)での謹慎(きんしん)中にあちこちから届いたお手紙がひとまとめになっている。
(むらさき)(うえ)からのお手紙は他とは別にまとめてあった。
<ずいぶん昔のものだ>
と、しみじみご覧になる。
(すみ)の色はたった今書かれたようで、いつまでも大切に取っておきたい気がなさる。
<しかし、出家したらこの世の思い出にしがみついていてはいけない>
お寺に持っていけるものではないから、口の(かた)女房(にょうぼう)だけを呼んで、目の前で破らせなさる。

源氏の君も破ろうとお取りになった。
亡くなった人の筆跡(ひっせき)というのは何でも悲しいものだけれど、紫の上のご筆跡となると特別にお心を()さぶる。
涙が紙に落ちて墨の上を流れていく。
これ以上はご覧になれない。

お手紙を女房たちの方に押しやっておっしゃる。
「これから死んだ人を追いかけようというのに、手紙一枚破れない。この世のことはすべて捨てて、あの世のことだけを願うべきだが」
女房たちも破りにくく思っている。
まじまじと拝見してはいないけれど、紫の上からのお手紙ということはなんとなく分かるもの。

須磨は都からそれほど遠いわけではない。
でもお手紙には、これ以上ないほどつらく悲しいお気持ちが書かれている。
紫の上とお別れになった今、源氏の君のお悲しみはあのとき以上で、でももう伝える相手はいらっしゃらない。

<いけない。これ以上こんなことをしていても見苦しいだけだ>
一枚お取りになると、お手紙の文面(ぶんめん)はあえて見ないようにして(はし)に書き加えなさる。
未練(みれん)たらしく(なが)めていたところで仕方がない。焼いて(けむり)にして、空のあなたのところに届けよう」
女房に渡すと、すべて焼かせておしまいになった。