翌日の夕方。
 屋敷の門に黒いセダンが止まる音がした。
 侍女の「朝倉様がお見えです」という声に、美琴は深く息を吸ってから玄関へ向かう。

 外套の襟にかかる冬の陽が、悠真の輪郭を際立たせていた。
「行こう」
「……はい」
 車に乗り込む。シートベルトの金具がかちりと鳴り、ドアが閉まると車内に静寂が満ちた。

 発進して間もなく、悠真が横目でこちらを見る。
「体調はどうだ」
「大丈夫です」
「本当に?」
「……はい」
 短いやり取りが途切れ、エンジン音だけが流れる。

 美琴は視線を外の景色に固定した。
 ビルの窓に映るイルミネーションが川のように流れていく。
 ――昨日の光景が、何度も脳裏に蘇る。
 向かい合って話す悠真と、あの女性。
 書類を受け取る仕草。
 あのときの穏やかな笑み。

「……何かあったのか」
 悠真の声が、静かに探りを入れるように響く。
「いいえ」
「顔色が悪い」
「寒いから、かもしれません」
 それ以上のことは言えなかった。

 信号で止まったとき、悠真がこちらをまっすぐ見た。
「最近、また距離がある」
「……そんなつもりは」
「つもりがなくても、そう感じる」
 低い声に、胸が痛む。
 それでも、昨日の場面が脳裏から消えない。

「……私、少し疲れているのかもしれません」
「疲れている?」
「ええ。だから……今は、少し静かに過ごしたいです」
 言葉を選びながらも、どこか突き放す響きになってしまった。

 悠真はしばらく黙った。
 やがて前を向き、赤信号が青に変わると同時にゆっくりとアクセルを踏み込む。
 その横顔は、感情を押し隠しているように見えた。

 約束していたレストランに着いても、美琴は食欲がなく、スープを少し口にしただけだった。
「何か気になることがあるなら、言え」
「……本当に、何もありません」
「嘘だな」
 その短い言葉に、胸が跳ねた。
 けれど、否定する声は出ない。

 食事を終えて店を出ると、外の空気が冷たく頬を刺す。
 車までの短い距離が、やけに遠く感じられた。
 ――本当は聞きたい。
 ――でも、聞いてしまえば、答えを受け止めなければならない。

 屋敷の前に着き、車を降りる直前、悠真が低く言った。
「……俺は、君に隠し事はしていない」
 その言葉が真実でも、昨日の光景は消えない。
 美琴はわずかに頷き、視線を合わせないままドアを閉めた。

 玄関に入ると、足元から冷えが這い上がってくる。
 暖炉のある応接間を通り過ぎ、階段を上がる途中でふと振り返った。
 門の外にはまだ黒いセダンが止まっていて、ヘッドライトが一瞬だけ灯り、それから静かに夜の街へ溶けていった。

 部屋に戻っても、胸の奥の冷たさは消えなかった。
 ――やはり、彼には私よりも気を許す相手がいるのかもしれない。
 その思い込みが、雪のように静かに積もっていった。