野いちご源氏物語 三八 夕霧(ゆうぎり)

「帰り道もあやういのでこちらで夜を明かしたいと思います。もうしばらくこの場所をお貸しください。僧侶(そうりょ)休憩(きゅうけい)する時間になったらそちらへ移りますから、それまでのことでございます」
淡々(たんたん)宣言(せんげん)してしまわれる。
<いつもはこれほど長居(ながい)して、口説くような態度はお見せにならないのに>
(みや)様は悪い予感がするけれど、あからさまに(はは)御息所(みやすんどころ)の近くへ逃げていくのも気まずいような気がして、ただ息をひそめていらっしゃる。

()()ぎ役の女房(にょうぼう)が、大将(たいしょう)様と宮様の間を往復する。
何度目かの往復のとき、大将様はそっと女房の後ろについて(すだれ)のなかにお入りになった。
まだ夕暮れ時だけれど、(きり)のせいでお部屋のなかは暗くなりつつある。
宮様がおびえたご様子なので女房がはっとして振り返ると、大将様がいらっしゃるの。

宮様はお部屋から逃げようとなさる。
戸を開けてお出になったとき、大将様は追いついてお着物の(すそ)をとらえてしまわれた。
お体はあちらにあるけれど、裾は少しこちらの部屋に残った状態で、宮様は引き戸をお閉めになる。
()(がね)もないから、震えるお手で必死に押さえていらっしゃるの。

女房たちは愕然(がくぜん)として、どうしたらよいかすぐに思いつかない。
大将様ほどのご身分の方に対して、(しか)りつけて無理やり引き離すなんてできないもの。
後ろから、
「ひどいお振舞いでございます。思いもよらないお心がおありだったのでございますね」
と泣くのが精一杯よ。
「他の男ならいざ知らず、私がこの程度のことをしたくらいでお(にく)みにならないでください。長年ご好意(こうい)はお伝えしてきたはずです」
大将様は落ち着いておられる。
静かにお気持ちをお話しになるの。

だからといって宮様がお耳を貸されるはずもない。
ただ(くや)しくて情けなくて、お返事などしようともお思いにならない。
「少女のように冷たくなさるのですね。お部屋のなかまで入ってしまったのはたしかに失礼でしたが、これ以上のことはお許しがなければけっしていたしません。私の心はもうめちゃくちゃなのです。宮様だって気づいておられたでしょう。それなのに気づかないふりをなさって、私を遠ざけてばかりいらっしゃる。お伝えする方法もなくてこのような失礼な振舞いをしてしまったのです。嫌われたとしてもとにかく思いをお伝えしたいと、それだけでございます」

息をひとつついてお続けになる。
「しかしもうここまでにいたしましょう。あなたのご様子があまりにお気の毒だから」
宮様のかよわいお力で押さえていらっしゃるだけだから、大将様が開けようと思えば、戸なんて簡単に開けられるの。
でもお開けにならない。
「たったこれだけの戸で私を止めようとなさっているのに、無理はできませんよ」
と苦笑なさる。

宮様のお着物の(すそ)がはさまっているから、戸は完全に閉まりきってはいない。
その隙間(すきま)から大将様は宮様のお姿をご覧になる。
優しく上品な雰囲気の方よ。
未亡人(みぼうじん)になって物思いが続いたせいか、やせて華奢(きゃしゃ)でいらっしゃる。
(そで)からはよい香りが(ただよ)ってくる。
<おっとりとして柔らかな人だ>
と大将様はお感じになった。

夜が更けていく。
虫の音と鹿(しか)の声と滝の音がそれぞれ聞こえて、うっとりするような山里の夜なの。
窓からは山に沈んでいく月が見える。
「こんなに舞台がそろっていて、相手は遊びの恋などするはずもない私で、それでも(こば)みつづけるおつもりですか。気軽な身分の浮気者(うわきもの)などは私を馬鹿(ばか)にするでしょうね。この状況でまだためらうような、世にも(おろ)かで安心な男なのですから。いっそ浮気者のまねをして、無理やりあなたを私のものにしてしまおうかという考えも起きてきます。あなたはひどく冷たい。男女というものを何もご存じないわけではいらっしゃらないのに」

あれこれと責められて、どうかわしたらよいか宮様は悲しくお言葉をお探しになる。
「ご結婚の経験があるのだから初心(うぶ)なふりは通じない」というようなことを大将様はしきりにほのめかされる。
<なんと失礼な言い寄り方だろう。夫を早くに失っただけでなく、このような目にまで()うとは、どこまで私は不運なのだろうか>
宮様は死んでしまいそうな気がなさる。

内親王(ないしんのう)でありながら結婚したのは私の(あやま)ちでしょうが、それでもこのようなお振舞いには納得できません」
小声でおっしゃって痛々しくお泣きになる。
「うっかり結婚してしまったために、夫を亡くし、男に図々しく近づかれ、まもなく世間の笑い者になるのだろう」
(なげ)きがつい口からこぼれたのを、大将様は聞いていらっしゃった。
しまったと後悔されると、大将様は苦笑しておっしゃる。
「図々しく、ですか。たしかにそうだけれど、夫君(おっとぎみ)を亡くされた時点で世間はおもしろおかしく(うわさ)しているわけですから、今さら私との噂が立ったところでたいした違いはありませんでしょう。もうお覚悟なされませ」

ご自分のものになるしかない運命だと見くびっていらっしゃるのかしら、大将様は月明かりの照らすところに宮様を連れていこうとなさる。
お顔を見られるわけにはいかないと拒否なさるけれど、簡単に引き寄せられてしまわれる。
しかし()きすくめることはなさらない。
お顔を隠す宮様にはっきりとおっしゃる。
「何もいたしませんでしたでしょう。私の愛情をお分かりいただけたなら、これからは安心してお話し相手になってくださいませ。お許しがなければ何もいたしません。絶対に、絶対にです」
明け方が近くなっていく。

()みきった月光が、(きり)などおかまいなしに差しこんでくる。
お顔が照らされることを恥ずかしがって、宮様はお顔をお(そむ)けになる。
そのご様子に大将様のお胸が高鳴る。
亡き衛門(えもん)(かみ)様のことを話題になさって、ゆったりとお話しになるけれど、
「あの人の方がよかったとお思いなのでしょう」
嫉妬(しっと)のようなこともおっしゃるの。

<亡き夫との結婚は、(ちち)上皇(じょうこう)様にも母君(ははぎみ)にも認められた結婚だったのに、結局悲しいことになってしまった。ましてこの方と結婚などして幸せになれるとは思えない。赤の他人であるならまだしも、大将様は亡き夫の妹の夫ではないか。亡き夫とその妹の父君(ちちぎみ)がどうお思いになることか。世間からも非難(ひなん)されるだろうが、それより何より、父上皇様がお聞きになったら>
複雑な人間関係と、その人たちの反応を想像して苦しくなってしまわれる。

<こんな明け方まで滞在なさったのだから、世間が知ったら男女の関係になったと噂するだろう。実際は私は強く拒否して何もなかったけれど、そんなことは関係ない。母君がまだご存じないのも隠し事をしているようで申し訳ない。かといってお耳に入れば、(あさ)はかな娘だと軽蔑(けいべつ)されてしまう>
とにかく、大将様がお泊まりになったことを世間に知られまいとなさる。
「どうか明るくなる前にご出発ください」
一刻(いっこく)も早く追い払うことしかおできにならない。