野いちご源氏物語 三八 夕霧(ゆうぎり)

(おんな)()(みや)様のところから六条(ろくじょう)(いん)の夏の御殿(ごてん)へお帰りになった大将(たいしょう)様は、お昼ごろにご自宅の三条(さんじょう)(てい)に戻られた。
<今夜また小野(おの)の別荘に行ったら、宮様と深い関係になったと雲居(くもい)(かり)が勘違いするだろう>
宮様のお姿を見てしまわれたから、これまで以上に苦しんでおられる。
大将様が女二の宮様を熱心に口説いていらっしゃることは、ご正妻(せいさい)の雲居の雁もなんとなくご存じよ。
でも、知らん顔でご自分のお部屋にこもって、幼いお子たちの遊び相手をなさっている。

夜になったころ小野からのお手紙が届いた。
めずらしく読みづらい字で書かれているようなので、大将様は(あか)りを持ってくるようお命じになる。
やっとお手紙を広げられたとき、女君(おんなぎみ)が後ろからそっと近寄って、お手紙を取り上げてしまわれた。

「なんということをなさるのだ。いけませんよ。花散里(はなちるさと)(きみ)からのお手紙です。今朝風邪(かぜ)を引いたと苦しそうになさっていたのに、春の御殿の父君(ちちぎみ)にご挨拶(あいさつ)に上がったあと、もう一度お具合をお尋ねせずに出てきてしまった。お気の毒だから先ほどお手紙をお送りしたのです。ご覧なさい、それが恋文のように見えますか。震えるお手で書いてくださったのだ。
それにしても驚くようなことをなさる。夫婦としての暮らしが長くなるにつれて夫を馬鹿(ばか)にするようになってしまわれた。私にどう思われるかなんて気にもなさっていないのでしょう」
ため息をおつきになるだけで無理に取り返そうとはなさらないから、雲居の雁もお手紙を見るに見られず、ぎゅっと(にぎ)りしめていらっしゃる。

「あなたこそ私を馬鹿にするようになってしまわれました」
男君(おとこぎみ)(うるわ)しいご様子に気後(きおく)れして、子どもっぽくすねておっしゃる。
華やかに男君はお笑いになる。
「ふつうの男はそんなものですよ。しかし私のような男はめったにいない。それなりに出世しているのにたった一人の妻を守って、毎日びくびくしながら巣に帰ってくる。世間からは笑われているでしょうね。

こんな男に守られていらっしゃるのはあなたからしたら自慢にならないでしょう。たくさんの妻のなかで特別に大切にされてこそ、世間から尊敬されるものです。競争相手がいればいつまでも若々しい気分でいられるだろうし、()()きするなかで感動するようなこともある。人生に退屈(たいくつ)しないはずだ。こういう平凡な暮らしは女性にとって残念なのですよ。何の栄誉(えいよ)もない」
お手紙をさりげなく取り返すために、こんなお話で女君の気を()らそうとなさる。

女君はその手に乗らない。
くすくす笑って皮肉(ひにく)をおっしゃる。
「栄誉を求めてあなたは新しい恋人をお作りになったわけですね。そんなことをされると年老いた女は立場がないのですよ。とくに私は、浮気をしてうきうきしている夫に慣れていないのですもの」
嫉妬(しっと)するご様子もおかわいらしい。

「私のどこにそんな気配(けはい)があるのです。悪い方にばかりお考えになる。乳母(めのと)などが余計なことをお耳に入れたのではありませんか。私の位階(いかい)馬鹿(ばか)にして結婚に反対していた人だから、まだ私をあなたの夫君(おっとぎみ)として認めたくないのだろう。夫婦仲を悪くさせようと悪口を言うにしても、無関係の女二の宮様まで()きぞえにしてはお気の毒だ」
とはいえ、いずれは宮様とご結婚なさるおつもりだから、完全な否定はなさらない。
いきなり昔の話を()(かえ)された乳母は冷や汗をかいている。

女君はお手紙をどこかに隠してしまわれた。
<ここで(あせ)った様子を見せたら逆効果だ>
と、男君は平気そうなお顔でご寝室にお入りになる。
けれどもお胸はばくばくと(みゃく)打っている。
<どうやって取り戻そう。おそらく御息所がお書きになったお手紙だ。何が書かれていたのだろう>
一睡(いっすい)もできずに不安になっていらっしゃる。

女君がお休みになったあと、よく探してごらんになるけれど、お手紙は見つからない。
どこかの奥深くにお隠しになるほどの時間はなかったから、近くにあるのは間違いないはず。
いらいらしながら女君がお起きになるのを待っていらっしゃる。
でも、こういうときにかぎってゆっくりお休みになっているの。
幼いお子が目覚めて騒ぎはじめたので、やっとご寝室からお出になった。
男君もたった今起きたようなふりで出ていらっしゃる。

女君はお手紙のことなどすっかりどうでもよくなっておられる。
<必死に取り返そうとなさらなかったから、おっしゃるとおり恋文ではないのだろう>
くらいに思って、お子たちのお相手で忙しくなさっている。
人形遊びをするお子もいれば、年上のお子たちは勉強や習字をなさるし、はいはいする赤子は母君(ははぎみ)によじのぼろうとなさる。
お手紙のことを思い出して気にするどころではないの。
男君はひたすら焦っていらっしゃる。
<早くお返事をお送りしなければいけない。しかし、御息所のお手紙の内容を知らずに書けば、読んでいないことにお気づきになるだろう>

ご夫婦もお子たちもお食事を召し上がって、お昼ごろにやっと少し落ち着かれた。
<これ以上お返事が遅くなるわけにはいかない>
と、男君は思いきってお尋ねになる。
「昨夜のお手紙には何と書いてありましたか。あなたが隠したから私は読んでいないのです。花散里の君のお風邪の具合はいかがだろう。六条(ろくじょう)(いん)に上がって直接お尋ねすればよいが、私もなんだか体調が悪くて、今日はお手紙だけでお見舞いを申し上げようと思う。届いたお手紙を読まずには書けないから困っているのですよ」
あまりに冷静におっしゃるので、女君はご自分のしたことが気恥ずかしくなってしまわれる。
今さらお手紙を差し出すのはばつが悪い。

「『小野(おの)のあたりをふらふら歩いていたら私も風邪を引きましてお見舞いに上がれません』とでもお書きになったらいかがですか。小野は風情(ふぜい)のあるよいところですからね、秋の景色を楽しみにいかれたのだと養母君(ははぎみ)はお思いくださいますよ」
「だからそれはあなたの勘違いだと言っているでしょう。小野の女二の宮様は関係ない。あなたは私の男ぶりをずいぶん高く評価してくださる。あぁ恥ずかしい。女房(にょうぼう)たちが笑っていますよ。『浮気などできるはずもない真面目な臆病(おくびょう)(おとこ)なのに、それでも奥様はご心配らしい』とね」
冗談めかして一度笑わせなさってから、
「さぁ、ほら。お手紙をお出しなさい」
とおっしゃるけれど、女君はやはりお出しにならない。
説得しようとしながら横になっていらっしゃると、うとうとして、いつの間にか日が暮れてしまった。