天気……久しぶりに遠出をして田舎に行った。空は思っていたほどきれいではなくて、工場から出る煤煙で空全体がすすけてみえた。川もひどく濁っていて、泳いでいる魚や、川底はまったく見えなかった。川のほとりに、青紫色をしたキキョウの花が咲いていたが、花びらにすすがついていた。汚れた花びらを見ながら、ぼくは環境汚染の深刻さについて考えていた。

翌朝早く、空がまだ明るくなる前に、ぼくはうちを出て眼鏡橋に行った。田舎に帰っていくカエルたちを見送るためだ。ぼくが眼鏡橋の近くまでくると、団員たちはもうすでに眼鏡橋の上に集まっていて、パートごとに隊列を組んで、団長の合図を待っているところだった。ぼくは団長に駆け寄って
「いよいよ、行ってしまうのですね。もうこれからは、美しい合唱が聞けなくなるかと思うと、とても寂しいです」
と声をかけた。
「寂しいのは、おれも同じだ。この町はいいところだから、できたらおれたちも、もう少しここにいたい。でもこの町でのおれたちの役割は終わったから、おれたちはこれから田舎に帰る」
団長がそう言った。
「またいつか必ず来てください。待っています」
ぼくはそう答えた。
「うん、分かった。必ず来るよ。これから毎年、夏になると団員たちを引き連れてこの町にやってきて、ハエやカを駆除するよ」
団長がきっぱりとした声で、そう言ってくれた。
「その日を楽しみにしています」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく団長は団員たちに出発の合図を出した。団長の合図に従って団員たちは高音部、中音部、低音部の順に翠湖公園から出ていった。その様子をぼくはしばらく眼鏡橋の上から見ていた。するとそれからまもなく老いらくさんがやってきた。
「もう行ってしまったか。わしもこの眼鏡橋の上で見送りたかったが、一足遅かった」
老いらくさんは、そう言って残念がっていた。
「カエルたちが帰っていく田舎は、どんなところなのでしょうか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「昔は自然が豊かで、住みやすいところだったと思うが、今は違っているのかもしれない」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね。ぼくもそう思います。そうでなかったら、わざわざ、こんな遠くの町まで
こないでしょうから」
ぼくはそう答えた。団長が以前、ぼくに、環境汚染がひどくて住めなくなったから、町ではどうなのかと思って視察に来たと、話してくれたことを、ぼくは、ふっと思い出した。
「あの合唱団のあとについて、わしらも田舎の様子を視察に行ってみないか」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね。それも勉強になるかもしれないですね」
ぼくはそう答えた。
「お前は団長と知り合いになったから、お互いに行ったり来たりすることによって友情をさらに深めることができる。しばらく日常を離れて、田舎へ行くのは、いい気分転換にもなるぞ」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんの考えには納得できるところが多かったので、ぼくは老いらくさんといっしょにカエルたちの故郷へ行ってみることにした。田舎に帰っていくカエルたちの後ろ姿が遠くにまだかすかに見えていたから、ぼくと老いらくさんは急いであとを追いかけていった。
夜が明けたばかりの町の中はひっそりとしていて、人通りはまったくなかった。長々と続いている合唱団の隊列の最後尾から少し離れたところまで追い上げてきた時、老いらくさんが
「カエルたちは来る時も、こっそりやってきたし、帰る時も、こっそり帰っていく。これでいいのだろうか」
と言った。老いらくさんの言っていることの意味がよく分からなかったので
「何を言いたいのでしょうか」
と、ぼくは老いらくさんに聞き返した。
「この町が環境衛生都市に選ばれて国から表彰されたのはカエルたちのおかげだから、カエルたちのために祝賀会や送別会を開いてやるのが人として当然の行為ではないのか。このまま、そっと帰っていったら、カエルたちのせっかくの貢献が徒労に終わってしまう」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんの言っていることが分からないではない。しかし、カエルたちは、そうは思っていないだろうと、ぼくは思った。
「カエルたちは報いを求めて、ハエやカの駆除をしたのではないと思うので、このままそっと帰っていくことが、かえってカエルたちの本望だと思います」
ぼくはそう答えた。
「恩に着せることなく、風のように来て、風のように去っていく。高尚な生き方だな。わしにはとても真似できない」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね。ぼくも頭が下がります。本当に立派な生き方だと思います」
ぼくはそう答えた。
「カエルは人間のために、こんなに立派なことをしているのに、人間の中には環境を汚染して奇形ガエルを生み出したり、食べたり、金儲けのために利用したりする人がいる。これでは不平等どころかカエルがかわいそうではないか」
老いらくさんがそう言った。的を射た老いらくさんの問いかけに、ぼくはどう答えてよいか分からなかった。
「その問題に関しては、ぼくにはよく分かりません。人間だけが答えることができると思います」
ぼくはそう言ってお茶を濁した。
「もしわしが人と話ができたら、ぜひ聞いてみたいのだがなあ」
老いらくさんが真面目な顔をしながら、そう言ったので、ぼくは思わずおかしくなった。
ぼくと老いらくさんはおしゃべりをしながら、合唱団のあとから少し距離を置きながらついていった。一時間以上も歩いて、町の郊外の先まで来た。そのあたりには町中のような喧騒さはもう少しも感じられなくて、周りには田んぼや畑が広がっているのが見えた。
外はもうすっかり明るくなっていて、朝日で東の空が赤く染まったあと、山の向こうから顔を出した太陽が金色の光を放ちながら、時間の経過とともに高く昇っていた。このような朝の情景は本来はとても美しく感じられるものだが、今は少しも美しく感じられなかった。田んぼや畑の先には工場団地があって、どの工場の煙突からも黒い煙がもくもくと吐き出されていて、空全体を覆うように黒く広がっていたからだ。
「これが今の農村の姿なのでしょうか」
ぼくは沈鬱な顔をしながら老いらくさんに聞いた。
「そうかもしれないな」
老いらくさんが、ぼつりと、そう答えた。
「ぼくの記憶の中にある農村は、どこまでも田畑が広がっていて、ゆったりとした田園風景が見られるのどかなところでした。でも今、目の前に見えるこの風景は、それとは全然違っています」
ぼくはそう答えた。
「ここは農村地帯と言っても、町から比較的近いところだから、工場がたくさん作られたのかもしれない。もう少し先まで行ったら、もしかしたら、工場は少ないかもしれない」
老いらくさんが、そう言った。
「そうだといいのですが……」
ぼくはそう答えた。
カエル合唱団の故郷は、まだずっと先にあるのか、隊列はさらに農村の奥深くまで進んでいった。もうすでに出発してから二時間近くたっていた。町からはかなり遠いところまでやってきたので、田んぼや畑はこれまでよりももっと多く見られるようになった。しかしそれでも田んぼや畑の先にはやはり、工場がたくさん建っていて、林立している煙突からは黒い煙がもくもくと吐き出されていた。粒子状の大気汚染物質であるPMの濃度がとても高くて、農村の奥地でも深刻な環境汚染の原因になっていることを、ぼくはまざまざと感じた。
カエル合唱団の団員たちは、それにもめげずに、黙々と歩き続けていた。道の両側には畑が広がっていたので、団員たちは時々足を止めて、畑の中に入っていって害虫がいないか調べていた。害虫がいたら駆除を行なうことが自分たちの使命だとカエルたちは思っているように見えた。ところがカエルたちは畑の中に入っていってからすぐに畑の中から飛び出してきた。それを見て、ぼくはけげんに思った。
(あれ、どうしたのだろう。今の時季、田畑には害虫が多いと、団長が言っていたけど、あんなに早く駆除できるのだろうか)
ぼくはそう思いながら見ていた。するとカエルたちが取り乱して、がやがや騒いでいるのが見えた。
「何かあったのだ」
老いらくさんが異変に気がついて、そう言った。
「近くに行ってみよう」
老いらくさんが、ぼくの肩をぽんとたたいたので、ぼくはそれからまもなく、老いらくさんといっしょにカエルたちのすぐ近くまで走っていった。畑のそばを通った時、畑の中から鼻をつくような異臭が漂ってきた。団長がぼくに気がついて、駆け寄ってきて
「あれ、笑い猫、どうしてここにいるのだ?」
と言って、目を丸くしていた。ぼくがこんなところまでついてきているとは、団長は夢にも思っていなかったようだ。
「びっくりさせてごめんなさい。団長が以前、故郷には住めなくなったと、おっしゃっていたから、そのわけを知りたくて、こっそり、あとからついてきていました」
ぼくは団長に、そう答えた。
「そうか、そういうわけだったのか」
団長がうなずいていた。
「それにしても何かあったのですか。遠くから見ていた時、団員たちが急に取り乱して、がやがや騒ぎだしたのが目に入ったので、慌てて飛んできました」
ぼくは団長にそう聞いた。
「団員が二匹、死んだ」
団長がそう答えた。
「どうしてですか」
ぼくはびっくりして、聞き返した。
「畑にいる虫を食べて死んだ」
団長が重々しい顔をしながらそう言った。ぼくはそれを聞いて合点がいかなかった。
「カエルはこれまでも畑にいる虫を食べてきたのに、どうしてですか」
ぼくは団長に聞いた。
「あの畑には農薬がたくさんまかれていたので、害虫の多くは農薬で駆除されていた。ところが生き残っていた数匹の害虫を団員が食べて、その結果……、死んでしまった」
団長が、そう答えた。
「そうですか、それはかわいそうに……」
ぼくは物悲しい声で、そう言って、団長に哀悼の意を伝えた。
(畑の中から鼻をつくような異臭が漂ってきたのは農薬のせいだったのか)
ぼくはそう思った。もともと畑の中にいる害虫を駆除するのは神様からカエルに与えられた天職だったはずだ。ところが今では農民は畑に農薬をまいて害虫を駆除するようになった。カエルの役割は終わったし、生き残った害虫をカエルが食べたら死んでしまうような状況になってきている。ぼくは時代の推移を感じていた。
お昼近くになると、照りつける太陽で、地表がかなり熱くなってきた。カエルたちは水浴びをして、ほてった体を冷やすために川のほとりに行った。ぼくと老いらくさんもついていった。川のほとりには青紫色をしたキキョウの花が咲いていたが、花びらにすすがついていて、あまりきれいではなかった。川面を渡る風は涼しかったが、風の中に煤煙のにおいが漂っていて、あまり気持ちがよくなかった。カエルたちは照りつける太陽のもとを長く歩いてきたので、体が熱くなっているだけでなくて、とても疲れていたので、川のほとりに着くとすぐに川の中へ飛び込んだ。
ところがカエルたちはすぐに川岸に上がってきた。それを見て、ぼくはびっくりして、団長に
「あれっ、どうして、もう上がってくるのですか。今は一日の中で一番暑い時だから、水の中にいる方が、地面にいるよりも気持ちがよいでしょうに」
と聞いた。すると団長は、渋い顔をしながら
「どこが気持ちがよいか。水の中に長くいるのは耐えがたい」
と言った。ぼくには意味がよく分からなかったので
「どうしてですか?」
と、すぐに聞き返した。すると団長が
「川の水は汚染されていて、水の中には、いやな臭いがぷんぷんしている」
と答えた。それを聞いて、ぼくは川の表面をじっと見た。確かに川の水は濁っていて、赤とも黄色とも言えないような色をしていた。ぼくのイメージの中では、田舎の川は透き通っていて、川底にある砂や石が見えるものとばかり思っていた。しかし今、目の前に見える川はそうではなかった。
「どうして、この川は、こんな色をしているのでしょうか」
ぼくは団長に聞いた。
「川の両側にたくさん建っている工場から流された汚染物質が混じっているからだよ」
団長がそう答えた。団長の説明を聞いて、ぼくはようやく合点がいった。
「この川で水浴びをするのは危険だし、汚染物質が体の中に入ったら、サカダチ―のような奇形ガエルがたくさん生まれてくる」
団長がそう言った。ぼくはそれを聞いて環境汚染の深刻さをしみじみと感じた。
団長はそれからまもなく団員たちを引き連れて、川の上流のほうへ向かってさらに歩いていった。ぼくと老いらくさんも、あとからついていった。川の水は相変わらず濁っていたが、上流へ行くにつれて川の色が少しずつ変化してきているのに、ぼくは気がついた。今までは赤とも黄色とも言えないような色をしていたが、白い泡状のものが水面にたくさん浮いているのが見えるようになってきたからだ。
「団長、水の色が変わりましたね」
ぼくは団長にそう言った。
「これは化学工場から流れてきた廃水だ」
団長が、そう教えてくれた。団長に率いられたカエルの合唱団は、そのあともずんずん前に進んでいった。時間はもうすでに夕刻近くになっていた。川の水の色は再び変化して、今度は黒くなっていた。
「団長、水の色がまた変わりましたね」
ぼくは団長にそう言った。
「これは製薬工場から流れてきた廃水だ」
団長が、そう教えてくれた。
「そうですか。ここは町からかなり離れた田舎なのに、川は、どこまでいっても濁っているのですね。水辺を離れては生活できないカエルにとって、川の汚染は命に係わる死活問題ですね。田舎の川がこんなに汚染されているとは思ってもいませんでした」
ぼくは、そう答えてから、ふーっと重いため息をついた。
「田舎は今このような状況になっているから、とても住みにくいが、町はどうなのだろうと思ったので、団員たちを引き連れて町へ視察に行ったのだ」
団長がそう言った。
「そういうわけだったのですか。田舎がこのような状況になっているのを知って、ぼくはとても悲しいです。ぼくが見るところ、田舎ではもうカエルたちは幸せに生きていくことができないように思います。ぼくはあなたたちが大好きだし、町の人たちも、あなたたちが大好きだから、みなさんたちには、幸せに生きていってほしいです。団長、やはりもう一度考え直して、ぼくたちが住んでいる町に戻ってきてずっと住んでいただけませんか。田舎の川の水よりも翠湖の水のほうが、ずっときれいだから、ずっと幸せに生きることができると思います。翠湖で歌っていただけたら、ぼくたちの心は癒されます。町の人たちも同じだと思います。町からハエやカが駆除されたと言っても、いつかまた出てきます。それまでは翠湖公園の中でゆっくり休んでいてください」
ぼくは団長に、そう言った。団長は、それを聞いて、しばらく考えていたが
「翠湖が田舎の川よりも水質がきれいなのは分かる。しかし田舎で生まれたカエルにとって田舎で生きていくのが宿命だと思っているから、祖先たちが長く暮らしてきた田舎に、これからもずっと住んでいく。おれたちは故郷をとても愛しているから、環境汚染がひどくなったと言っても故郷を永遠に捨てるわけにはいかない。おれの気持ちを分かってくれ。団員たちも、みなおれと同じように考えている」
団長がそう言った。団長の話を聞いて、ぼくは感動で心が震えていた。