天気……昨夜の雷雨はあがり、今日は朝からすっきりした青空が広がっている。空気がとても澄んでいて、遠くの山々まではっきりと見える。雨で洗われた木の葉はつやつやと美しく輝いていて、濃い緑色がまぶしく感じられる。翠湖に浮かんでいるスイレンの葉の上には、昨夜の雨のしずくが残っていて、風が吹くたびに、小さな水玉が葉の上を、ころころと転がりながら、行ったり来たりしている。

老いらくさんは、妻猫が夜中にうちを出て西山へ行ったあと、ぼくにずっと付き添ってくれた。夜が明けて空が白々と明るくなり始めたころ
「わしはこれから朝食をとりに帰る」
と言って、うちから出ていった。しばらくしてからまた戻ってきて、揚げパンを持ってきてくれた。でもぼくはのどが通らなかった。
「どうして食べないのだ。傷が痛んで食欲がないのか」
老いらくさんが心配そうに聞いた。ぼくはうなずいた。
「そうか。それなら、わしがいただくことにするぞ」
老いらくさんは、そう言って、ぼくに持ってきてくれた揚げパンを自分で食べ始めた。
「わしは毎日、違った朝食をとっている。月曜日はまんじゅう。火曜日はカステラ。水曜日は食パン。木曜日は揚げパン。金曜日はおかゆ。土曜日はトウモロコシ。日曜日は卵スープ。もうずいぶん長く、この習慣を続けている。今日は木曜日だから、揚げパンだ」
老いらくさんが、そう言った。老いらくさんが食べるものといったら、人家にこっそりと忍び込んで盗んできたものか、公園のゴミ箱に捨ててある食べ残しのものか、ぼくがおすそわけをしてあげるものに限られるから、毎日よく、そんなに、いろいろなものを食べることができるなあと思って感心した。でも、今のぼくにとって、そんなことはどうでもよいことだったから、話題をそらして
「老いらくさん、ちょっとお願いしたいことがあるのですが……」
と言って、口をはさんだ。
「何だい?」
老いらくさんが真剣な顔をして聞き返した。
「ツヨシ―のことです」
ぼくは、そう答えた。
「おお、そうだった。ツヨシ―のことを、わしはまだお前に聞いていなかった」
老いらくさんがそう言った。
「お前は昨日、ツヨシ―を助けるために、馬小跳たちを連れて遊園地に行った。ところがお前は帰ってこなかった。心配して遊園地へ行ったら、お前が死にかけていた。ツヨシ―の姿は見なかった。ツヨシ―はどうしたのだ」
老いらくさんが聞いた。ぼくは昨日の出来事を断片的に思い出しながら、老いらくさんに話した。
「そうか。それで、そんな目に遭ったのか。命を張って、ツヨシ―を助けようとしたお前の勇気には、ほとほと感心する。でもあまりにも無鉄砲過ぎる」
老いらくさんがそう言った。
「無鉄砲なのは分かっています。でもどうしてもツヨシ―を助けなければという正義感のほうがまさっていたものですから」
ぼくはそう答えた。
「それでツヨシ―は今、どこにいるのだ」
老いらくさんが聞いた。
「分かりません。張達がリキシーとオカマーを振り切って逃げ切っていたら、もしかしたら馬小跳のうちにいるかもしれません」
ぼくは自信なげに、そう答えた。
「ぼくは今は、まだ動ける状態ではないので、すみませんが、ぼくに代わって、馬小跳のうちへ行って、ツヨシ―がいるかどうか見てきていただけませんか」
ぼくはそう言って、老いらくさんにお願いした。
「分かった。お前の願いなら何でも聞き入れるよ」
老いらくさんが、そう言って、ぼくの願いを快く引き受けてくれた。
老いらくさんは以前、馬小跳のうちへ行ったことがあるから、家のどこに何があるか知っている。ツヨシ―が馬小跳のうちにいるかどうか分からないが、きっと何か有力な手がかりを持ってきてくれるはずだ。ぼくはそう思っていた。
ぼくはまだ完全に体の状態が回復したわけではないので、話をしているうちに疲れがどっと出てきて、眠くなってきた。まぶたを閉じる前に、老いらくさんに
「くれぐれも気づかれないように注意しながら、さっと調べて急いで帰ってきてください。家の中にあるものには、みだりに触らないようにしてください」
と言った。
「分かった。そうするよ」
老いらくさんは、そう言って、うなずいた。老いらくさんは、それからまもなく、ぼくのうちを出ていった。老いらくさんが吉報を持ってきてくれることを願いながら、ぼくはそのあと、ひと眠りした。
正午ごろ、老いらくさんが、戻ってきた。
「どうでしたか、ツヨシ―は馬小跳のうちにいましたか」
ぼくは老いらくさんの姿を見ると、すぐに息せき切ってたずねた。
「そんなにせき立てるなよ。順序だてて話すから」
老いらくさんは、そう言ってから、落ち着いた様子で、話し始めた。
「わしが以前、お前といっしょに馬小跳のうちへ行った時は、外壁を伝わって窓台にのぼっていった。でも今回は、マンションの中にあるエレベーターで行くことにした」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、そんなことはどうでもいいから、ツヨシ―がいたか、いなかったか、はやく話してくださいと言いたかった。でも今は、口をはさまないで、ただ黙って聞いているだけにした。
「エレベーターの前で待っていたら、中年の男の人が来て、ボタンを押した。エレベーターのドアが開いたので、そのすきに、ぼくもさっとエレベーターに乗り込んだ。ところが、その人がぼくに気がついて、エレベーターの外に、ぼくを蹴り出した。それでしかたなく、次の人が来るのを待っていた。するとしばらくしてから、今度は若くてきれいな女の人がやってきて、ボタンを押した。エレベーターのドアが開いたので、そのすきに、ぼくもさっとエレベーターに乗り込んだ。ところが、エレベーターの中にぼくがいるのに気がついて、その人はキャーと悲鳴をあげながら、エレベーターの外に飛び出した。その瞬間、エレベーターのドアが閉まった。エレベーターの中には、ぼくだけが閉じ込められた。ドアが開かなかったので、ぼくはしばらくエレベーターの中に閉じ込められていた。しばらくしてからエレベーターがまた開いて、乗ってきた初老の男の人が、ぼくを見つけて、足でぼくをエレベーターの外に蹴り出した」
老いらくさんが、そう言った。
ぼくは、いらいらして、もうこれ以上は待てなくなった。
「一体、馬小跳のうちに行ったのですか、行かなかったのですか」
ぼくは、じりじりしながら、老いらくさんに聞いた。
「そうせかさないで、落ち着いて、わしの話を聞けよ」
老いらくさんは、そう答えて、相変わらず、だらだらと、どうでもいいことを話し続けた。
「わしはエレベーターの中を十回以上も、上ったり下りたりしながら、ドアから出たり入ったりしていた。記憶を頼りに、馬小跳のうちを探し続けて、ようやく、馬小跳のうちの前に着くことができた。ところが、入り口のドアが閉まっていたので、『しまった』と思った。
「もういい、もういい、そんなダジャレなんか言わなくていいです。ツヨシ―とは結局、会えたのですか、会えなかったのですか」
ぼくは老いらくさんにそう聞いた。
「笑い猫、そんなに、いらいらするなよ。いらいらすると傷にさわるぞ」
老いらくさんは、そう言って、相変わらず、マイペースを守り続けた。
「わしは、馬小跳の家の前で、ずいぶん長く待っていた。するとようやくドアが開いて、馬小跳のお母さんが出てきた。ドアが開いたすきに、わしはさっと家の中に入り込むことに成功した」
老いらくさんが、そう言った。ぼくが知りたかったことを、老いらくさんがやっと話してくれたので、ぼくの苛立ちもようやく治まった。
「ツヨシ―はいましたか?」
ぼくはすぐに聞いた。老いらくさんは、ぼくの問いにはすぐに答えないで、相変わらず、自分なりのペースを守って話を続けた。
「わしは以前、お前といっしょに馬小跳のうちに行ったことがあるから、家の中のどこに何があるかよく知っている。まず最初に、台所へ探しに行った。台所にはおいしそうな匂いがするソーセージがあったので、ぼくの食指が動いた。でもお前が、『家の中にあるものには、みだりに触らないようにしてください』と言ったから、我慢して手をつけなかった。台所の中をあちこち探したがツヨシ―はいなかった。わしは、そのあと応接室やトイレやバスルームや寝室に行ってツヨシ―を探した。しかしそれらの部屋にもツヨシ―はいなかった。残す部屋は馬小跳の部屋だけとなった。ドアが少し開いていたので、わしはドアのすきまから、部屋の中にそっと入っていった。部屋の中に馬小跳がいた。机の上に金魚鉢が置いてあったので、金魚を飼っているのかなと思ったら、金魚ではなくてカエルが一匹泳いでいた。よく見ると、そのカエルは後ろ足がなかったので、ツヨシ―に間違いないと、わしは思った」
ずいぶんじらされたが、ぼくが一番知りたかったことを、老いらくさんが、ようやく口にしてくれたので、ぼくはほっとした。
「それで、どうしたのですか」
ぼくはすぐに聞き返した。
「金魚鉢の中には藻が入れてあって、ツヨシ―は藻の間をゆったりと泳いでいた。馬小跳は、ツヨシ―をしばらくじっと見ていたが、それからまもなく金魚鉢の中からツヨシ―を取り出して、前足に薬を塗っていた」
老いらくさんが、そう言った。
「ツヨシ―はけがをしていたのですか」
ぼくは心配してすぐに聞き返した。
「前足が赤く腫れていた」
老いらくさんが、そう答えた。それを聞いて、馬小跳が遊園地の中で、唐飛たちに言った言葉が、ふっと思い浮かんだ。見世物小屋の中にツヨシ―がいて、電球がたくさんついているステージの上で逆立ちをしながら跳んだりはねたりしていたと、馬小跳は言っていた。ツヨシ―の前足が赤く腫れていたのは、電気でやけどをしたために違いないと、ぼくは思った。
「ツヨシ―が馬小跳のうちにいるのが分かって、安心しただろう?」
老いらくさんが、そう聞いた。
「もちろんですよ。馬小跳のうちほど安全なところはないですから」
ぼくは、そう答えた。
「ツヨシ―が無事であることを、団長にも早く知らせて、カエルたちを安心させなければなりません」
ぼくは気がせいていた。
夜のとばりが降りてから、ぼくは老いらくさんに押してもらいながら、スケートボードに横たわったまま、翠湖のほとりまでやってきた。団長が、ぼくの姿に気がついて、びっくりしたような顔をしながら近づいてきた。
「笑い猫、どうしたのだ?」
団長が不憫そうな目で、ぼくを見ていた。
「ツヨシ―を助けるために遊園地へ行って、悪い人間に蹴られてしまいました」
ぼくは団長に、そう答えた。それを聞いて、団長は胸がつぶれるような表情をしながら「何と、いたわしい」
と言った。
「すまない、すまない。サカダチ―を助けるために、自分を犠牲にしてくれたのか」
団長は泣きそうな顔で、ぼくに何度もわびていた。それを聞いて、ぼくはうれしいというよりも、恥ずかしくてたまらなくなった。カエルたちがこの町のために貢献している度合いに比べたら、ぼくがしたことは、数のうちには入らなくて、たいしたことではなかったからだ。
「安心してください。ツヨシ―は無事です。今は優しい男の子のうちにいて、傷の手当てをしてもらっています。傷が治ったら、ここに戻ってくると思います」
ぼくは団長に、そう言った。それを聞いて、団長が
「ありがとう。笑い猫の恩は一生忘れない」
と感涙しながら言った。団長は、団員たちに、ぼくから聞いた話を伝えていた。
それからしばらくしてから、人の声が聞こえてくるのが耳に入った。聞き覚えのある声だった。
「ボス、ツヨシ―はどこへ行ったのでしょうか」
「ここに戻ってきて姿を隠しているかもしれない」
「そうですね。逆立ちをして歩く姿は、目立つのでぜったいに探し出して捕まえましょう」
「ツヨシ―はドル箱だから何が何でも探し出せ。おれたちの飯の種だ」
「分かりました」
その声はリキシーとオカマーに違いなかった。ツヨシ―を再び捕まえて、お金儲けをたくらんでいるリキシーとオカマーに、ぼくは腹が立ってたまらなかった。
声がだんだん近づいてきたので、ぼくは団長に
「早く、水に飛び込んで。悪いやつが来た」
と言った。団長は団員たちに、ぼくの言葉をすぐに伝えた。カエルたちはみんな湖に飛び込んで姿を隠した。その直後に、強い懐中電灯の光がぼくに当てられたので、ぼくはまぶしくて目が開けられなくなった。
「あれっ、この猫は遊園地にいた、あの猫ではないの。まだ生きていたのかなあ」
オカマーが、けげんそうな顔をしながら、そう言った。
「くそー、しぶとい猫め。今度こそ、確実に殺してやる」
リキシーはそう言って、ぼくをスケートボードの上から、首根っこをぐいとつまみ上げてから、足で、ぼくの体を激しく蹴った。強い衝撃がぼくの体に走り、その瞬間、ぼくは再び意識を失ってしまった。