天気……強く蹴られて意識を失い、それから時間がどれくらいたったのか分からなかった。耳をつんざくような大きな音がして、意識を少し取り戻して薄目を開けると、もうすでに日が暮れていた。たらいをひっくりかえしたような激しい雨がざあざあ降っていて、ぼくの体はびっしょり濡れて冷たくなっていた。大きな音は雷の音だった。

夜空を切り裂くような稲光が走るなか、ぼくは、もうろうとした意識の中で、昼間起きたことを、ぼんやりと思い起こしていた。体全体がずきずきとうずいて、我慢できないほどの痛みが走り、手足が動かなくなっているのが分かった。致命的な重傷を負っていることにショックを受けて、もうこのまま冷たい雨に打たれながら、ここで死んでしまうのかもしれないと思った。うちから遠く離れた遊園地の中で死ぬのは辛いが、こういう運命のもとに生まれていたのだろうかと思って、切ない運命を受け入れることにした。意識が再び薄れていく中で、ぼくは家族のことを思い浮かべた。かけがえのない妻猫や、いとおしい子どもたちと、こんな形で永遠に別れることになろうとは夢にも思ってもいなかった。寂寥感がこみあげてきて、涙がぽろぽろと、こぼれてきて、とまらなかった。家族との別れはとても辛いが、友だちとの別れも辛い。とりわけ老いらくさんとの別れは辛い。老いらくさんと初めて知り合ったのは、妻猫と出会うよりもずっと前だったから、老いらくさんといっしょに過ごした時間は、妻猫や子どもたちといっしょに過ごした時間よりもはるかに長い。老いらくさんは才知にたけているから、啓発されるところも多かった。もっと長く生きて、もっといろいろなことを教えてもらいたかった。でも、もうそれも望めなくなった。そう思うと哀感に打ちひしがれていた。ぼくはもう目を開ける元気はなかったので、目を閉じたまま、最後の時を静かに待っていた。するとその時、かすかに
「笑い猫……」
と、泣き崩れそうな声で、つぶやく声が聞こえた。雷雨が激しかったので、はっきりとは聞こえなかったが、聞き覚えのあるネズミの声だった。老いらくさんの声によく似ていた。幻聴ではないかと、ぼくは思った。老いらくさんが、ここにいるはずがないと思ったからだ。目を開けて確かめようとしたが、目に力が入らなくて目が開かなかった。
「笑い猫、どうして、こんなことになったのだ……」
ぼくにそう言って呼びかける声の主は、やはり老いらくさんに間違いなかった。
「かわいそうに、こんなに冷たくなっていて、ぴくりとも動かない」
老いらくさんは、そう言って、ぼくの体に触れてから、おいおい泣き出した。
「笑い猫、どうして、こんなに早く逝ってしまったのだ。お前がいなくなって、わしはこれからどうやって生きていったらよいのだ」
老いらくさんがそう言ったので、ぼくはまだ生きていることを伝えようとした。声を出す力はもうなかったので、最後の気力をふりしぼって、ぼくはかすかに目を開けた。でも外は真っ暗だったので、老いらくさんには、ぼくが目をかすかに開けたのが見えなかったようだ。
「お前をここで野ざらしにするわけにはいかないから、翠湖公園に連れて帰る。お前に何か異変があったのではないかと虫の知らせがあったので、わしはスケートボードを持ってきた。これに乗せてお前を翠湖公園に連れて帰る」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんはそれからまもなく、ぼくをスケートボードに乗せて、とぼとぼと押しながら遊園地を出ていった。雨はまだ激しく降っていた。時々、稲光がして、雷鳴がとどろいていた。老いらくさんは、それにもめげないで、力をふりしぼって、懸命にスケートボードを押していた。稲光がぼくの顔を一瞬明るく照らした。ぼくはまぶしくて目をちかちかと、まばたいた。老いらくさんが、それに気がついた。
「あれ、笑い猫、まだ生きていたのか」
老いらくさんがびっくりして、そう言った。老いらくさんは、そのあとすぐ、ぼくの胸に耳を近づけて、まだ虫の息があるのを感じて、とてもうれしそうな顔をしていた。
「よかった、よかった。てっきり死んだとばかり思っていた」
老いらくさんは、そう言って、今度はうれし涙をぽろぽろ流していた。
老いらくさんのスケートボードに乗るのは、今回初めてではなかった。以前一度乗ったことがある。その時のことをふと思い出していた。あれは妻猫と結婚する前だった。翠湖公園から姿を消した妻猫を探すために、翠湖公園のシンボルタワーに登って辺りを見まわしていた時、落ちて足をくじいた。動けなくなったぼくを見て、老いらくさんがスケートボードにぼくを乗せて、うちまで運んでくれた。ぼくにとって、老いらくさんのスケートボードは車いすのようなものだから、とても重宝している。そのようなことを思いながら、ぼくは今、再びスケートボードの上に横たわっていた。
雨が激しく降っている夜更けの通りは、しんとしていて猫の子一匹見当たらず、ひっそりとしていた。その中を老いらくさんは、スケートボードを懸命に押しながら、翠湖公園に向かっていた。老いらくさんが、切々とした声で
「笑い猫、絶対に死なないでくれ。わしに何か話しかけてくれ」
と言った。その呼びかけに応えようと思ったが、声にするだけの力がわいてこなかった。
「笑い猫、どうして黙っているのだ。何か言ってくれ」
老いらくさんは、ぼくがこのまま死んでしまうのではないかと思って、必死になって、ぼくに呼びかけていた。ぼくはスケートボードの上に横たわったまま雨に打たれているだけで、返事を返す力はなかった。
「笑い猫、おれがどうして、お前を探すために遊園地に来たのか知っているか」
老いらくさんが聞いた。
「……」
「昨日、お前が馬小跳たちを連れて遊園地へ行くと言っていたからだ」
老いらくさんがそう答えた。
「ところが今日の夕方になってもお前は帰ってこなかった。妻猫が心配そうにお前を探している姿を見かけたので、遊園地でお前に何かあったのだと思った。もしお前に万が一のことがあって、動けないでいたら、これに乗せて帰ろうと思って、スケートボードを持ってきたのだ」
老いらくさんがそう言った。
「もしお前がもうすでにこと切れていたら、冷たくなったお前の体をスケートボードに乗せて翠湖公園に帰り、妻猫や、お前の子どもたちに最後の姿を見せようと思っていた。そうしなければ、どこでどうなったのか妻猫や、お前の子どもたちは知らないまま、ごみとして片付けられてしまう。それでは、あまりにも、お前や、お前の家族がかわいそうだ。わしはそう思っていた」
老いらくさんが、そう言った。ぼくはそれを聞いて、おかしくてたまらなくなった。まだ生きているのに、そこまで考えてくれていたのかと思ったからだ。でも笑いを浮かべるだけの気力は出てこなかったから、無表情のままじっとしていた。老いらくさんはさらに言葉を続けた。
「お前を埋める場所も考えていた。翠湖公園の中にある草が茂っている坂の上だ。あそこはお前が妻猫と初めて会ったところだし、お前の子どもたちが一番好きな場所だからだ。わしとお前がよくおしゃべりをしたところも、あそこだから、お前を埋めるところはあそこ以外ないと思っていた。春になると梨の花が咲き、真っ白い花びらが坂の上いっぱいにひらひらと舞うように落ちてきて、とてもきれいな場所だから、お前のお墓として最適の場所だ」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくは、ますます、おかしくてたまらなくなった。でもやはりまだ笑うような元気は出てこなかった。
「お前がいなくなってからも、わしは生きていかなければならない。でも心の中にぼっかりと大きな穴が空いたようで、悲しくて、毎日涙に暮れながら空しい日々を送ることになる。生きていても仕方がないと思って、もしかしたら自死することを考えるかもしれない。悲しみに耐えながら生きていくとしても毎年、清明節が来るたびに、お前のお墓の前に額づいて、お前といっしょに過ごした懐かしい日々を回想することになるだろう」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくはついに、く、く、くーと、かすかに笑い声が出た。
「あれ、笑い猫、笑ったか?」
老いらくさんがそう言った。ぼくは、首を軽く縦に振った。老いらくさんは、それを見て、うれしくてたまらないような顔をしていた。
「よかった。笑顔が出るようになった」
老いらくさんがそう言った。でもぼくはまだ少しも安閑とした気持ちにはなれなかった。体の状態が安定していなかったので、意識が戻りかけたかと思うと、再び薄れていって、生と死のどちらへ傾くのか、自分では分からないでいたからだ。しかしともあれ老いらくさんが押してくれるスケートボードの上に横たわったまま、真夜中の翠湖公園に帰ってくることができたので、ぼくはひとまずほっとしていた。翠湖公園に帰ってきたことで、ぼくの体の中に元気が少しずつよみがえってきて、声も出るようになった。うちの前まで来ると、ぼくは老いらくさんに
「ありがとう。ご恩は一生忘れない。もう、ここでいいよ」
と言った。ぼくの声が出るようになったので、老いらくさんは、うれしくて涙をぽろぽろと流していた。
老いらくさんはそれからまもなく、入口の外からスケートボードを、うちの中へ入れてから
「一日も早い回復を願っている」
と言って、去っていった。
外から突然入ってきたスケートボードの音で目がさめた妻猫は、横たわっているぼくを見て、びっくりしていた。
「お父さん、どうしたの?」
妻猫は、ぎょっとしたような声で、ぼくに、そう聞いた。
「遊園地へカエルを助けに行って、人に蹴られた」
ぼくはそう答えた。妻猫はそれを聞いて、とてもショックを受けていた。
「ひどい、どうして、そんなことをする人がいるの?」
妻猫が悲しそうな顔をして、聞き返した。
「悪いやつがいて、マスコミで取り上げられた有名なカエルを捕まえて、お金儲けをしていた。許せなかったので、向かっていったら、蹴られた」
ぼくはそう答えた。
「そうだったの……」
妻猫は、そう言って声を詰まらせていた。
「ひどい傷を負って歩けなくなってしまった」
ぼくは顔の表情を曇らせながらそう言った。
「何と、いたわしいのでしょう」
妻猫が鉛のように重いためいきをついた。
「歩けなくなったから、それに乗って帰ってきたのですか?」
と、妻猫が聞いた。ぼくはうなずいた。
「誰がそれを押して、ここまで連れてきてくれたのですか?」
妻猫がさらに聞いた。
「はっきり覚えていない。意識がもうろうとしていたから」
ぼくはそう答えた。老いらくさんのことは口に出せなかったから、ぼくはそう答えて、お茶を濁した。老いらくさんが、ぼくの友だちであることを妻猫はまだ知らないし、老いらくさんがネズミだと分かったら飛び出していって捕まえようとするかもしれないからだ。
「お父さん、傷をちょっと見せて」
妻猫がそう言った。
妻猫は薬草に関する知識を持っているので、薬草を用いて、病気やけがを治す方法を心得ている。妻猫はぼくの傷の状態を細かく調べてから
「お父さん、内出血しているわ。薬をつけないと大変なことになるわ」
妻猫が心配そうな声で、そう言った。
「だったら、どうすればいいの。馬小跳に動物病院に連れていってもらって治療してもらおうか」
ぼくはそう答えた。
「それが一番いいと思うわ。でもその前に、わたしにもできるだけのことをさせて」
妻猫がそう言った。
「どうするのだ?」
ぼくは聞き返した。
「ここからは少し遠いけど、西山の山頂付近に血竜草という薬草が生えていて、それを傷口にすり込めば、とても効能があると聞いています。その薬草をつけたら治るかどうか分かりませんが、ものは試しと言うから、わたしはこれから、その薬草を採りにいってきます」
妻猫がそう言った。ぼくはそれを聞いて、妻猫の思いやりに感激した。でも、ぼくは首を横に振った。
「お母さんの気持ちはうれしいけれど、西山は、ここから遠すぎるよ。それに、あの山には凶暴な野獣がたくさんいるので、行くのは危ないよ」
ぼくはそう言った。
「何を言っているのよ、お父さん。わたしはお父さんが大好きだから、お父さんの傷を治すためには、火の中にでも飛び込んでいくわ」
それを聞いて、ぼくには返す言葉がなかった。
「お父さん、覚えていますか。わたしの耳が聞こえなくなった時、お父さんは、兔耳草という薬草を取りに藍山に行ってくれたではないですか。あの時、お父さんはとても危ない目に遭ったと話していたではありませんか。今度は、わたしが、そのお返しをする番です。たとえどんなに危険な山であっても、わたしは絶対に行きます」
妻猫がそう言った。妻猫の決意は石よりも固いので、ぼくがどんなに思いとどまらせようとしても無駄だと分かっている。ぼくはしかたなく妻猫を西山に行かせることにした。
「わかった。恩に着るよ。くれぐれも無理はしないで、気をつけて行ってきてください」
ぼくはそう言って、妻猫を送り出した。夜はまだ明けていなかったし、雨もまだ降り続いていたが、妻猫は一刻も早いほうがいいと言って、暗いなか、ビニール袋を首にかけてうちを出ていった。
妻猫が出ていってからまもなく、老いらくさんがやってきた。ぼくはびっくりして
「老いらくさん、どうしたのですか」
と聞いた。
「妻猫は、どこへ行ったのだ」
老いらくさんがけげんそうな顔をして、ぼくに聞いた。
「西山の山頂に自生している薬草を取りに行きました」
ぼくはそう答えた。
「血竜草だろう」
老いらくさんがそう言った。
「そうです」
ぼくはうなずいた。老いらくさんは博学で、薬草の名前にも詳しかったので、ぼくは感心していた。
「血竜草は傷の治療薬として知られている有名な薬草だ。わしも以前、けがをした時、子孫に取りにいってもらってつけたら治ったことがある」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか。でも西山は遠くて危険なところですから、ぼくは行かせたくなかったです。でも妻猫がどうしても行くと言って,我を張ったので、行かせるしかなかったです」
ぼくはそう答えた。
「お前と妻猫は艱難辛苦をともにして、切っても切れないほど深い愛で結ばれているから、お互いに相手のことを思って、危険をものともしないで有言実行するからな」
老いらくさんがそう言った。
「ぼくが以前、妻猫のために兔耳草という薬草を取りに藍山に行ったことを、妻猫は覚えていて、そのお返しだと言って、妻猫は出ていきました」
ぼくはそう答えた。
「そうか。いい奥さんを持つことができて、お前は本当に幸せだなあ」
老いらくさんがそう言った。ぼくはそれを聞いて、面映ゆくなった。
「ありがとうございます。ぼくは世界で一番幸せな猫かもしれません」
ぼくは照れながら老いらくさんに、そう答えた。