〈side悠真〉

「一ノ瀬さん、適当に座ってください。お茶淹れますね」

「は、はい、あの、お構いなく……」

借りてきた猫とはまさに今の俺のことで、とりあえず言われた通りに腰を下ろした。

「一ノ瀬さん?!床でなくソファか椅子にどうぞ座って下さい」

「あ、すみません……」

言われたまま椅子に座り直す。
今日、メールで彼女とやり取りしていたときは、まさかこんな展開になるとは思わなかった。
今、俺は彼女の部屋にお邪魔している。

部屋に対してかなり大きめのダイニングテーブル。椅子は六脚。
壁際の一席にはデスクトップが置かれていて、パソコン机を兼ねているのだろう。
整然とした空間、何やらハーバルな爽やかな香り。

──なぜこんなことになったのかというと。

時刻は15時を少し回ったころ。
ちょうど若手の峯田から社内コンペの相談を受けている最中に、彼女から返信が届いた。
デスクトップに新着メッセージの知らせ。

「──っと、悪いちょっと待って」

画面に目を釘付けにした俺に、峯田が上目遣いに小声で言った。

「また改めますよ、一ノ瀬さん。めっちゃ顔が緩んでますけど、女ですね」

「いや、え、顔……出てた?」

誤魔化す余裕はなかった。

「はい、分かりやすく」

「いや、悪い、大丈夫。コンペの企画内容についてだったな。ペットボトルのお茶、ターゲットは若い女性、従来品と一線を画すデザイン。俺も審査員なもんであまり直接的なアドバイスはできないけど……うん、とてもいいと思う。いいとこいくんじゃないか?」

社内コンペの概要を確認しながら峯田の企画書を見る。

「いいとこじゃだめです、1位じゃないと」

「じゃぁ募集要項をもう一回見ることだね」

今回は社内コンペだから、他の奴らよりセンスも発想力もあるって見せつけるのもクリエイターとしては大事。
だけど何を求められてるか見極めて、その上で自分の色を出せるかどうか。
そこをハズさない奴が勝つ。

「趣旨から外れるってことですか」

「いや、そこまでじゃない。でも足りないかな」

「審査員の顔もちらついて、どうしたらウケるか考えてしまって」

「分かるよ、そういう戦略も大事。今回の審査員の中では山下さんと仁藤さんが一番評価取るの難しいだろうな、二人とも好みの企画が真逆だから」

「一ノ瀬さんはすごいっすね、そういうどっちからも評価を取るってことができたんでしょ」

「まぁね、でも俺は審査員の顔色を見たことはないかな。いいものを作れば問答無用で評価はついてくるって信じてたから」

「天才の言うことは参考にならないっす」

項垂れた峯田の肩を叩いた。

「大丈夫、いいもの作れてる。コピーは特にいいよ、俺も参考にしたいくらい」

作り直します、と顔を上げて峯田は出て行った。

5年後に飛んで、仕事自体はそれほど問題なくできそうだけど、人間関係だけは5年のブランクは大きい。すでに社内では一ノ瀬は健忘症かと噂になり、上から呼ばれて病院に行くように言わたところだ。

峯田が去ると俺はすぐさま結月さんに返信した。
結月さんからのメールは
「是非お会いしたいです。早速今夜はどうでしょうか。よろしければ夕食を兼ねて。」
という内容だった。

俺は返信するメールにスマホのメッセージアプリの連絡先を書き添えて送信した。



実は、2030年の俺のスマホには彼女の連絡先がすでに入っていた。

だがそれは、記憶のない五年間の中で俺が彼女に猛アプローチした名残なのだろう。
結月さんから個人の連絡先を教えてもらうまでは、この連絡先は封印。
その日のうちに無事に結月さんから返信のメールに個人の連絡先あって、
不自然に封印せずに済んだけど。


「振られた事実」には、今は考えずに蓋をしておこうと思う。
知らない記憶に縛られる必要はない。
彼女に対しては2025年の俺のままでいい。

そして終業と同時に職場を飛び出し、待ち合わせ場所へ。
彼女が現れる前から、胸の鼓動が落ち着かなかった。
たまにすれ違うだけでいいと思っていたのは誰だ、まったく…。本当はこんな機会(タイムリープは想定外として)を望んでいたのだと痛感する。

待ち合わせ場所には俺が先に着き、後から現れた彼女は俺に気がつくと小走りでやって来た。
何か都合のいい夢を見ているのかもしれない。
現実世界で死の淵を彷徨っている俺が、あり得ないことばかり起こっているこの今という夢を。

「一ノ瀬さん、すみません、お待たせしました」

息を切らせて目の前にやって来た彼女は、人並みに押されて俺の方によろけた。
それを受け止めた時に、彼女の体温が手に伝わり、ふわりと柔らかい香りが鼻孔をくすぐった。
いや、これが夢なわけあるか。

すみません、と離れた結月さんが思いがけないことを言った。

「あの、もしよければ……うちに来ませんか?話題が話題ですし、ちょっと見せたいものもありますし」

俺は固まった。

「……へ?」

「迷惑じゃなければですが。ごはんは何か買って、家で話しませんか?」

「は、はぃ……」

気づけば頷いていた。
同じ沿線で二駅違い。
こんなに近い距離で暮らしていたことに驚く。

当時の社内報に目を通して、
世界で初めてとなる個人向け未来予測AIといものを、うちの会社がリリースに関わる全ての宣伝活動を受け持つということで、LYNXに関する特集も念入りに組まれていた。

対談は自分の話しは他人事のように読んだけど、
彼女の開発への熱意、こだわり、謙虚さは文面を通して伝わってくるようだった。

初対面のような俺と歩いているはずなのに、結月さんは明るくて楽しい話題が豊富で、彼女と話すのは心地よかった。
その中身は職人気質のプログラマー、しかも天才的な。
きっと本当にめちゃくちゃ好きだったんだろうな、俺。
と、振られた俺に想いを馳せて遠い気持ちになった。


そして今、彼女のマンションにいる、というわけだった。
座る場所にソファではなく椅子を選んだのは直感だった。もしこの場所に彼女が恋人が座っているのなら――
なんとなくそこは避けたかった。

彼女は俺を家に招いても大丈夫なんだろうか。
俺を振って付き合ったという人とは今は──?