2030→2024 渋谷スクランブル交差点で二人が出会うまでの物語

廊下の奥から、足音が近づいてくる。
俳優のように整った顔立ちの男性が、柔らかな笑みを浮かべながら歩いてきた。
美咲の手が、パッと俺の腕から離れる。

「結月さん」

低く落ち着いた声。立ち居振る舞いのひとつひとつに無駄がない。
美咲がわずかに姿勢を正し、声のトーンを上げた。

「山根さん!すみません、社長をお待たせしてますね」

──社長秘書の山根さんです。
小声で美咲が伝えてくる。

「大丈夫ですよ、人の気配がしたので参っただけです」

山根は優しく微笑み、俺の方に目を向けた。

「一ノ瀬さん、お久しぶりですね。社長秘書の山根です。お変わりなかったですか?」

面識がある──?
LYNXリリースの時だろうか。
時期には触れず、当たり障りのない言葉を返す。

「山根さん、お久しぶりです。はい、ありがたいことに忙しい日々を送らせてもらっています」

「ご活躍は存じています。我が社がお世話になって以来、一ノ瀬さんのファンは多いですから。かく言う私もですよ」

「そんな……恐縮です。ますます精進します、ありがとうございます」

リップサービスだとしても、向けられる眼差しに温かいものを感じて俺は自然に頭を下げた。

「さあ、社長室へご案内します」



社長室の扉が静かに開いた。
ガラスの壁越しに夜景が広がり、街の灯りが滲んでいる。
中央のデスクから立ち上がった人物が、両手を大きく広げた。

「一ノ瀬く〜ん!!正直、また会えるとは思わなかった!!いやあ、嬉しいよ!」

その声と同時に、部屋の空気がぱっと明るくなる。

五十嵐社長。
クロノワークス創業者であり、LYNX開発の最高責任者。
雑誌で見る以上に華やかで明るい活力に溢れていた。けれど、笑っているその表情の奥に、人を見透かすような深さがある。

「あー、ごめん。君とは初めましてなんだよね」

軽く笑いながら、こちらに手を差し出す。
その軽さに含まれた重みを感じないはずなかった。時間を超えてきたという話を信じる柔軟な思考、美咲への強い信頼。
なんて大きな人なんだろうと思う。

「申し訳ありません、初めましてで……。五十嵐社長、お会いできて光栄です。様々な記事を拝読して、発想力と実行力に感銘を受けました」

五十嵐はその言葉を聞くと、口元を緩め、少しだけ頷いた。
まるで答え合わせをするように。

「やっぱり君は君だな」

ひと呼吸おいて、静かに続ける。

「──私が初めて会った一ノ瀬君も、同じことを言ったんだ」

笑顔のまま放たれたその言葉に、空気が一瞬、止まった。

「さて」

五十嵐社長がパンッと手を一つ打った。

「私しか知らない君たちとの思い出話しをしたいところだけど、それはそのうち居酒屋でやるとして」

俺の肩に手を置いてポンと打った。

「一ノ瀬君にも来てもらったしね、時間も限られている。今はやるべきことをするとしよう」

「社長、一ノ瀬さんには内容を話していません。2人のこと、昨日のデータを見てもらってもいいでしょうか?」

「もちろんだよ。一ノ瀬くん、頭に叩き込んでくれ、メモや撮影は不可だよ」

「はい、承知しました」

交差点で『彼』にぶつかったのは数日前のこと。でも俺は正直顔も思い出せない。
それくらい抽象的な存在を、どうやって個人を特定するに至ったのか。

興味はある。気にはなるけど、LYNXが社会インフラになり得たのは様々な膨大なデータを集約しているということでもある。

どうやってという部分は社内でもトップシークレットな部分だろう。社外の人間が触れていい部分ではない。

五十嵐社長が美咲を見て、美咲が頷き返すと会議用のデスクにポツンと置かれたPCを操作し始めた。

「座ろうか」

五十嵐社長が美咲の隣りに座るよう手で示した。

何かが始まる──
儀式の前のような静けさの中で、恐る恐る座った。

会議用のデスクには一人一人が座った時に見えるように液晶画面が埋め込まれている。
美咲の操作する画面と同じものが映し出されているようだ。

「一ノ瀬さん、昨夜割り出した交差点でぶつかった2人です」

美咲がそう言った次の瞬間、画面に2人の男女の名前、何枚もの写真、勤務先など個人情報が映し出された。

「すごいな……LYNXがいかに膨大で細かなデータを扱っているのか目の当たりにした気分だ……
結月さんは、ぶつかった人が彼女だと覚えてる?」

俺がそう尋ねると、美咲はゆるく頭を振った。

「正直、全く……ただ、一ノ瀬さんがぶつかった男性を知ってます」

「え?!そうなの??」

「はい、火曜に納品したシステムがあったんですが、その取引先の担当者でした。月曜日に電話で直接話していて。すごい偶然ですよね……」

「本当にすごい偶然……、いや偶然なのか?
なんか、神の采配というか、もはや神秘だと思う」


「さて、今夜はなぜこの2人がキーパーソンなのか。彼らの未来シナリオを確認して情報を得ようと思っている」

俺は質問をしようと軽く片手をあげた。

「確か、LYNXは他人の未来や過去を知ることはできないのでは?」

「その通り。でもここは社長室なんでね、何でもありさ」

渋谷の夜景を背景に五十嵐社長は両手を広げた。

「社長!誤解を招く言い方しないで下さい、もう……」

美咲がここで俺に体を向けた。

「一ノ瀬さん、社長でもLYNXの中枢システムを自由には使えませんので誤解しないで下さいね」

赤レンガ倉庫で管理モードについて教えてもらった。
最高機密レベルのシステムでアクセス権限がある者は限られる上、使用には厳しい審査があると。
社会的信頼を得たLYNXが、ザルのような社内倫理で運用されているはずもなく、社長といえども中枢システムを簡単には使用できないだろうことは想像に難くない。

「今回、監査の承認を受けて使用してるのであって、社長だからではありませんので」

五十嵐社長が「冗談なのに」といじけて見せた。
それから明るい声をあげた。

「さて、はじめようか。未来シナリオ生成システムを使うよ。KAIROS(カイロス)を起動」

音声認証なのだろう。
電子音の後に五十嵐社長の声に反応してシステムが起動した。

「余談なんだけどね、クロノワークスの社名を決める時、実はもう一つ候補があったんだ」

社長が腕を組んで窓に寄りかかり言った。

「ギリシャ語で時を意味する言葉が二つあってね」

五十嵐社長と目が合う。
俺は記憶のどこかにある知識を口にした。

「クロノスとカイロス、ですか」