〈LYNX Authority Mode使用申請書〉
申請者:結月 美咲(AI開発チーム)
社員番号:CW-0376
提出先:セキュリティ統括部門
申請日:2030年8月19日(月)
1.使用目的
パンデミック関連データにおける一部異常値の発生について検証するため。本件は厚生労働省より提出を求められている報告データに関連し、一時的に管理モード上で内部データの再解析を行う必要がある。
2.使用範囲・内容
・使用モジュール:LYNX Authority Mode (Ver.5.3β)
・対象データ群:PAN-2025-0815/感染症関連指標データ
・目的範囲:異常値発生源および該当人物群に紐づく行動ログの抽出・検証
3.申請理由(自由記入欄)
パンデミック関連データの変動要因の一つに「非登録個体群」の異常行動パターンが想定されます。
この現象がLYNXの予測精度にどの程度影響しているかを確認したいと考えています。
また、本件は将来的なシナリオ解析精度の改善にも寄与する可能性があることから、管理モードの使用を申請いたします。
――
社長室から戻ると、ちょうど昼休みが始まるところだった。
私は急いでデスクに戻り、WEB上の申請書フォームを呼び出した。入力した文面を何度も読み返しては、カーソルが「送信」ボタンの上で止まる。
(……これでいいのかな)
セキュリティ部が不審と判断すれば、次はない。
けれど、社長室を出るときに言われた言葉が背中を押した。
「理由は私に最初に言った通りで構わない。
一般社員の申請は必ず私に報告が来る。出してさえくれたらこちらで何とかする」
「ありがとうございます、今日中に申請します」
「私の都合で悪いけど、管理モードの使用は夜間になるだろう。
いつでもいけるように時間を空けておいてくれよ」
「もしかすると、社長が立ち会って下さるんですか?」
「管理モードは複数のシステムを搭載しているからね。使用するならアドバイザーが必要だろう?」
そのときの笑みを思い出すと背中を押してもらった気がした。社長が何とかしてくれる。
よろしくお願いします……!
【送信】
祈るような気持ちで思い切ってクリックした。
『申請を送信しました。セキュリティ部での審査後、承認可否が通知されます。』
画面の文字を見届けて、ふうっと息を吐いた。
午後は明日納品予定の「アストレイ・システムズ社」向けシステムの不具合対応に追われた。
モニターには「アストレイ・システムズ納品パッケージ Ver.1.0.8」
ステータスバーに「不具合検出:2件」の赤い文字。
「一件はUIまわりですけど、もう一件が微妙ですね。閾値の自動補正が効いてません」
同僚の和泉くんがそう声をかけてきた。
「どこで切れてる?」
「解析モジュールの途中……たぶんスイッチングの条件分岐です」
「見せて」
椅子を譲ってもらい、コードを流し読みする。
「ここ、条件式の比較演算子が逆だわ。これだと閾値が常に上限超え扱いになる」
「……ほんとだ。気づかなかった、すみません」
「修正は私がやるね、再ビルド後のテストは任せてもいい?」
「はい、了解です」
修正作業を終えたあと、ふとモニター端のプロジェクト名を見つめた。
「アストレイ・システムズ」──今更ながら聞き覚えのない会社名だ。
タスクバーからLYNXの業務支援ポータルを開き、会社情報を検索する。
ASTRAY SYSTEMS株式会社
本社所在地:東京都千代田区麹町
主要事業:防災・減災テクノロジー開発、都市危機管理システムの設計・運用
担当者:朝日奈 凪(技術開発本部 防災ソリューション部 主任)
防災系……
クロノワークスが防災システムまで手掛けてたなんて。私がいた2025年には、まだリストになかったはず。
その時、内線電話が鳴った。
「はい、結月です」
「美咲さーん、外線です。アストレイ・システムズ社の朝日奈さんからです」
後輩の圭子だった。
「ありがとう、回して」
ちょうど画面に表示していた会社情報。
その担当者名をクリックすると名刺データが開いた。
受話器の向こうが外線に切り替わる。
「お待たせしました。AI開発チーム結月です」
「お忙しいところ失礼します、アストレイ・システムズの朝日奈です。解析モジュールでアラートが頻発していて……確認をお願いできますか?」
少し若い声。丁寧で、どこか緊張した様子だった。
「ご心配おかけして申し訳ありません。すでにこちらでも検出していて、原因は特定済みです。条件式の不備で、今対応中です」
「なるほど、そうでしたか。明日の納品には……?」
「はい、あと一時間ほどで修正版を上げて再テストに入ります。納品時間には影響しません、ご心配おかけして申し訳ありません」
「いや、こちらこそありがとうございます。さすがクロノワークスさんですね」
「こちらこそ、ご確認感謝します。完了次第ご連絡しますね」
通話が終わり、受話器を置いた。
システム開発・納品前の現場では、最終チェックで不具合が発見され、夜通し対応するというのは日常茶飯事レベルの出来事だ。
21時前、担当の朝日奈さんに修正版の納品完了報告を送信。
思ったより早く対応が完了してホッとした。私は深く息をつき、モニターを閉じた。
(今日、社長と話したこと。一ノ瀬さんにも伝えたいけど…)
廊下の窓から見える夜景の中にセレスティア社のビルがある方向を見つめる。
22時
悠真くんに会って話したい…
けれど──この時間に「会いたい」と言うには、勇気が足りなかった。
申請者:結月 美咲(AI開発チーム)
社員番号:CW-0376
提出先:セキュリティ統括部門
申請日:2030年8月19日(月)
1.使用目的
パンデミック関連データにおける一部異常値の発生について検証するため。本件は厚生労働省より提出を求められている報告データに関連し、一時的に管理モード上で内部データの再解析を行う必要がある。
2.使用範囲・内容
・使用モジュール:LYNX Authority Mode (Ver.5.3β)
・対象データ群:PAN-2025-0815/感染症関連指標データ
・目的範囲:異常値発生源および該当人物群に紐づく行動ログの抽出・検証
3.申請理由(自由記入欄)
パンデミック関連データの変動要因の一つに「非登録個体群」の異常行動パターンが想定されます。
この現象がLYNXの予測精度にどの程度影響しているかを確認したいと考えています。
また、本件は将来的なシナリオ解析精度の改善にも寄与する可能性があることから、管理モードの使用を申請いたします。
――
社長室から戻ると、ちょうど昼休みが始まるところだった。
私は急いでデスクに戻り、WEB上の申請書フォームを呼び出した。入力した文面を何度も読み返しては、カーソルが「送信」ボタンの上で止まる。
(……これでいいのかな)
セキュリティ部が不審と判断すれば、次はない。
けれど、社長室を出るときに言われた言葉が背中を押した。
「理由は私に最初に言った通りで構わない。
一般社員の申請は必ず私に報告が来る。出してさえくれたらこちらで何とかする」
「ありがとうございます、今日中に申請します」
「私の都合で悪いけど、管理モードの使用は夜間になるだろう。
いつでもいけるように時間を空けておいてくれよ」
「もしかすると、社長が立ち会って下さるんですか?」
「管理モードは複数のシステムを搭載しているからね。使用するならアドバイザーが必要だろう?」
そのときの笑みを思い出すと背中を押してもらった気がした。社長が何とかしてくれる。
よろしくお願いします……!
【送信】
祈るような気持ちで思い切ってクリックした。
『申請を送信しました。セキュリティ部での審査後、承認可否が通知されます。』
画面の文字を見届けて、ふうっと息を吐いた。
午後は明日納品予定の「アストレイ・システムズ社」向けシステムの不具合対応に追われた。
モニターには「アストレイ・システムズ納品パッケージ Ver.1.0.8」
ステータスバーに「不具合検出:2件」の赤い文字。
「一件はUIまわりですけど、もう一件が微妙ですね。閾値の自動補正が効いてません」
同僚の和泉くんがそう声をかけてきた。
「どこで切れてる?」
「解析モジュールの途中……たぶんスイッチングの条件分岐です」
「見せて」
椅子を譲ってもらい、コードを流し読みする。
「ここ、条件式の比較演算子が逆だわ。これだと閾値が常に上限超え扱いになる」
「……ほんとだ。気づかなかった、すみません」
「修正は私がやるね、再ビルド後のテストは任せてもいい?」
「はい、了解です」
修正作業を終えたあと、ふとモニター端のプロジェクト名を見つめた。
「アストレイ・システムズ」──今更ながら聞き覚えのない会社名だ。
タスクバーからLYNXの業務支援ポータルを開き、会社情報を検索する。
ASTRAY SYSTEMS株式会社
本社所在地:東京都千代田区麹町
主要事業:防災・減災テクノロジー開発、都市危機管理システムの設計・運用
担当者:朝日奈 凪(技術開発本部 防災ソリューション部 主任)
防災系……
クロノワークスが防災システムまで手掛けてたなんて。私がいた2025年には、まだリストになかったはず。
その時、内線電話が鳴った。
「はい、結月です」
「美咲さーん、外線です。アストレイ・システムズ社の朝日奈さんからです」
後輩の圭子だった。
「ありがとう、回して」
ちょうど画面に表示していた会社情報。
その担当者名をクリックすると名刺データが開いた。
受話器の向こうが外線に切り替わる。
「お待たせしました。AI開発チーム結月です」
「お忙しいところ失礼します、アストレイ・システムズの朝日奈です。解析モジュールでアラートが頻発していて……確認をお願いできますか?」
少し若い声。丁寧で、どこか緊張した様子だった。
「ご心配おかけして申し訳ありません。すでにこちらでも検出していて、原因は特定済みです。条件式の不備で、今対応中です」
「なるほど、そうでしたか。明日の納品には……?」
「はい、あと一時間ほどで修正版を上げて再テストに入ります。納品時間には影響しません、ご心配おかけして申し訳ありません」
「いや、こちらこそありがとうございます。さすがクロノワークスさんですね」
「こちらこそ、ご確認感謝します。完了次第ご連絡しますね」
通話が終わり、受話器を置いた。
システム開発・納品前の現場では、最終チェックで不具合が発見され、夜通し対応するというのは日常茶飯事レベルの出来事だ。
21時前、担当の朝日奈さんに修正版の納品完了報告を送信。
思ったより早く対応が完了してホッとした。私は深く息をつき、モニターを閉じた。
(今日、社長と話したこと。一ノ瀬さんにも伝えたいけど…)
廊下の窓から見える夜景の中にセレスティア社のビルがある方向を見つめる。
22時
悠真くんに会って話したい…
けれど──この時間に「会いたい」と言うには、勇気が足りなかった。



