〈side 美咲〉
私は自分が貧血を起こしたのか
脳溢血か、とにかく倒れるのかもと思った。
ところがすぐにすっきりと視界が戻る。
なんだったんだろう?
ぶつかった女性はもういなかった。
違和感──
目眩がしただけなのに、何かが違うという違和感があった。けれど青信号が点滅を始める。
横断歩道に今入って来た人も、渡り途中の人も、一斉に小走りを始める。
渡らなきゃ、そう思ったその瞬間、視界に入った足元に気がついた。
今日はグリーンのフレアスカート、それにヒールは黒だったはず。
今はベージュのワンピースに白いスニーカーだった。
勘違い?いやそんなわけない。
バッグも違う。
さっきぶつかった女性と取り違えた?
まずい
あのバッグの中のPCには──
さらに、違和感の正体に気がついて思考が渋滞した。
ビルのあちこち、スクランブル交差点から見える限りの広告のせいだ。
「KAIじゃない…?」
その時、後ろから腕をつかまれた。
「待って、今何て?」
振り返ってびっくりした。
さっきすれ違ったちょっと好みのあの人だった。
「やば、赤だ。とりあえず」と彼が走り出して、手を引かれるように私も走った。
あれ、彼のシャツはさっきは──
「あの、すいません突然話しかけて。KAIじゃない、KAIの広告だったのに全部変わってる──って思った。ですよね?」
「はい、一面KAIの広告…でしたよね?ハイブランドの」
「はい、俺も断言します、どうなってんだ…」
うそ、どうしよう。私はというと、彼に話しかけられてちょっと、いやかなり動揺している。
こんな時なのに彼の左手に指輪はない──多分、独身!だなんてチェックして。
いやいや私は何を……。独身だとして、恋人がいないはずないし。
素敵な人だなと思っているだけでいい。
誰かを好きになって、好きになってもらって、付き合っても、煩わしいことの方が多い。
そんな付き合い方しかできないんだから。
「私、KAIのファンなので見間違えたりしてないです、絶対KAIの広告でした。
あ、そうだ、ちょっとすみません」
私はバッグの中を慌てて確認した。
社員証がある。私ので間違いない。
それからノートPCもある。ちゃんと私のだ。私しか貼らないだろうステッカーを貼っているからすぐ分かる。
良かった。
この中には企業秘密ともいえるものが入っているのだから。
「大丈夫ですか?」
「ちょっとバッグを他の人と取り違えたかなと思ったんですけど、大丈夫そうです」
この何かがおかしい時に、だからこそなのか、心の中が妙に舞い上がっていた。
彼からさりげなく柑橘系のフレグランスが香っているのもよく似合っていて、この空気を吸い込もうと深呼吸したくなる気持ちを抑える。
落ち着け、私。
私は話しかけられた時から気になっていたことを尋ねた。
「あの、勘違いならすみません、さっきは水色のシャツじゃなかったですか?」
彼は自分の左右の腕を見て、胸から下に目を向けた。
今気づいたようだ。
「え?あ、白……ほんとだ。え?」
「私も朝に着た服と違う気がして…バッグも靴も」
「あぁそうだ、緑のフレアスカートだった!」
彼のこの言葉に私はものすごく驚いた。
すれ違う人の服を全部覚えてるのかな…?!
「そうです、プレゼンがある日は緑のスカートって決めてるから私の勘違いはありえないんです。バッグも靴も違うし。でも中身は私ので…」
等
「なんなんだ、なんか変ですよね……CMも始まらないし」
9時40分
前のCMが終わっても、また別のCMになり、なかなかKAIのCMが始まらない。
「おかしいな…」
「はじまりませんね」
「看板の広告も変わってるのが何より変だし、職場行って確認する方が早いな……ってすみません、仕事ですよね、俺がつかまえてしまったから。時間大丈夫ですか?」
彼は腕時計を見るしぐさも素敵だった。
話しをすることはないと思っていた人と思いがけず話せた。もしも次に交差点ですれ違うなら会釈くらいしても許されるだろうか。
「私は職場すぐそこなので大丈夫です」
「俺もすぐそこなんで」
いろいろ腑に落ちないけど、とりあえず出勤しないと。じゃあ、と私が言いかけた時、彼が「あの」と続けた。
「CMのこと、広告看板も。確認したら連絡してもいいですか、迷惑でなければ」
──!
「はい、是非」
スマホの連絡先の交換は馴れ馴れしすぎるかと思い、名刺入れを取り出す。
今後、会釈程度はできる顔見知りであるためにここはビジネスライクにいく方がいいと判断した。
会社のメールに連絡を下さい、というくらいの方が多分いいだろう。
お互いにビジネスでの名刺交換のように名刺入れにのせて差し出した。
その時、同時に「えっ」と私と彼は叫んだ。
差し出した名刺だから自分からは逆に見えているのだけどすぐに気がついた。
「肩書きが…」
「俺も……え、どうなってんだこれ」
私は株式会社クロノワークスという急成長してきたテック系ベンチャー企業に勤務している。様々な予想システムで実績を積んだこの会社が今主軸にしているのは未来予測AI「LYNX」の研究開発だ。
入社4年目、私はその開発チームのメンバーとして勤務している。
「AIプロダクト開発部
未来予測AIチーム
R&Dエンジニア」
それが私の名前の上にあったはずだ。
今は、
「AIプロダクト開発部
未来予測AIチーム
主任研究員」
うちはベンチャーということもあって若手の昇進も評価次第で早いけど、社内でも入社4年目で主任研究員はあり得ない。
彼がスマホを手に画面を見る。
ホラー映画で怪奇をみた主人公のように、彼は信じられないものを見たと言わんばかりの表情をしていた。
「嘘だろ……ちょっとこれ……」
そう呟いて私にスマホを向けた。
私も信じられないものを見てしまい、自分のスマホでも確認した。
これは何か大規模障害としか思えない。
カレンダーの画面が示す今日は、
2030年8月15日──5年後だった。



