「一ノ瀬さん、この画面を見てもらえますか?」
一つ離れた席にいた俺は画面が見えるように隣に座った。一緒に覗き込む位置となると、必然的に腕が触れ合う距離になる。
──────────────
Query: "2025-08-15 09:25
[event_id:collision@crossing]
alt_action=avoid_contact"
Prediction summary:
├─ baseline: timeline-A
│ prob.0.82
│ outcome:routine-day
│ (start→end,stable)
│
└─ alternate: timeline-B
prob.0.74
- no-encounter[event_id:
collision@crossing,
subject=F]
- alternate-encounter[
event_id:collision@
crossing,subject=others(2)]
downstream impact:
key_interaction[preserved]
──────────────
「これは… avoid_contact…衝突回避、結月さんがぶつからなかった場合?
others(2)…別の誰か二人がぶつかってた…」
俺がぶつぶつと気になる単語を拾うと結月さんは小さく笑った。
「私が人にぶつからなかったら?って聞いてみました。翻訳は一ノ瀬さんには不要かもしれませんがLYNXはこんな感じで答えを出します」
=== LYNX-one / 翻訳ビュー ===
もし、あの日あの女性にぶつからなかったら――
一日は静かに始まり、静かに終わったでしょう。
けれど、その場にはあなた以外の二人がぶつかり、出会いの糸は結ばれていたのです。
==================
あえてぼんやりと輪郭をはっきりさせないようにしているのだろうか。LYNXは掴みどころがない翻訳をするものだ、というのが正直な感想だった。
それに──
「あなた以外の二人がぶつかり…ここは解釈が分かれそうだけど、誰と誰がってのはパターンは一つじゃさそう。でも出会いの糸は結ばれたは特定の男女だよね」
「はい、私もそう思います。これ、言い換えれば私がぶつかったからある男女は出会わなかった、ということですよね?」
俺は頷いた。
「確かにそういう意味になる…。でもLYNXは他人のことは教えないんじゃなかった?」
もしもスイッチは、過去から見た未来のストーリーということになる。だから過去に実際に起きたことなら事実として他人の事が回答に含まれてきてもおかしくはないだろうけど。
でも、これは起こらなかったことだ。
実際には結月さんは女性にぶつかった。
ぶつからなかった場合については「一日は静かに始まり、静かに終わったでしょう。」で充分な回答だろうと思う。
それを「あなた以外の二人がぶつかり、出会いの糸は結ばれていた」と、起こらなかった出来事をLYNXは確信を持って言っているようだった。
この回答は、LYNXの機能の範囲を超えているのではないか──
「そうなんですよね、実は私もこの回答は違和感があって…。私がこの5年間でいじったコードのせいかもしれないので、ちょっと後で調べてみますね。」
結月さんはこの回答をバグと考えているのかもしれなかった。俺は感覚的に、彼女は技術的に、この回答に違和感を感じている。
でも、嘘や偽りだと決めつける理由もないように感じてもいて、得られるはずのない答えを得てしまって、どうしたらいいのか分からない、というのが正直なところかもしれない。
この回答の違和感は結月さん自身のことも、ぶつかったから穏やかじゃない一日になったといわんばかりだ。
あれだけの人が往来するのに、意外と人にぶつかることがないのがスクランブル交差点だ。でももし、ぶつかったとしても、それだけの話しなんだ。
そのせいで、一日がいつもと変わるなんて普通はあるはずがない。
LYNXはまるで何かが結月さんに起こったことを知ってるような──
結月さんの指先がキーボードを叩いている。彼女が夢中で何かを創り上げていくその眼差しについ見惚れてしまう。
「パンデミックについては結月さんはこのこととの関連とか、何か思うところはあるの?」
「それなんですけど、今見やすいように……ちょっと待って下さいね」
上空から見た交差点の画像。
そこに4色の点滅するマーカーとグレーの無数のマーカー。
画面上部には心電図のような線が一本走っている。
「これから交差点上での私たちの動きを再
現しますね。赤がAの私、青が Bで一ノ瀬さん、紫が私がぶつかった女性でC、緑が一ノ瀬さんがぶつかった男性で Dです。グレーはその他の人ですね」
結月さんはそう説明しながら、A、B、C、Dをそれぞれ点滅して見せた。
「画面上部にある心電図みたいなのは未来の予測線です。パンデミックの収束期間を示す数値に絞って表示してます──関連があるなら動きがあると思います。あるいは…」
「あるいは?」
「関係ないならないで、それを確かめておきたいと思って…」
結月さんの口調は線は動くと確信しているように見えた。すると彼女がパッとこちらを見て、思いがけないことを言った。
「一ノ瀬さん、あの時交差点にはハチ公広場を背にして神宮町方向に進入しましたよね?」
この言葉に、俺は結月さんを真正面から見つめた。
「そう、だね…」
「私は東口で横断歩道を渡っているのでハチ公広場から見たら渡った側をヒカリエ方向から来て、文化村方向に渡りました。
で、一ノ瀬さんとここですれ違ったと思います…」
「はい…」
結月さん、君は今言ったその意味をわかってるんだろうか?そう問いたくなる。
あの時、俺と結月さんは、目眩がした後に初めて言葉を交わした。
その前から俺を認識していたと、俺を知っていたと言っている事に気がついているんだろうか。
『あの、勘違いならすみません、さっきは水色のシャツじゃなかったですか?』
そうだ、あの時も「何で?」って思ったんだ。
俺のシャツの色を知っていた。
でも、すれ違った瞬間を覚えていただけかもしれないと、その時は結月さんの言葉に意味を見出すことはすまいと受け流した。
俺が、結月さんが交差点の向こう側にいるとすぐに目に入っていたように。たくさんの人の中で、そこだけ色彩が鮮やかに見えたように。
それとは違うとしても、彼女がいろんな人を認識していて、俺はその大勢の中の一人だとしても、知っていてくれたことが嬉しくてたまらない。
「信号が青になって、私はCとぶつかったんです、ここです。
おそらく彼女は、ぶつかった方向を考えてもセンター街から交差点を小走りで渡ろうとしたんじゃないかと…」
頭の中がお花畑になってる自分を戒める。結月さんは、今、懸命に自分の運命を解析しようとしているというのに。
「俺は、Dとはほぼ正面からぶつかったから、彼は神宮町方向から、道のこのあたりをこう、来たんだと思う」
画面上を指さして伝えると、言うや否や、結月さんはすかさずコードを打ち込む。
そうだ、今は余計なことは考えず、彼女の思考に置いていかれないように。
「よし、じゃあいきますよ。これが交差点であったことです。それから私と一ノ瀬さんが交差点に進入しなかった場合の2パターンを同時に再現しますね。」
画面の右半分はコードがぎっしり打ち込まれたウィンドウが開き、左半分にグラフィックに変換された画面がある。
「あれ?動きが悪いな…ちょっと詰め込みすぎたかも。ちょっと調整しますね。コードは重なりが大事ですけど多ければいいというわけでもなくて」
重なり、か。
ふいにリコ・キリュウのことが頭をよぎる。
重なり…多くてもだめ…
企画が頭の中で形になるのをペンをとってノートにメモをした。
「いいヒントをもらった気がする。」
俺がそう言うと、結月さんの口元が上がった。
「一ノ瀬さんも仕事人間ですね。きっと頭の中はたくさんのアイデアやイメージでいっぱいなんですね」
今は頭の中は仕事のことだけじゃないんだけどなと、と思いながら、「君ほどじゃないけど」と言うと彼女の手が止まった。
「今気が付きました。すみません、こうやって夢中になってお茶も出してないや。朝ごはん食べましたか?カレーで良かったら…私、夜も食べそびれて」
「食べてないです、頂きます」
「分かりました、じゃあこのコードだけ直すので」
こうしてタイムリープなんてことにならなければ、こんな結月さんを知らずにいたんだな。
「待って待って、また食べそびれるから、食べてからにしよう!」
このよく分からない状況で何かを掴みかけ、自分の心にも抑えきれない何かが生まれていて、
人生でこんなに心が揺れ動いているのは初めてかもしれない。
結月さんのカレーはめちゃくちゃ美味しかった。
一つ離れた席にいた俺は画面が見えるように隣に座った。一緒に覗き込む位置となると、必然的に腕が触れ合う距離になる。
──────────────
Query: "2025-08-15 09:25
[event_id:collision@crossing]
alt_action=avoid_contact"
Prediction summary:
├─ baseline: timeline-A
│ prob.0.82
│ outcome:routine-day
│ (start→end,stable)
│
└─ alternate: timeline-B
prob.0.74
- no-encounter[event_id:
collision@crossing,
subject=F]
- alternate-encounter[
event_id:collision@
crossing,subject=others(2)]
downstream impact:
key_interaction[preserved]
──────────────
「これは… avoid_contact…衝突回避、結月さんがぶつからなかった場合?
others(2)…別の誰か二人がぶつかってた…」
俺がぶつぶつと気になる単語を拾うと結月さんは小さく笑った。
「私が人にぶつからなかったら?って聞いてみました。翻訳は一ノ瀬さんには不要かもしれませんがLYNXはこんな感じで答えを出します」
=== LYNX-one / 翻訳ビュー ===
もし、あの日あの女性にぶつからなかったら――
一日は静かに始まり、静かに終わったでしょう。
けれど、その場にはあなた以外の二人がぶつかり、出会いの糸は結ばれていたのです。
==================
あえてぼんやりと輪郭をはっきりさせないようにしているのだろうか。LYNXは掴みどころがない翻訳をするものだ、というのが正直な感想だった。
それに──
「あなた以外の二人がぶつかり…ここは解釈が分かれそうだけど、誰と誰がってのはパターンは一つじゃさそう。でも出会いの糸は結ばれたは特定の男女だよね」
「はい、私もそう思います。これ、言い換えれば私がぶつかったからある男女は出会わなかった、ということですよね?」
俺は頷いた。
「確かにそういう意味になる…。でもLYNXは他人のことは教えないんじゃなかった?」
もしもスイッチは、過去から見た未来のストーリーということになる。だから過去に実際に起きたことなら事実として他人の事が回答に含まれてきてもおかしくはないだろうけど。
でも、これは起こらなかったことだ。
実際には結月さんは女性にぶつかった。
ぶつからなかった場合については「一日は静かに始まり、静かに終わったでしょう。」で充分な回答だろうと思う。
それを「あなた以外の二人がぶつかり、出会いの糸は結ばれていた」と、起こらなかった出来事をLYNXは確信を持って言っているようだった。
この回答は、LYNXの機能の範囲を超えているのではないか──
「そうなんですよね、実は私もこの回答は違和感があって…。私がこの5年間でいじったコードのせいかもしれないので、ちょっと後で調べてみますね。」
結月さんはこの回答をバグと考えているのかもしれなかった。俺は感覚的に、彼女は技術的に、この回答に違和感を感じている。
でも、嘘や偽りだと決めつける理由もないように感じてもいて、得られるはずのない答えを得てしまって、どうしたらいいのか分からない、というのが正直なところかもしれない。
この回答の違和感は結月さん自身のことも、ぶつかったから穏やかじゃない一日になったといわんばかりだ。
あれだけの人が往来するのに、意外と人にぶつかることがないのがスクランブル交差点だ。でももし、ぶつかったとしても、それだけの話しなんだ。
そのせいで、一日がいつもと変わるなんて普通はあるはずがない。
LYNXはまるで何かが結月さんに起こったことを知ってるような──
結月さんの指先がキーボードを叩いている。彼女が夢中で何かを創り上げていくその眼差しについ見惚れてしまう。
「パンデミックについては結月さんはこのこととの関連とか、何か思うところはあるの?」
「それなんですけど、今見やすいように……ちょっと待って下さいね」
上空から見た交差点の画像。
そこに4色の点滅するマーカーとグレーの無数のマーカー。
画面上部には心電図のような線が一本走っている。
「これから交差点上での私たちの動きを再
現しますね。赤がAの私、青が Bで一ノ瀬さん、紫が私がぶつかった女性でC、緑が一ノ瀬さんがぶつかった男性で Dです。グレーはその他の人ですね」
結月さんはそう説明しながら、A、B、C、Dをそれぞれ点滅して見せた。
「画面上部にある心電図みたいなのは未来の予測線です。パンデミックの収束期間を示す数値に絞って表示してます──関連があるなら動きがあると思います。あるいは…」
「あるいは?」
「関係ないならないで、それを確かめておきたいと思って…」
結月さんの口調は線は動くと確信しているように見えた。すると彼女がパッとこちらを見て、思いがけないことを言った。
「一ノ瀬さん、あの時交差点にはハチ公広場を背にして神宮町方向に進入しましたよね?」
この言葉に、俺は結月さんを真正面から見つめた。
「そう、だね…」
「私は東口で横断歩道を渡っているのでハチ公広場から見たら渡った側をヒカリエ方向から来て、文化村方向に渡りました。
で、一ノ瀬さんとここですれ違ったと思います…」
「はい…」
結月さん、君は今言ったその意味をわかってるんだろうか?そう問いたくなる。
あの時、俺と結月さんは、目眩がした後に初めて言葉を交わした。
その前から俺を認識していたと、俺を知っていたと言っている事に気がついているんだろうか。
『あの、勘違いならすみません、さっきは水色のシャツじゃなかったですか?』
そうだ、あの時も「何で?」って思ったんだ。
俺のシャツの色を知っていた。
でも、すれ違った瞬間を覚えていただけかもしれないと、その時は結月さんの言葉に意味を見出すことはすまいと受け流した。
俺が、結月さんが交差点の向こう側にいるとすぐに目に入っていたように。たくさんの人の中で、そこだけ色彩が鮮やかに見えたように。
それとは違うとしても、彼女がいろんな人を認識していて、俺はその大勢の中の一人だとしても、知っていてくれたことが嬉しくてたまらない。
「信号が青になって、私はCとぶつかったんです、ここです。
おそらく彼女は、ぶつかった方向を考えてもセンター街から交差点を小走りで渡ろうとしたんじゃないかと…」
頭の中がお花畑になってる自分を戒める。結月さんは、今、懸命に自分の運命を解析しようとしているというのに。
「俺は、Dとはほぼ正面からぶつかったから、彼は神宮町方向から、道のこのあたりをこう、来たんだと思う」
画面上を指さして伝えると、言うや否や、結月さんはすかさずコードを打ち込む。
そうだ、今は余計なことは考えず、彼女の思考に置いていかれないように。
「よし、じゃあいきますよ。これが交差点であったことです。それから私と一ノ瀬さんが交差点に進入しなかった場合の2パターンを同時に再現しますね。」
画面の右半分はコードがぎっしり打ち込まれたウィンドウが開き、左半分にグラフィックに変換された画面がある。
「あれ?動きが悪いな…ちょっと詰め込みすぎたかも。ちょっと調整しますね。コードは重なりが大事ですけど多ければいいというわけでもなくて」
重なり、か。
ふいにリコ・キリュウのことが頭をよぎる。
重なり…多くてもだめ…
企画が頭の中で形になるのをペンをとってノートにメモをした。
「いいヒントをもらった気がする。」
俺がそう言うと、結月さんの口元が上がった。
「一ノ瀬さんも仕事人間ですね。きっと頭の中はたくさんのアイデアやイメージでいっぱいなんですね」
今は頭の中は仕事のことだけじゃないんだけどなと、と思いながら、「君ほどじゃないけど」と言うと彼女の手が止まった。
「今気が付きました。すみません、こうやって夢中になってお茶も出してないや。朝ごはん食べましたか?カレーで良かったら…私、夜も食べそびれて」
「食べてないです、頂きます」
「分かりました、じゃあこのコードだけ直すので」
こうしてタイムリープなんてことにならなければ、こんな結月さんを知らずにいたんだな。
「待って待って、また食べそびれるから、食べてからにしよう!」
このよく分からない状況で何かを掴みかけ、自分の心にも抑えきれない何かが生まれていて、
人生でこんなに心が揺れ動いているのは初めてかもしれない。
結月さんのカレーはめちゃくちゃ美味しかった。



