〈side 悠真〉
まだ8時か──。
毎朝の日課のランニングを、今朝は3倍も走ってしまった。
五年後の自分の体力が衰えていないことに、少し安心する。
朝が待ち遠しくてろくに眠れず、
約束の9時までがやけに長い。走るしかなかった。
川沿いの桜並木を走り抜ける時に必ず目に入る独特な景観のカフェがある。高名な建築家が手掛けたその建物の奥には巨大な焙煎機が鎮座し、週末ともなれば朝から整理券が配布されるほどの人気だが、それは5年経った今でも変わらないようだ。
結月さんは紅茶が好きそうだったけど、ここは珈琲だけではなくお茶のフロアもあるから、もし来たことがないなら──と、邪なことを考えながら足を速めた。
昨夜、結月さんに電話してしまったのは、高揚感からだった。
リコ・キリュウ ブライダルサロンとの会食を終え、三神と少し飲み直した帰り道。
嬉しいことがあって、つい声が聞きたくて、衝動的に。
──昨晩のこと。
リコ・キリュウとの席は、完全に「俺を口説く場」だった。
広報部長、マーケティング部長、そして若手社員。こちらも営業部長が同席している以上、社として意思決定がされる場であるのは明らかだった。
「新しいブライダルシーンを提案し、伝統を未来へつなげたい。その象徴を100周年で示したい」
「それを映像で実現できるのは、一ノ瀬さん、あなたしかいない。ÉtoiléeのCMには震えました」
そういうことをリコ・キリュウ側は熱心に伝えていた。
──革新
その言葉が何度出たか分からない。
100年の節目に経営もブランドも伝統にとらわれない新しい風を巻き起こしたい。
そこで俺に白羽の矢が立ったのだという話しを高い熱量で伝えてくれていた。
伝統あるブランドが俺を指名してくれることは光栄だということを丁寧に伝えた。
それでも胸にひっかかるのは──
「一つ、条件を提示してもよろしいでしょうか」
ブライダルチームを無視したまま進めることはできない。
俺は言葉を選びながら伝えた。
「リコ・キリュウの本流はこれまで通りブライダルチームに任せて頂けないでしょうか……その上で、私は、100周年イベントや新ブランドを担当したいと思います。そうすることで伝統を守りながら革新も打ち出せる、どちらも両立できるはずです」
俺の言葉にリコ・キリュウの広報部長は相好を崩した。
「なるほど。伝統と革新の両立……その言葉、ぜひ社に持ち帰りたいと思います。」
「私もブライダルチームと一度話しをしてから正式な返事をさせて下さい」
そこからは和やかな会食の場となった。
三神が考えている100周年のイベントの話しで盛り上がり、VRを使った内容はさすがだった。
「タイムリープですよ、足元が崩れて真っ暗になり、光が戻ると桐生璃子がドレスを縫っている空間へ。からの!はい、こちら絵コンテでございます」
リコ・キリュウ側の2人の部長はその絵コンテを見ながら目を丸くしたりしながらも、最後は目尻を拭っていた。
奇抜なようでちゃんとしてる。三神は5年後も三神らしくてすごいなと素直に思った。
タイムリープという言葉に落ち着かない気分にさせられたけど。
そう、胸に引っかかるのはもう一つある──
会食後、三神と飲みなおして別れた。
家に帰る道すがら着信。
見るとさっき一緒だったリコ・キリュウの広報部長からだった。出ると、社に戻ったところだと言い、社長に代わると言う。驚いているうちに、柔らかくも威厳のある声が耳元に届いた。
「こんばんは、一ノ瀬悠真さん。私、リコ・キリュウの桐生眞子と申します」
──現社長
創業家の孫にして、現在七十歳。挨拶を返しながら思わず足が止まり、街灯の下で背筋を伸ばした。
「一ノ瀬さん、同じ話になりますが、次の100年を生き抜くブランドだと社内外に強くメッセージを出すために、あなたにお力添えをお願いしたいのです」
胸につかえているのは俺は期待されている俺ではないということだ。
「ありがたいお言葉ですが、買い被り過ぎではないでしょうか」
「いいえ、一ノ瀬さん。私、今回活躍されているクリエイターさん方の映像を拝見して、その上であなたにお願いしたいと思ったんです。それに…」
桐生眞子が言葉を切ったので続きを待った。
「あなたがあの映像を作った方だと知って、絶対お願いしたいと思ったんです」
あの映像…?
どの映像か伺ってもよろしいでしょうか、と尋ねると、返ってきたのは意外な答えだった。
「白月化粧品の映像、もう7、8年前かしら。朝の光の中で若い女性がふと笑う。どんなシチュエーションなのか話題になったわよね?私はあの横顔に恋をしていた自分を重ねたわ、若い日のもう戻れない時間。懐かしくて、泣きそうになったわ…」
白月化粧品、俺が26歳のときの──
LYNXやÉtoilée本ラインではなく、そこが来るとは思いもしなかった。
過去の映像を覚えていて、こうして俺に託してくれている。
胸が熱くなった。
2030年に来てから、過去と未来が途切れてしまったような、俺は存在してるのかさえ分からなくなりそうだった。けれどちゃんと繋がっている。確かに。
胸に支えていたものが取れたような気がした。
「改めてお願いしますわ、一ノ瀬さん。どうか我が社の未来への一歩を貴方にお任せできないかしら」
その瞬間、決意は自然に口をついて出た。
社内の手続き的なこともまだだと言うのに。
「……はい、喜んでお引き受けいたします」
通話を終えたあと、しばらく夜空を仰いで立ち尽くした。
それから気づけばスマホを操作していた。
結月さんと話したかった。
ワンコールで出た彼女の声は少し慌てたようで、
でも柔らかく心地よく響いた。
彼女にとっては不幸な出来事かもしれないけど、
俺は今この未来に一緒にいるのが結月さんでよかったと心から思った。
土日会えないか、言っていいか迷っていると結月さんが話があるから明日来てほしいと言った。
嬉しいのと同時に何があったのか不安になる。でも彼女の声に暗さはない。
「朝なら朝カレーがありますし、昼も夜もカレーですけど、それでよければいつでも」
いつでもいいなら今からでもいいかと言いそうになって、堪えた。
「朝行きます。8時……いや、9時に」
「分かりました。もっと早くても構いませんからね」
通話を切っても、胸の奥に温かな熱が残っていた。
まだ8時か──。
毎朝の日課のランニングを、今朝は3倍も走ってしまった。
五年後の自分の体力が衰えていないことに、少し安心する。
朝が待ち遠しくてろくに眠れず、
約束の9時までがやけに長い。走るしかなかった。
川沿いの桜並木を走り抜ける時に必ず目に入る独特な景観のカフェがある。高名な建築家が手掛けたその建物の奥には巨大な焙煎機が鎮座し、週末ともなれば朝から整理券が配布されるほどの人気だが、それは5年経った今でも変わらないようだ。
結月さんは紅茶が好きそうだったけど、ここは珈琲だけではなくお茶のフロアもあるから、もし来たことがないなら──と、邪なことを考えながら足を速めた。
昨夜、結月さんに電話してしまったのは、高揚感からだった。
リコ・キリュウ ブライダルサロンとの会食を終え、三神と少し飲み直した帰り道。
嬉しいことがあって、つい声が聞きたくて、衝動的に。
──昨晩のこと。
リコ・キリュウとの席は、完全に「俺を口説く場」だった。
広報部長、マーケティング部長、そして若手社員。こちらも営業部長が同席している以上、社として意思決定がされる場であるのは明らかだった。
「新しいブライダルシーンを提案し、伝統を未来へつなげたい。その象徴を100周年で示したい」
「それを映像で実現できるのは、一ノ瀬さん、あなたしかいない。ÉtoiléeのCMには震えました」
そういうことをリコ・キリュウ側は熱心に伝えていた。
──革新
その言葉が何度出たか分からない。
100年の節目に経営もブランドも伝統にとらわれない新しい風を巻き起こしたい。
そこで俺に白羽の矢が立ったのだという話しを高い熱量で伝えてくれていた。
伝統あるブランドが俺を指名してくれることは光栄だということを丁寧に伝えた。
それでも胸にひっかかるのは──
「一つ、条件を提示してもよろしいでしょうか」
ブライダルチームを無視したまま進めることはできない。
俺は言葉を選びながら伝えた。
「リコ・キリュウの本流はこれまで通りブライダルチームに任せて頂けないでしょうか……その上で、私は、100周年イベントや新ブランドを担当したいと思います。そうすることで伝統を守りながら革新も打ち出せる、どちらも両立できるはずです」
俺の言葉にリコ・キリュウの広報部長は相好を崩した。
「なるほど。伝統と革新の両立……その言葉、ぜひ社に持ち帰りたいと思います。」
「私もブライダルチームと一度話しをしてから正式な返事をさせて下さい」
そこからは和やかな会食の場となった。
三神が考えている100周年のイベントの話しで盛り上がり、VRを使った内容はさすがだった。
「タイムリープですよ、足元が崩れて真っ暗になり、光が戻ると桐生璃子がドレスを縫っている空間へ。からの!はい、こちら絵コンテでございます」
リコ・キリュウ側の2人の部長はその絵コンテを見ながら目を丸くしたりしながらも、最後は目尻を拭っていた。
奇抜なようでちゃんとしてる。三神は5年後も三神らしくてすごいなと素直に思った。
タイムリープという言葉に落ち着かない気分にさせられたけど。
そう、胸に引っかかるのはもう一つある──
会食後、三神と飲みなおして別れた。
家に帰る道すがら着信。
見るとさっき一緒だったリコ・キリュウの広報部長からだった。出ると、社に戻ったところだと言い、社長に代わると言う。驚いているうちに、柔らかくも威厳のある声が耳元に届いた。
「こんばんは、一ノ瀬悠真さん。私、リコ・キリュウの桐生眞子と申します」
──現社長
創業家の孫にして、現在七十歳。挨拶を返しながら思わず足が止まり、街灯の下で背筋を伸ばした。
「一ノ瀬さん、同じ話になりますが、次の100年を生き抜くブランドだと社内外に強くメッセージを出すために、あなたにお力添えをお願いしたいのです」
胸につかえているのは俺は期待されている俺ではないということだ。
「ありがたいお言葉ですが、買い被り過ぎではないでしょうか」
「いいえ、一ノ瀬さん。私、今回活躍されているクリエイターさん方の映像を拝見して、その上であなたにお願いしたいと思ったんです。それに…」
桐生眞子が言葉を切ったので続きを待った。
「あなたがあの映像を作った方だと知って、絶対お願いしたいと思ったんです」
あの映像…?
どの映像か伺ってもよろしいでしょうか、と尋ねると、返ってきたのは意外な答えだった。
「白月化粧品の映像、もう7、8年前かしら。朝の光の中で若い女性がふと笑う。どんなシチュエーションなのか話題になったわよね?私はあの横顔に恋をしていた自分を重ねたわ、若い日のもう戻れない時間。懐かしくて、泣きそうになったわ…」
白月化粧品、俺が26歳のときの──
LYNXやÉtoilée本ラインではなく、そこが来るとは思いもしなかった。
過去の映像を覚えていて、こうして俺に託してくれている。
胸が熱くなった。
2030年に来てから、過去と未来が途切れてしまったような、俺は存在してるのかさえ分からなくなりそうだった。けれどちゃんと繋がっている。確かに。
胸に支えていたものが取れたような気がした。
「改めてお願いしますわ、一ノ瀬さん。どうか我が社の未来への一歩を貴方にお任せできないかしら」
その瞬間、決意は自然に口をついて出た。
社内の手続き的なこともまだだと言うのに。
「……はい、喜んでお引き受けいたします」
通話を終えたあと、しばらく夜空を仰いで立ち尽くした。
それから気づけばスマホを操作していた。
結月さんと話したかった。
ワンコールで出た彼女の声は少し慌てたようで、
でも柔らかく心地よく響いた。
彼女にとっては不幸な出来事かもしれないけど、
俺は今この未来に一緒にいるのが結月さんでよかったと心から思った。
土日会えないか、言っていいか迷っていると結月さんが話があるから明日来てほしいと言った。
嬉しいのと同時に何があったのか不安になる。でも彼女の声に暗さはない。
「朝なら朝カレーがありますし、昼も夜もカレーですけど、それでよければいつでも」
いつでもいいなら今からでもいいかと言いそうになって、堪えた。
「朝行きます。8時……いや、9時に」
「分かりました。もっと早くても構いませんからね」
通話を切っても、胸の奥に温かな熱が残っていた。



