野いちご源氏物語 三五 柏木(かしわぎ)

「長くご病気のわりにはそれほどお変わりありませんよ。かえっていつもよりお美しいくらいだ」
そうおっしゃるそばから涙がこぼれるけれど、ぬぐってお続けになる。
「『私たちは親友だからどちらかが先に死ぬことはしない』とお約束しましたのに。悲しいお約束でした。ご病気がこれほど重くなった理由もお聞きしていません。親友の私にも秘密ですか」

衛門(えもん)(かみ)様は弱々しい声でお話しになる。
「いつから重くなったということはないのです。どこが痛むということもない。だからあっという間に弱ってしまって、今では正気(しょうき)もあるのだかないのだか分かりません。死にたくないとあがいているつもりはないけれど、両親が必死にお祈りをさせていますからね。それが()いているのでしょう。かえって苦しいから、いっそ早く死んだ方が楽になれると思うのですよ。
しかしいざ死ぬとなると何かと心残りがあります。(おや)孝行(こうこう)中途(ちゅうと)半端(はんぱ)で、それどころか年老いた両親にひどく心配をかけている。(みかど)にもまだまだお仕えしたかった。政治家としてお役に立てなかった後悔(こうかい)はいつまでも残りましょう。

このあたりは誰にでも話せる心残りだけれど、個人的なことで、深く思い悩んでいることがあります。秘密にしたまま死ぬべきと分かっていながらも、私の胸ひとつに収めておくのは()えられそうにない。打ち明けるなら、たくさんいる弟たちでは駄目(だめ)なのです。あなたでなければ。源氏(げんじ)(きみ)のご子息の、あなたでなければ」

<いったい何のことだろう>
大将(たいしょう)様はぞわりとなさる。
「一年近く前、源氏の君と小さな行き違いがありました。そのお怒りを怖れているうちに病気がちになったのです。祝賀(しゅくが)(かい)の予行演習を覚えていますか。昨年の年末、私も六条(ろくじょう)(いん)にお招きいただいたけれど、どうにも体調が悪くて途中で退席したのです。
実はあの直前、私は源氏の君から(にら)まれました。どなたもお気づきにならなかっただろうが、私には、源氏の君は私をお許しになっていないのだと分かりました。あの目を見てしまったときから、ますますもう生きていられないような気がして、心がざわざわと落ち着かなくなってしまったのです。

たいした身分でもない私を幼いころからかわいがってくださいまして、私の方も深くご信頼しておりましたから、あくまでもほんの行き違いだと思うのですが、それが成仏(じょうぶつ)(さまた)げにもなりそうです。何かのついでに、どうかこのことをうまく源氏の君にお伝えください。たとえ死んだあとになりましても、源氏の君にお許しいただけたら、あの世であなたに感謝いたしましょう」

お話しなさる間もどんどんご容態(ようだい)はお悪くなっていく。
大将様は<(おんな)(さん)(みや)様のことだろうか>と思い当たるけれど、はっきりとはおっしゃらない。
「あなたの方で何か勘違いをなさっているのではありませんか。父にそのような気配(けはい)はまったくありませんよ。あなたのご病気が重いことを聞いて、これ以上ないほど驚き(なげ)いて残念がっております。もっと早く言ってくださればよかったのに。どのような行き違いや勘違いがあったとしても、私にお(まか)せくだされば、きっと元どおりの仲に戻してさしあげましたよ。私を頼ってほしかった」
おそらく姫宮(ひめみや)様をめぐる問題だろうけれど、衛門の督様のお命を救うためなら、代わりに父君(ちちぎみ)に頭を下げることだってしたのに、と本気で()やんでいらっしゃる。

それが伝わったのか、衛門の督様は少しほほえまれる。
「そうですね、少し病状が落ち着いていたころにお願いしておけばよかった。まさかこれほど早く衰弱(すいじゃく)するとは思わなくて、のんびりしすぎていました。この話はどうかご内密(ないみつ)に。ちょうどふさわしいついでがあれば、ということで念のためにお話ししただけですから。
それと(おんな)()(みや)様のことですが、私が死んだらたびたび見舞ってさしあげてください。未亡人(みぼうじん)になられたことを入道(にゅうどう)上皇(じょうこう)様はかわいそうにお思いになるでしょうが、あなたがお見舞いくだされば、それでも世間から大切にされているとご安心なさるでしょう」

遺言(ゆいごん)なさりたいことはまだおありのようだったけれど、しだいに気が遠くなっていかれる。
「もうご出発なされませ」
出口の方にふらふらとお手を向けられる。
その手がぱたりと落ちた。
大将様が人をお呼びになると、僧侶(そうりょ)たちがどっとご病室に入ってきて、ご両親や弟君(おとうとぎみ)たちが集まっていらっしゃる。
女房(にょうぼう)たちもばたばたと騒ぎ出すので、大将様は泣く泣くご退出なさる。