野いちご源氏物語 三四 若菜(わかな)下

妖怪(ようかい)のしわざかもしれない。むやみに騒いではならぬ」
女房(にょうぼう)たちを落ち着かせて、僧侶(そうりょ)たちにお祈りをお命じになる。
ご自身でも、
「もう一度だけ会わせてくださいませ。亡くなるそのときにそばにいてあげられなかったのは、あまりに(くや)しく悲しいことでございます」
と必死にお祈りになる。

源氏(げんじ)(きみ)まで亡くなってしまうのではないかというようなご様子なので、女房たちは混乱と心配でおろおろしながら拝見している。
お祈りが(ほとけ)様に届いたのかしら、これまで出てこなかった妖怪がついに姿を現した。
病室にいた女童(めのわらわ)に乗り移って大声で(さけ)()す。
それと同時に(むらさき)(うえ)は息を吹き返しなさった。

妖怪が女童の口を借りて言う。
「他の者は出ていけ。源氏の君にだけ申し上げたいことがある」
僧侶や女房たちが驚きながら退出する。
「私を消そうとするお祈りが苦しいので、いっそこの女君(おんなぎみ)を殺してしまおうかと思いましたが、あなたがあまりにお気の毒なご様子なので、つい出てきてしまいました。本当はこんなみじめな姿をお目にかけたくなかったのですよ」

<あのときの妖怪だ>
源氏の君ははっとなさる。
亡きご正妻(せいさい)大将(たいしょう)様をお生みになったときに現れた妖怪にそっくりなの。
「私に思い当たる人がいるが、本当にその人なのかはっきり名乗れ。他人は知らないことで私にしか分からないことを言ってみよ。そうすれば信じてやる」
妖怪はほろほろと泣き出す。
「あいかわらずでいらっしゃいますね。確信はお持ちでしょうに」
そう言う様子が、完全に六条(ろくじょうの)御息所(みやすんどこ)なの。

「姫のことは感謝しております。あなたのお力で中宮(ちゅうぐう)にまでしていただき、たしかにうれしく思ってはいるのです。しかし、子どものことはもうどうでもよいと思う気持ちが少しあるのでしょうね、生きているときにさんざん苦しめられたあなたのことばかり気になってしまいます。
恋人時代にあなたに捨てられたことよりも、私が死んだあと、この女君(おんなぎみ)とのお話のなかで私のことを悪くおっしゃいましたでしょう。そちらの方が我慢できなかったのです。もう死んだ人間なのですから、他人が悪く言ったとしてもあなたはおかばいくださると思っておりましたのに、あなたご自身が悪口をおっしゃるなんて。

この女君を(にく)む気持ちはございませんよ。本当はあなたに()りついてお苦しめしようと思ったのですが、あなたは神様にも仏様にも固く守られていらっしゃって、とても近づけなかったのです。お声だけをほのかに(うかが)っておりました。

私はあの世で苦しんでおります。(つみ)を軽くするお祈りをしてくださいませ。それから中宮様にもよくお伝えください。後宮(こうきゅう)(おだ)やかには過ごしにくいところですけれど、他のお(きさき)様たちに()けん()を起こしたり、嫉妬(しっと)したりなさってはいけません。私のようなみじめな()(さま)になってしまいますからね。
伊勢(いせ)神宮(じんぐう)斎宮(さいぐう)でいらした期間が長うございましたから、仏教(ぶっきょう)修行(しゅぎょう)がおできになっていないでしょう。ご自分の死後のために、今からでもきちんと修行なさいますように」

あれこれ言うけれど、妖怪としみじみお話をすることを源氏の君は嫌がられる。
妖怪が女童に乗り移っている(すき)に、こっそりと紫の上のご病室を別の場所にお変えになった。