中途半端に終わってしまった尚侍様との恋を、源氏の君はずっと忘れられずにいらっしゃる。
<どうしたらお会いできるだろう。つらいお別れをしたときの話などもしたいけれど、お互いに世間に注目されている身だから軽率な行動はできない。あのときだって、私との噂であの人の将来をどれほど傷つけてしまったか>
自主的な謹慎として須磨に行き、しばらくして都にお戻りになってからも、尚侍様への恋心は完全に封印していらっしゃったの。
その尚侍様が上皇様のご出家で独身に戻られたから、どのようにお過ごしかと想像すると会いたくてたまらなくなってしまわれる。
よくないことだとは思いながらも、お見舞いという口実で頻繁にお手紙をお送りになる。
おふたりとももうよい大人でいらっしゃるから、尚侍様も無難なお返事をお書きになる。
お若いころも魅力的な美人でいらっしゃったけれど、今はすっかり成熟なさった雰囲気が感じられる。
昔、女君との手紙のやりとりなどに協力してくれた女房に、源氏の君は手引きをお頼みになる。
女房の兄までお呼びになって、若者に戻ったかのようにご相談なさる。
「尚侍様に、人づてではなく直接お話ししなければならないことがある。そなたがお許しをいただいてきてくれたら、こっそりご実家にお伺いするつもりだ。人目を気にしなければならない身分になってしまったから、そなたの口の堅さを信用して頼みたい」
うまく行ったら次の人事異動で何らかの役職に推薦してやろう、とほのめかされる。
それほど必死でいらっしゃるのだけれど、尚侍様はご冷静なの。
<あのころは私も若くて恋に夢中になっていたけれど、年を取って男女の仲というものを理解するにつれて、源氏の君のご愛情の表面的だったことがよく分かってきた。上皇様のご出家という悲しみを放り出して、どうしてのんきに昔話などできるだろう。誰にも気づかれなければよいという話ではない。私の良心の問題だ>
源氏の君にあきれながらお断りをお伝えになる。
たしかに源氏の君も上皇様のことを思うと気が引けはするものの、
<犬猿の仲だった当時の右大臣の屋敷に忍びこんでお会いしていたことを思えば、そんなことはたいした障害ではない。今さら純情ぶって何になろう>
と、乳母の兄に手引きをお約束させなさった。
紫の上にさりげなくおっしゃる。
「二条の東の院にお暮らしの常陸の宮様の姫君が、長らくご病気でいらっしゃってね。今夜お見舞いに上がろうと思うのです。昼間だとおおげさになりますから、夜にこっそりと出かけます。お供を申し出る人が現れないように誰にも知らせずに行くつもりです」
なんとなく隠し事をなさっている感じがするの。
<常陸の宮様の姫君なんて、いつもそれほど気にかけておられないのに。あやしい。もしかしたら、近ごろよくお手紙を差し上げていらっしゃるという尚侍様のところへ行かれるのでは>
と紫の上はお思いになる。
でも、女三の宮様のご降嫁から、紫の上は源氏の君と精神的な距離をお取りになっている。
気づかないふりでお見送りなさった。
念入りに身支度なさると、少しのお供だけを連れて目立たない乗り物でご出発なさる。
お若いころに恋人たちの家を遊び歩いておられたときのよう。
お越しをお聞きになった朧月夜の尚侍様はびっくりなさった。
「なんということ。私からのお返事をどのようにお伝えしたのだ」
とお叱りになるけれど、乳母は、
「もうお越しでございますから、お帰りくださいとも申し上げられません」
と、人目につかないように源氏の君をお通しした。
客席は縁側につくられた。
戸をはさんでお部屋の奥の方に尚侍様はいらっしゃるみたい。
「もう少し近くまで来てくださいませんか。昔のような不届きな心はございませんから」
誠実そうにおっしゃると、尚侍様は<困ったこと>と思いながらも近寄っていらっしゃる気配がする。
<こういうところが甘い人だ>
かわいらしいとはお思いだけれど、少し見下すお気持ちもある。
お互いの動きが伝わって昔を思い出させる。
戸を開けようとなさるけれど、やはり鍵がかかっているの。
「このように警戒されては若者に戻ったような気がいたします。あのつらいお別れが何年前のいつのことだったか、私ははっきり覚えておりますよ。あなたのことをずっと忘れられずにいたのに、こんな扱いをされてはつらい」
夜が更けていく。
尚侍様の姉君にあたる皇太后様がお亡くなりになって、このお屋敷はすっかりさびれてしまった。
<かつてこの人に会うために忍びこんだときは、多すぎる人目を避けるのに苦労したものだが>
とお思いになると涙がこぼれる。
そのころよりもずっと落ち着いてお話しになる。
「これを開けてはくださいませんか。十五年ぶりだというのに、こんな戸に邪魔されては涙が落ちます」
「涙が川になっておりますから、私たちの間にある道はお渡りになれませんでしょう」
お口ではそうおっしゃるけれど、尚侍様は迷っておられる。
<私との噂のせいで、この方は都をお離れになったのだ。これだけ望んでおられるのだから、もう一度くらいお会いしてさしあげた方がよいのではないか>
もともと慎重さの足りない女君だから、昔に戻ったような気がなさって、強く拒否しつづけることはおできにならない。
今も若々しく人懐こい方でいらっしゃる。
ただ、昔のように何も考えず源氏の君に身を任せることはなさらない。
迷いも後悔もおありのご様子が、源氏の君には新しい魅力に映って、夜が明けていくのを残念にお思いになる。
明るくなりはじめた美しい空に、鳥のさえずりが響きわたる。
花の盛りは過ぎたけれど、藤が美しく咲いている。
<二十年前、この人と運命の再会をしたのも、ちょうど今くらいの季節だった。このお屋敷の藤の宴だった>
お見送りする女房におっしゃる。
「藤も女君も美しくて帰ることなどできない」
山から朝日が昇って源氏の君を輝かせる。
<おふたりはご結婚なさればよろしかったのに。亡き皇太后様の熱心なお世話が裏目に出て、源氏の君との噂が立ち、結局中宮様どころか女御様にもおなりになれなかったのだ>
中途半端になってしまった女君の運命を、女房も悲しんでいる。
別れがたいけれど、もう秘密のお出かけが許されるご身分ではいらっしゃらない。
日が高くなれば人目につきやすくなるから、お供たちもさりげなくお急かしする。
源氏の君は先ほどご覧になった藤を一房折らせて女君に届けさせなさった。
「あれほど苦い目をみたというのに、またあなたに夢中になりそうな気がします」
乗り物のご準備はとっくにできているのに、いつまでも物思いをしていらっしゃるから、女房は同情して拝見する。
女君は後悔に苦しんでいらっしゃったけれど、源氏の君とこれきりになってしまうのは嫌だとお思いになる。
「そんなふうにおっしゃっても、どうせたいして本気ではいらっしゃらないのでしょう。私だけが昔に戻って、またつらい目に遭うと分かってはいるのですけれど」
とお返事なさると、源氏の君はまたお会いする方法をよくご相談なさってからお帰りになった。
昔も深く愛しあわれていたのに、皇太后様や右大臣様に引き裂かれたおふたりだったから、こうしてお会いになると思いがあふれたことでしょうね。
<どうしたらお会いできるだろう。つらいお別れをしたときの話などもしたいけれど、お互いに世間に注目されている身だから軽率な行動はできない。あのときだって、私との噂であの人の将来をどれほど傷つけてしまったか>
自主的な謹慎として須磨に行き、しばらくして都にお戻りになってからも、尚侍様への恋心は完全に封印していらっしゃったの。
その尚侍様が上皇様のご出家で独身に戻られたから、どのようにお過ごしかと想像すると会いたくてたまらなくなってしまわれる。
よくないことだとは思いながらも、お見舞いという口実で頻繁にお手紙をお送りになる。
おふたりとももうよい大人でいらっしゃるから、尚侍様も無難なお返事をお書きになる。
お若いころも魅力的な美人でいらっしゃったけれど、今はすっかり成熟なさった雰囲気が感じられる。
昔、女君との手紙のやりとりなどに協力してくれた女房に、源氏の君は手引きをお頼みになる。
女房の兄までお呼びになって、若者に戻ったかのようにご相談なさる。
「尚侍様に、人づてではなく直接お話ししなければならないことがある。そなたがお許しをいただいてきてくれたら、こっそりご実家にお伺いするつもりだ。人目を気にしなければならない身分になってしまったから、そなたの口の堅さを信用して頼みたい」
うまく行ったら次の人事異動で何らかの役職に推薦してやろう、とほのめかされる。
それほど必死でいらっしゃるのだけれど、尚侍様はご冷静なの。
<あのころは私も若くて恋に夢中になっていたけれど、年を取って男女の仲というものを理解するにつれて、源氏の君のご愛情の表面的だったことがよく分かってきた。上皇様のご出家という悲しみを放り出して、どうしてのんきに昔話などできるだろう。誰にも気づかれなければよいという話ではない。私の良心の問題だ>
源氏の君にあきれながらお断りをお伝えになる。
たしかに源氏の君も上皇様のことを思うと気が引けはするものの、
<犬猿の仲だった当時の右大臣の屋敷に忍びこんでお会いしていたことを思えば、そんなことはたいした障害ではない。今さら純情ぶって何になろう>
と、乳母の兄に手引きをお約束させなさった。
紫の上にさりげなくおっしゃる。
「二条の東の院にお暮らしの常陸の宮様の姫君が、長らくご病気でいらっしゃってね。今夜お見舞いに上がろうと思うのです。昼間だとおおげさになりますから、夜にこっそりと出かけます。お供を申し出る人が現れないように誰にも知らせずに行くつもりです」
なんとなく隠し事をなさっている感じがするの。
<常陸の宮様の姫君なんて、いつもそれほど気にかけておられないのに。あやしい。もしかしたら、近ごろよくお手紙を差し上げていらっしゃるという尚侍様のところへ行かれるのでは>
と紫の上はお思いになる。
でも、女三の宮様のご降嫁から、紫の上は源氏の君と精神的な距離をお取りになっている。
気づかないふりでお見送りなさった。
念入りに身支度なさると、少しのお供だけを連れて目立たない乗り物でご出発なさる。
お若いころに恋人たちの家を遊び歩いておられたときのよう。
お越しをお聞きになった朧月夜の尚侍様はびっくりなさった。
「なんということ。私からのお返事をどのようにお伝えしたのだ」
とお叱りになるけれど、乳母は、
「もうお越しでございますから、お帰りくださいとも申し上げられません」
と、人目につかないように源氏の君をお通しした。
客席は縁側につくられた。
戸をはさんでお部屋の奥の方に尚侍様はいらっしゃるみたい。
「もう少し近くまで来てくださいませんか。昔のような不届きな心はございませんから」
誠実そうにおっしゃると、尚侍様は<困ったこと>と思いながらも近寄っていらっしゃる気配がする。
<こういうところが甘い人だ>
かわいらしいとはお思いだけれど、少し見下すお気持ちもある。
お互いの動きが伝わって昔を思い出させる。
戸を開けようとなさるけれど、やはり鍵がかかっているの。
「このように警戒されては若者に戻ったような気がいたします。あのつらいお別れが何年前のいつのことだったか、私ははっきり覚えておりますよ。あなたのことをずっと忘れられずにいたのに、こんな扱いをされてはつらい」
夜が更けていく。
尚侍様の姉君にあたる皇太后様がお亡くなりになって、このお屋敷はすっかりさびれてしまった。
<かつてこの人に会うために忍びこんだときは、多すぎる人目を避けるのに苦労したものだが>
とお思いになると涙がこぼれる。
そのころよりもずっと落ち着いてお話しになる。
「これを開けてはくださいませんか。十五年ぶりだというのに、こんな戸に邪魔されては涙が落ちます」
「涙が川になっておりますから、私たちの間にある道はお渡りになれませんでしょう」
お口ではそうおっしゃるけれど、尚侍様は迷っておられる。
<私との噂のせいで、この方は都をお離れになったのだ。これだけ望んでおられるのだから、もう一度くらいお会いしてさしあげた方がよいのではないか>
もともと慎重さの足りない女君だから、昔に戻ったような気がなさって、強く拒否しつづけることはおできにならない。
今も若々しく人懐こい方でいらっしゃる。
ただ、昔のように何も考えず源氏の君に身を任せることはなさらない。
迷いも後悔もおありのご様子が、源氏の君には新しい魅力に映って、夜が明けていくのを残念にお思いになる。
明るくなりはじめた美しい空に、鳥のさえずりが響きわたる。
花の盛りは過ぎたけれど、藤が美しく咲いている。
<二十年前、この人と運命の再会をしたのも、ちょうど今くらいの季節だった。このお屋敷の藤の宴だった>
お見送りする女房におっしゃる。
「藤も女君も美しくて帰ることなどできない」
山から朝日が昇って源氏の君を輝かせる。
<おふたりはご結婚なさればよろしかったのに。亡き皇太后様の熱心なお世話が裏目に出て、源氏の君との噂が立ち、結局中宮様どころか女御様にもおなりになれなかったのだ>
中途半端になってしまった女君の運命を、女房も悲しんでいる。
別れがたいけれど、もう秘密のお出かけが許されるご身分ではいらっしゃらない。
日が高くなれば人目につきやすくなるから、お供たちもさりげなくお急かしする。
源氏の君は先ほどご覧になった藤を一房折らせて女君に届けさせなさった。
「あれほど苦い目をみたというのに、またあなたに夢中になりそうな気がします」
乗り物のご準備はとっくにできているのに、いつまでも物思いをしていらっしゃるから、女房は同情して拝見する。
女君は後悔に苦しんでいらっしゃったけれど、源氏の君とこれきりになってしまうのは嫌だとお思いになる。
「そんなふうにおっしゃっても、どうせたいして本気ではいらっしゃらないのでしょう。私だけが昔に戻って、またつらい目に遭うと分かってはいるのですけれど」
とお返事なさると、源氏の君はまたお会いする方法をよくご相談なさってからお帰りになった。
昔も深く愛しあわれていたのに、皇太后様や右大臣様に引き裂かれたおふたりだったから、こうしてお会いになると思いがあふれたことでしょうね。



