野いちご源氏物語 三四 若菜(わかな)上

中途半端に終わってしまった尚侍(ないしのかみ)様との恋を、源氏(げんじ)(きみ)はずっと忘れられずにいらっしゃる。
<どうしたらお会いできるだろう。つらいお別れをしたときの話などもしたいけれど、お互いに世間に注目されている身だから軽率(けいそつ)な行動はできない。あのときだって、私との(うわさ)であの人の将来をどれほど傷つけてしまったか>
自主的な謹慎(きんしん)として須磨(すま)に行き、しばらくして都にお戻りになってからも、尚侍(ないしのかみ)様への恋心は完全に封印(ふういん)していらっしゃったの。

その尚侍(ないしのかみ)様が上皇(じょうこう)様のご出家(しゅっけ)で独身に戻られたから、どのようにお過ごしかと想像すると会いたくてたまらなくなってしまわれる。
よくないことだとは思いながらも、お見舞いという口実(こうじつ)頻繁(ひんぱん)にお手紙をお送りになる。
おふたりとももうよい大人でいらっしゃるから、尚侍(ないしのかみ)様も無難(ぶなん)なお返事をお書きになる。

お若いころも魅力的な美人でいらっしゃったけれど、今はすっかり成熟(せいじゅく)なさった雰囲気が感じられる。
昔、女君(おんなぎみ)との手紙のやりとりなどに協力してくれた女房(にょうぼう)に、源氏の君は手引きをお頼みになる。
女房の兄までお呼びになって、若者に戻ったかのようにご相談なさる。
尚侍(ないしのかみ)様に、人づてではなく直接お話ししなければならないことがある。そなたがお許しをいただいてきてくれたら、こっそりご実家にお(うかが)いするつもりだ。人目(ひとめ)を気にしなければならない身分になってしまったから、そなたの口の(かた)さを信用して頼みたい」
うまく行ったら次の人事(じんじ)異動(いどう)で何らかの役職に推薦(すいせん)してやろう、とほのめかされる。

それほど必死でいらっしゃるのだけれど、尚侍(ないしのかみ)様はご冷静なの。
<あのころは私も若くて恋に夢中になっていたけれど、年を取って男女の仲というものを理解するにつれて、源氏の君のご愛情の表面的だったことがよく分かってきた。上皇(じょうこう)様のご出家(しゅっけ)という悲しみを放り出して、どうしてのんきに昔話などできるだろう。誰にも気づかれなければよいという話ではない。私の良心(りょうしん)の問題だ>
源氏の君にあきれながらお断りをお伝えになる。

たしかに源氏の君も上皇様のことを思うと気が引けはするものの、
犬猿(けんえん)(なか)だった当時の右大臣(うだいじん)の屋敷に(しの)びこんでお会いしていたことを思えば、そんなことはたいした障害(しょうがい)ではない。今さら純情(じゅんじょう)ぶって何になろう>
と、乳母の兄に手引きをお約束させなさった。

(むらさき)(うえ)にさりげなくおっしゃる。
二条(にじょう)(ひがし)(いん)にお暮らしの常陸(ひたち)(みや)様の姫君(ひめぎみ)が、長らくご病気でいらっしゃってね。今夜お見舞いに上がろうと思うのです。昼間だとおおげさになりますから、夜にこっそりと出かけます。お(とも)を申し出る人が現れないように誰にも知らせずに行くつもりです」
なんとなく隠し事をなさっている感じがするの。
常陸(ひたち)の宮様の姫君なんて、いつもそれほど気にかけておられないのに。あやしい。もしかしたら、近ごろよくお手紙を差し上げていらっしゃるという尚侍(ないしのかみ)様のところへ行かれるのでは>
と紫の上はお思いになる。
でも、(おんな)(さん)(みや)様のご降嫁(こうか)から、紫の上は源氏の君と精神的な距離をお取りになっている。
気づかないふりでお見送りなさった。

念入りに身支度(みじたく)なさると、少しのお(とも)だけを連れて目立たない乗り物でご出発なさる。
お若いころに恋人たちの家を遊び歩いておられたときのよう。
お越しをお聞きになった朧月夜(おぼろづきよ)尚侍(ないしのかみ)様はびっくりなさった。
「なんということ。私からのお返事をどのようにお伝えしたのだ」
とお(しか)りになるけれど、乳母は、
「もうお越しでございますから、お帰りくださいとも申し上げられません」
と、人目につかないように源氏の君をお通しした。

客席は縁側(えんがわ)につくられた。
戸をはさんでお部屋の奥の方に尚侍(ないしのかみ)様はいらっしゃるみたい。
「もう少し近くまで来てくださいませんか。昔のような不届(ふとど)きな心はございませんから」
誠実そうにおっしゃると、尚侍(ないしのかみ)様は<困ったこと>と思いながらも近寄っていらっしゃる気配(けはい)がする。
<こういうところが甘い人だ>
かわいらしいとはお思いだけれど、少し見下すお気持ちもある。

お互いの動きが伝わって昔を思い出させる。
戸を開けようとなさるけれど、やはり(かぎ)がかかっているの。
「このように警戒(けいかい)されては若者に戻ったような気がいたします。あのつらいお別れが何年前のいつのことだったか、私ははっきり覚えておりますよ。あなたのことをずっと忘れられずにいたのに、こんな(あつか)いをされてはつらい」

夜が()けていく。
尚侍(ないしのかみ)様の姉君(あねぎみ)にあたる皇太后(こうたいごう)様がお亡くなりになって、このお屋敷はすっかりさびれてしまった。
<かつてこの人に会うために(しの)びこんだときは、多すぎる人目(ひとめ)を避けるのに苦労したものだが>
とお思いになると涙がこぼれる。
そのころよりもずっと落ち着いてお話しになる。
「これを開けてはくださいませんか。十五年ぶりだというのに、こんな戸に邪魔されては涙が落ちます」

「涙が川になっておりますから、私たちの間にある道はお渡りになれませんでしょう」
お口ではそうおっしゃるけれど、尚侍(ないしのかみ)様は迷っておられる。
<私との(うわさ)のせいで、この方は都をお離れになったのだ。これだけ望んでおられるのだから、もう一度くらいお会いしてさしあげた方がよいのではないか>
もともと慎重(しんちょう)さの足りない女君(おんなぎみ)だから、昔に戻ったような気がなさって、強く拒否しつづけることはおできにならない。

今も若々しく(ひと)(なつ)こい方でいらっしゃる。
ただ、昔のように何も考えず源氏の君に身を(まか)せることはなさらない。
迷いも後悔もおありのご様子が、源氏の君には新しい魅力に映って、夜が明けていくのを残念にお思いになる。

明るくなりはじめた美しい空に、鳥のさえずりが響きわたる。
花の(さか)りは過ぎたけれど、(ふじ)が美しく咲いている。
<二十年前、この人と運命の再会をしたのも、ちょうど今くらいの季節だった。このお屋敷の藤の(うたげ)だった>
お見送りする女房(にょうぼう)におっしゃる。
「藤も女君(おんなぎみ)も美しくて帰ることなどできない」

山から朝日が(のぼ)って源氏の君を輝かせる。
<おふたりはご結婚なさればよろしかったのに。亡き皇太后(こうたいごう)様の熱心なお世話が裏目(うらめ)に出て、源氏の君との(うわさ)が立ち、結局中宮(ちゅうぐう)様どころか女御(にょうご)様にもおなりになれなかったのだ>
中途半端になってしまった女君の運命を、女房も悲しんでいる。

別れがたいけれど、もう秘密のお出かけが許されるご身分ではいらっしゃらない。
日が高くなれば人目につきやすくなるから、お(とも)たちもさりげなくお()かしする。
源氏の君は先ほどご覧になった藤を一房(ひとふさ)折らせて女君に届けさせなさった。
「あれほど苦い目をみたというのに、またあなたに夢中になりそうな気がします」
乗り物のご準備はとっくにできているのに、いつまでも物思いをしていらっしゃるから、女房は同情して拝見する。

女君は後悔に苦しんでいらっしゃったけれど、源氏の君とこれきりになってしまうのは嫌だとお思いになる。
「そんなふうにおっしゃっても、どうせたいして本気ではいらっしゃらないのでしょう。私だけが昔に戻って、またつらい目に()うと分かってはいるのですけれど」
とお返事なさると、源氏の君はまたお会いする方法をよくご相談なさってからお帰りになった。
昔も深く愛しあわれていたのに、皇太后様や右大臣(うだいじん)様に()()かれたおふたりだったから、こうしてお会いになると思いがあふれたことでしょうね。