野いちご源氏物語 二四 胡蝶(こちょう)

雨が上がってさわやかな青空が広がった。
お庭の木々の若葉が青々(あおあお)(しげ)って、心地よい雰囲気の夕方よ。
「初夏らしいよい天気だ」
源氏(げんじ)(きみ)は独り言をおっしゃって、華やかで明るい玉葛(たまかずら)姫君(ひめぎみ)のことを思い浮かべられた。
こうして姫君のことが気になるたび、こっそりとお部屋へ行かれるの。

姫君はお習字などをしてくつろいでいらっしゃった。
突然の源氏の君のお越しに、座りなおして恥ずかしがっておられる。
そのご様子もかわいらしくて、源氏の君は夕顔(ゆうがお)(きみ)を思い出される。
「初めてお会いしたときはそれほど母君(ははぎみ)に似ておられるとも思いませんでしたが、今では夕顔の君が生き返ったのではないかと錯覚(さっかく)するときがあります。うれしいような悲しいような複雑な気分になりますね。中将(ちゅうじょう)には亡くなった妻の面影(おもかげ)がまったくありませんから、親子といえどそれほど似るものではないと思っていました。あなたたちのようなそっくりな親子もいらっしゃるとは」

果物(くだもの)がいくつかお盆に置いてある。
源氏の君は(たちばな)()をひとつお取りになった。
「橘の花の香りは昔の恋人を思い出させるといいますね。あぁ、()もなつかしい香りがする。あなたが夕顔の君に見えてきました。かけがえのない存在としてずっと忘れられなかったから、あなたに会うと夢のような気がするのです。あなたがあの人でないことは分かっています。でももう我慢(がまん)できそうにない。私をお嫌いにならないで」

源氏の君のお手から橘が転がり落ちる。
姫君は動けない。
お手をとらえられて、姫君は困惑(こんわく)して不愉快(ふゆかい)になりながらも、おっとりとおっしゃった。
「私が母そっくりでしたら、この身も若死(わかじ)にする運命なのでしょうね」
うつ()して拒絶(きょぜつ)を表していらっしゃる。
源氏の君はお手をお離しにならない。
女君(おんなぎみ)のお手はやわらかく、(はだ)はきめこまかい。

姫君に触れてしまうと源氏の君はもう後戻りできない気がなさるけれど、無理やりなことができるご身分ではいらっしゃらない。
ただ、はじめてはっきりと恋心をお伝えになった。
女君は震えていらっしゃる。
源氏の君はそれをご覧になると、開き直っておっしゃる。
「どうしてそれほどお嫌がりになるのです。今まで誰にも気づかれないよう隠してきたけれど、これが私の本心です。娘としてではなく女性としてあなたを愛したい。私のあなたへの気持ちは、手紙を送ってきている男たちの恋心に負けませんよ。私ほどあなたを愛している人はいないだろう」
さんざん父親ぶっておいて、とんでもないお気持ちを隠していらっしゃったこと。

涼しい風が(ささ)を鳴らして吹いていく。
明るく月の光が差し込んできた。
源氏の君はまだ姫君のお部屋にいらっしゃる。
<しっとりとした夜だもの、父娘(おやこ)でしみじみと語り合っていらっしゃるのだろう>
と、女房(にょうぼう)たちは気を(つか)って離れている。

おふたりの間には、いつもどおりついたてはない。
恋心を口に出した源氏の君は、いよいよご自分のご身分もお立場も忘れてしまわれた。
うつ伏して震えていらっしゃる姫君に寄り添われる。
<なんということをなさるのだ。本当の父君(ちちぎみ)に引き取られていれば、冷たく放っておかれることはあっても、まさかこのような目には()わなかっただろうに>
女君は悲しくて(くや)しくてお泣きになる。

「そこまで悲しまれてはつらくなってしまいます。ご結婚なさったら、ろくに知らない相手とこの程度のことではすまないのに。私たちには心を(かよ)()わせる時間が十分にあったと思いますよ。それでも私をお(こば)みになるのですね。では、もう余計な振舞いはやめておきましょう。寂しいけれど」
最後の分別(ふんべつ)で源氏の君は女君からお離れになって、(なぐさ)めともつかないことをおっしゃる。

姫君はいつもの聡明(そうめい)さを失って、なよやかだった夕顔の君にますます似て見える。
<いったい私は何をしているのだ。女房たちも(あや)しむだろう>
と源氏の君は反省して、夜が()ける前に帰ろうとなさる。
姫君にだけ聞こえる小さなお声で、
「あなたに嫌われてしまうのが何より怖いのです。ふつうの男はこんな()加減(かげん)をしませんよ。あなたを本当に大切に思っているから、無理はしたくないのです。これから私があなたの母君を思って何か言ったときには、母君になりかわってお返事してくださるとうれしい」
とささやかれるけれど、姫君は何もおっしゃらない。

「これほどご冷淡(れいたん)な方だとは思っていませんでした。ずいぶん(にく)まれてしまったものだ。さぁ、そんなふうになさっていては女房たちが怪しみます。何もなかったのだから、いつもどおりになさい」
とお部屋を出ていかれた。