野いちご源氏物語 二二 玉葛(たまかずら)

次男は完全に大夫(たいふ)(げん)の味方になってしまった。
乳母(めのと)は、
姫君(ひめぎみ)がさらわるかもしれない>
と怖くて、
「早く都へ戻りましょう」
と長男をせっつく。

長男は悩んでしまう。
<どうやったら姫君をお連れしてこっそり逃げられるだろうか。相談できる人もいない。弟二人は大夫の監の味方だが、私が弟たちと意見の違うことは大夫の監も知っている。私の動きは見張られていると考えた方がよいだろう。下手に動けば、本当に武力(ぶりょく)攻撃(こうげき)されるかもしれない>
でも、姫君は<もう死にたい>とまで思いつめていらっしゃるし、大夫の監は姫君を迎えに来る日を決めているらしい。
ついに決心したわ。

妹二人に脱出計画を話す。
長女はこちらで結婚して子どもも多くいるから、ついていくのを(あきら)めた。
次女の方は恋人を捨ててお(とも)をすると言う。
夜の暗闇(くらやみ)(まぎ)れて屋敷を出て、一行(いっこう)は船に乗った。
九州に残る長女との別れは、お互いにつらいものだったわ。
長男と次女は、何度も長女のいる方を振り返っていた。

「つらかった場所から離れられはしましたが、この先どこへ行くのかも分からず不安です」
と次女が言うと、
「海に出てしまうと行き先も見えませんね。(かざ)()きに身を(まか)せるしかないのでしょうか。つらいことです」
と姫君がおっしゃって、うつ()してしまわれる。

<夜逃げしたことはすぐに大夫の監に知られてしまうだろうし、負けず嫌いな男だから追いかけてくるだろう>
と長男は思って、特別に早く進む船を用意していた。
その上よい風が吹いたので、走るように瀬戸内(せとない)(かい)を進んでいく。
(しお)の流れが複雑で()ぐのが難しいと言われる難所(なんしょ)も問題なく通過する。

船の()()が後ろを見て、
「小さい船が飛ぶように近づいてくるが、海賊(かいぞく)(せん)ではないだろうか」
と言う。
海賊(かいぞく)ならばまだよい。大夫の監でさえなければ。あの男が恐ろしすぎて、難所も海賊も平気になってしまった」
と乳母はつぶやいた。

「もうすぐ海から川へ入ります」
船頭(せんどう)が知らせた。
ここからは川をさかのぼって都の方面へ行く。
海とは違い、両岸(りょうぎし)に守られて進む。
一行は少しほっとしたわ。

長男は九州に残してきた妻子(さいし)のことを思い出していた。
現地の女性と結婚して、子どもも生まれていたの。
<何もかも打ち捨てて出てきてしまった。妻や子はどうなっただろう。使えそうな家来たちは皆連れてきてしまったから、さぞや困っているだろう。それどころか、大夫の監が私を(にく)むあまり妻子に暴力をふるうかもしれない。深くも考えずとんでもないことをしてしまった>

大夫の監が追いかけてこなかったことに安心すると、今度は置いてきた妻子が心配になってしまうのね。
弱々しく泣きながら、
「中国の詩にも同じような男がいたな」
とつぶやくので、次女も悲しくなる。
<恋人はどう思っているだろう。長く続いていた関係だったのに、突然逃げてしまったのだから>

都に戻ったからといって、一行が帰れる場所はない。
以前住んでいた貧しい家には、きっともう他人が暮らしている。
九州を出る前に、都の知人に「しばらく泊めてほしい」と連絡しておけばよかったけれど、そんな余裕はなかった。
ただ姫君のためと思って、後先(あとさき)考えずに九州を出たのだもの。
この先に何の計画もないということにやっと気づいた一行は、茫然(ぼうぜん)としてしまった。