野いちご源氏物語 一九 薄雲(うすぐも)

一方、明石(あかし)(きみ)は、新年だというのに寂しい山里(やまざと)で生きる()()いを失って暮らしていらっしゃった。
源氏(げんじ)(きみ)はそれを気の毒にお思いになって、あわただしさが少し落ち着いたころ、大堰(おおい)(がわ)の別荘をお訪ねになる。
美しいお着物によい香りを()きしめて、念入りに()支度(じたく)をなさった。
二条(にじょう)(いん)を出発なさる前に、(むらさき)(うえ)に少し挨拶(あいさつ)をしていかれる。
明るい夕日が照らす源氏の君のお姿は、いつも以上に清らかよ。
<明石の君にお会いになるために、こんなに美しくしてお出かけになるのね>
と、紫の上は思わず嫉妬(しっと)してしまわれる。

姫君(ひめぎみ)は何も分かっていらっしゃらない。
「お父様、お父様」
と、源氏の君のお足元にまとわりついて甘えておられるの。
一緒にお部屋の外に出ようとなさるのを源氏の君は優しく止めて、
「明日帰ってきますからね」
と、紫の上にも聞こえるようにおっしゃる。

源氏の君が渡り廊下まで歩いていかれると、紫の上の部屋にいた女房(にょうぼう)が先回りして座っていた。
「ご伝言でございます。『お出かけ先にずいぶんご愛情の深い女君(おんなぎみ)がいらっしゃるのですもの、明日お帰りになるだなんてご無理でしょう』と」
女房が遠慮のない口ぶりで言うので、源氏の君は華やかに笑っておっしゃる。
「きちんと帰ってきますよ。あちらには(にく)まれるだろうがね」

姫君はお部屋中をあちこち歩きまわっていらっしゃる。
紫の上は、
<かわいらしいお子だ。こんな子を取り上げてしまったのだから、源氏の君が頻繁(ひんぱん)にお見舞いにいかれても仕方がないだろう。明石の君はどれほど寂しがっていることか。ついこの間からお世話をしはじめた私でさえ、この子を取り上げられたら恋しくて仕方がないだろうに>
と同情なさる。
姫君をじっと見つめてから、抱きかかえてご自分のお(ちち)を飲ませようとなさるの。
もちろん紫の上からお乳は出ないのよ。
<私がこの子の本当の母親で、お乳を飲ませられたらよいのに>
とお思いになる。
姫君への愛おしさと、母親になれない苦しさは、同時にやって来るの。

女房たちは、
「どうしてこちらにお生まれにならなかったのかしら」
「同じ源氏の君のお子なら、こちらにできればよろしかったのに」
とひそひそ言いあっている。