野いちご源氏物語 一九 薄雲(うすぐも)

<たしかに紫の上はすばらしい方なのだろう。あの浮気で名(な)高(だか)い源氏(げんじ)の君(きみ)が落ち着かれた女君(おんなぎみ)なのだもの。しかも兵部卿(ひょうぶきょう)の宮(みや)の姫君(ひめぎみ)でいらっしゃるとか。ご身分はもちろん、何もかもがすばらしく整って、たくさんの恋人たちのなかでもっともすぐれた方のはずだ。
 一方、私は身分も低く、源氏の君のご愛情も薄(うす)い。それなのにのこのこと都近くまで出てきてしまって、目障(めざわ)りな女だとお思いだろう。私のことなどどうでもよいが、姫はまだ、この先長く都で生きていかなければならない。貴族社会で幸せをつかめるかどうかは、結局は紫の上のお心ひとつで決まってしまうのだ。それならば紫の上にできるだけかわいがっていただいた方がよい。物心(ものごころ)がつく前にお譲(ゆず)りしてしまおう。
 しかし、手放せばさぞ心配だろう。今は姫の愛らしさに救われてなんとか生きているが、私ひとりになれば生きる張(は)り合(あ)いがなくなってしまう。それに、姫がいなくなったこの屋敷には、もう源氏の君はお越しくださらないだろう>
 あれこれ悩んで、つまらない身を嘆(なげ)く。

 尼君(あまぎみ)はもう少し冷静だった。
「考えすぎても仕方ありませんよ。姫にお会いできなくなることは私も胸が痛みますが、まず姫のご将来を第一に考えるべきです。源氏の君もよくお考えになってのことでしょうから、ただあちらを信じて姫をお渡しなさい。帝(みかど)のお子でさえ母君(ははぎみ)のご身分に応じて格(かく)が決まってしまうのです。源氏の君だってそうでいらっしゃいましたよ。亡き桐壺(きりつぼ)院(いん)にもっとも愛されていても、東宮(とうぐう)にはおなりになれなかった。それは母君が女御(にょうご)ではなく更衣(こうい)のご身分だったからです。

 皇子(みこ)たちでさえそのようにはっきりと区別されるのですから、まして貴族のお子たちは、さらに母親の身分が重要になります。はっきり言えば母親は正妻(せいさい)でなければならない。たとえ親王(しんのう)や大臣(だいじん)の姫君であっても、ご正妻のお子でなければ重くは扱われないものなのです。世間からも、父君(ちちぎみ)からも、ですよ。

 源氏の君には今のところ他に姫君がいらっしゃらないようですが、今後もしご身分の高いところに姫君がお生まれになったら、こちらの姫など簡単に見捨てられてしまいます。世間から大切にされるには、父親から大切にされていることが大(だい)前提(ぜんてい)です。
 袴着(はかまぎ)の儀式(ぎしき)をこちらで行うことだってできなくはありません。でもね、こんな寂しい山里(やまざと)で行ったところで、誰が気づいて祝ってくださるというのです。何もかもあちらにお任(まか)せして、姫が大切にされているご様子を遠くで聞いて満足しているのが一番でしょう」

 母君に諭(さと)されても明石の君はまだ悩んでいる。占(うらな)い師(し)を呼んだけれど、
「姫君をお渡しになるのが最善(さいぜん)です」
 と言うばかりなので、すっかり弱気になる。
 源氏の君は、必ず姫君を二条(にじょう)の院(いん)に引き取ると決めていらっしゃる。しかし明石の君の心を傷つけるのがかわいそうで、強くもおっしゃれない。
「姫の袴着の儀式は、どのようにするつもりですか」
 長くは待てないことをほのめかされた。
「私のような者のところでお育てしては姫のご将来に差(さ)し障(さわ)ると分かっております。ただ、ご立派な方々の中に加えていただきましても、笑い者になってしまうのではと心配で」
 正直な母心を聞いて、ますます明石の君を気の毒にお思いになる。

 それでも姫君を二条の院に引き取る計画は着々と進められている。源氏の君は引越しに縁起(えんぎ)のよい日を占わせ、ひそかに家来に準備をお命じになる。
 女君(おんなぎみ)はとてもつらいけれど、
<これが姫のために一番よい選択なのだから>
 と我慢(がまん)していた。