入道の宮様は、この年の初めからご病気でいらっしゃった。
三月にはいよいよ、帝がお見舞いにいかれるほどの重態になってしまわれたの。
父君である上皇様がお亡くなりになったとき、帝はまだお小さくてよく分かっていらっしゃらなかった。
でも今回は、母君とのお別れが近づいていることを深く悲しんでおられる。
宮様も悲しくお思いになって、
「私は今年が厄年でございましたから、寿命になったとしてもおかしくないと予想していたのです。病気とはいえ体調はそれほど悪くなかったので、やたらと死ぬ話をしては周りが鬱陶しがるだろうと遠慮しましてね、特別な厄払いなどしなかったのがいけなかったのでしょうか。内裏に上がって懐かしいお話などしたいと思っているうちにこんなふうになってしまって、残念でございます」
と弱々しくおっしゃる。
「ご病気だけでもご心配しておりましたのに、厄払いをさせていらっしゃらなかったとは」
と帝は驚かれて、あわてて神社やお寺にお祈りをお命じになった。
厄年の三十七歳でいらっしゃるけれど、まだお若くお美しい。
<お亡くなりになるには早すぎる>
と帝もつらくお思いになる。
宮様は息が苦しくて、これ以上お話しになれない。
お心のなかでいろいろなことをお思いになる。
<幸運と悲運が両極端な人生だった。中宮になるという最高の幸運も手に入れたけれど、源氏の君との許されぬ恋は、つらすぎる運命だった。しかし、もう私自身のことはどうでもよい。帝が実の父親をご存じなくご成長なさるのが心苦しい。そのことだけが気がかりで、死んでも死にきれないだろう>
あっという間に帝はお帰りになる。
内裏からの外出には制限が多くて、こんなときでさえ母君のそばに長くいらっしゃることはできないの。
お互いにご心配もご不安もおありでしょうに、悲しいお別れだったわ。
内大臣としての源氏の君は、太政大臣様につづいて帝の母君でいらっしゃる入道の宮様までお亡くなりになりそうなことを、国家の悲しみとお思いになっている。
それと同時に、ひとりの男性としての源氏の君は、宮様のご衰弱がただひたすらにおつらい。
あちこちにお祈りをお命じになって、ご自身でも宮様のご回復を念じられる。
宮様がご出家なさってからは、源氏の君は恋心を封印していらっしゃった。
でも、宮様がお亡くなりになってしまうと思うと、どうしてももう一度、お気持ちを伝えたくなってしまわれる。
お見舞いに伺って、ついたて越しだけれど宮様の近くまでお寄りになる。
ご病状をお尋ねになると、宮様にかわいがられていた女房がくわしくお話し申し上げた。
「ずっとご体調がお悪うございましたのに、仏教の修行をお休みにならず続けていらっしゃいました。ついにご無理がたたってお倒れになったのでございます。近ごろではほんの少しの果物でさえお召し上がりになりません。これではもう、どうしようも」
と泣いている。
宮様は苦しそうにお口を開かれた。
弱々しい声がかすかに響く。
「上皇様のご遺言どおり、帝の後見をしてくださいましたこと、ずっとありがたく思っておりました。この感謝の気持ちをどうお伝えしようかと、のんびり考えておりましたら、このようになってしまいまして」
と女房にお伝えになっているのだけれど、そのお声は直接源氏の君に届いた。
苦しくてつらくて泣いてしまわれる。
とてもお返事を申し上げることはおできにならない。
<いけない。こんなふうに取り乱しては、女房たちがあやしむだろう>
とお思いになるけれど、お元気だったころの宮様のご様子を思い出すと涙が止まらない。
「頼りない私でございましたが、力の限りお仕えしようとしてまいりました。太政大臣様がお亡くなりになったばかりですのに、また宮様までとあっては、その力も尽きてしまいそうでございます。私の命も間もなく消えましょう」
と申し上げていらっしゃるうちに、小さな火がふっと消えるように宮様はお亡くなりになった。
入道の宮様は、本当にご立派な方だったわ。
お優しいお人柄で、けっして人に無理をさせることのない方だった。
中宮という女性としては最高のご身分でいらっしゃったけれど、威張ることも、無理なご命令をなさることもなかった。
誰かが何かをしてさしあげようとしても、その誰かの下にいる人が苦しむようなことなら辞退なさった。
仏教の行事もむやみやたらに豪華にはなさらなかったわ。
ご自分の経済力でできる範囲で、心をこめて丁寧に行われたの。
こういう方でいらっしゃったから、お亡くなりになったことを下々の者まで嘆いていた。
春だというのに世の中全体が暗くなった。
源氏の君は二条の院の桜をご覧になっても、入道の宮様が中宮でいらっしゃったころの内裏での桜の宴を悲しく思い出される。
「今年だけは美しい桜色が憎い。いっそ喪服のような灰色の花をつけてくれたらよいのに」
と思わずつぶやかれて、人目を気にしてあたりを見回される。
世間では、源氏の君にとって入道の宮様は、父君のお妃様たちのおひとりというだけ。
いくら帝の後見やお世話をなさっているといっても、あまりに悲しんでいらっしゃったら不自然になってしまう。
仏教の修行のための離れに閉じこもって、一日中泣いていらっしゃった。
夕日が山をはなやかに照らして、木々の先がきらきらと輝いている。
薄い雲が灰色になって浮かんでいるのをご覧になって、
「あの薄雲は私の気持ちを分かってくれているのだろう」
と独り言をおっしゃった。
三月にはいよいよ、帝がお見舞いにいかれるほどの重態になってしまわれたの。
父君である上皇様がお亡くなりになったとき、帝はまだお小さくてよく分かっていらっしゃらなかった。
でも今回は、母君とのお別れが近づいていることを深く悲しんでおられる。
宮様も悲しくお思いになって、
「私は今年が厄年でございましたから、寿命になったとしてもおかしくないと予想していたのです。病気とはいえ体調はそれほど悪くなかったので、やたらと死ぬ話をしては周りが鬱陶しがるだろうと遠慮しましてね、特別な厄払いなどしなかったのがいけなかったのでしょうか。内裏に上がって懐かしいお話などしたいと思っているうちにこんなふうになってしまって、残念でございます」
と弱々しくおっしゃる。
「ご病気だけでもご心配しておりましたのに、厄払いをさせていらっしゃらなかったとは」
と帝は驚かれて、あわてて神社やお寺にお祈りをお命じになった。
厄年の三十七歳でいらっしゃるけれど、まだお若くお美しい。
<お亡くなりになるには早すぎる>
と帝もつらくお思いになる。
宮様は息が苦しくて、これ以上お話しになれない。
お心のなかでいろいろなことをお思いになる。
<幸運と悲運が両極端な人生だった。中宮になるという最高の幸運も手に入れたけれど、源氏の君との許されぬ恋は、つらすぎる運命だった。しかし、もう私自身のことはどうでもよい。帝が実の父親をご存じなくご成長なさるのが心苦しい。そのことだけが気がかりで、死んでも死にきれないだろう>
あっという間に帝はお帰りになる。
内裏からの外出には制限が多くて、こんなときでさえ母君のそばに長くいらっしゃることはできないの。
お互いにご心配もご不安もおありでしょうに、悲しいお別れだったわ。
内大臣としての源氏の君は、太政大臣様につづいて帝の母君でいらっしゃる入道の宮様までお亡くなりになりそうなことを、国家の悲しみとお思いになっている。
それと同時に、ひとりの男性としての源氏の君は、宮様のご衰弱がただひたすらにおつらい。
あちこちにお祈りをお命じになって、ご自身でも宮様のご回復を念じられる。
宮様がご出家なさってからは、源氏の君は恋心を封印していらっしゃった。
でも、宮様がお亡くなりになってしまうと思うと、どうしてももう一度、お気持ちを伝えたくなってしまわれる。
お見舞いに伺って、ついたて越しだけれど宮様の近くまでお寄りになる。
ご病状をお尋ねになると、宮様にかわいがられていた女房がくわしくお話し申し上げた。
「ずっとご体調がお悪うございましたのに、仏教の修行をお休みにならず続けていらっしゃいました。ついにご無理がたたってお倒れになったのでございます。近ごろではほんの少しの果物でさえお召し上がりになりません。これではもう、どうしようも」
と泣いている。
宮様は苦しそうにお口を開かれた。
弱々しい声がかすかに響く。
「上皇様のご遺言どおり、帝の後見をしてくださいましたこと、ずっとありがたく思っておりました。この感謝の気持ちをどうお伝えしようかと、のんびり考えておりましたら、このようになってしまいまして」
と女房にお伝えになっているのだけれど、そのお声は直接源氏の君に届いた。
苦しくてつらくて泣いてしまわれる。
とてもお返事を申し上げることはおできにならない。
<いけない。こんなふうに取り乱しては、女房たちがあやしむだろう>
とお思いになるけれど、お元気だったころの宮様のご様子を思い出すと涙が止まらない。
「頼りない私でございましたが、力の限りお仕えしようとしてまいりました。太政大臣様がお亡くなりになったばかりですのに、また宮様までとあっては、その力も尽きてしまいそうでございます。私の命も間もなく消えましょう」
と申し上げていらっしゃるうちに、小さな火がふっと消えるように宮様はお亡くなりになった。
入道の宮様は、本当にご立派な方だったわ。
お優しいお人柄で、けっして人に無理をさせることのない方だった。
中宮という女性としては最高のご身分でいらっしゃったけれど、威張ることも、無理なご命令をなさることもなかった。
誰かが何かをしてさしあげようとしても、その誰かの下にいる人が苦しむようなことなら辞退なさった。
仏教の行事もむやみやたらに豪華にはなさらなかったわ。
ご自分の経済力でできる範囲で、心をこめて丁寧に行われたの。
こういう方でいらっしゃったから、お亡くなりになったことを下々の者まで嘆いていた。
春だというのに世の中全体が暗くなった。
源氏の君は二条の院の桜をご覧になっても、入道の宮様が中宮でいらっしゃったころの内裏での桜の宴を悲しく思い出される。
「今年だけは美しい桜色が憎い。いっそ喪服のような灰色の花をつけてくれたらよいのに」
と思わずつぶやかれて、人目を気にしてあたりを見回される。
世間では、源氏の君にとって入道の宮様は、父君のお妃様たちのおひとりというだけ。
いくら帝の後見やお世話をなさっているといっても、あまりに悲しんでいらっしゃったら不自然になってしまう。
仏教の修行のための離れに閉じこもって、一日中泣いていらっしゃった。
夕日が山をはなやかに照らして、木々の先がきらきらと輝いている。
薄い雲が灰色になって浮かんでいるのをご覧になって、
「あの薄雲は私の気持ちを分かってくれているのだろう」
と独り言をおっしゃった。



