天気……秋の気配がますます色濃くなってきた。澄んだ空に、白い雲が小舟のように、いくつか浮かんでいて、たゆたうように、ゆったりと流れていた。湖畔に沿って植えてあるイチョウの木の葉が黄色く色づき、深まりゆく秋の風情に、そこはかとなく情緒を醸し出していた。水鏡のような穏やかな翠湖の湖面には、雲の影が逆さまに映っていた。

サンパオは一日でも早く黒騎士を探しに行きたくてたまらないようだった。そんなサンパオの気持ちを鎮めながら、ぼくは老いらくさんからの連絡を待ち続けていた。老いらくさんのことを、ぼくはとても信用している。老いらくさんはきっと今ごろは、あちこち奔走して、たくさんの子孫たちから有力な手掛かりや情報を集めるために奮闘しているにちがいない。ぼくはそう思いながら、秋の日の穏やかな一日を過ごしていた。
日が落ちて外が暗くなりかけたころ、老いらくさんが、うちの近くまでやってきた。
「笑い猫、わしは昨夜、この公園に住んでいる子孫たちを一か所に集めて、集会を開いた。黒騎士の情報を集めに行かせるためだ。子孫たちは勤勉に事に当たり、町の郊外の隅々にまで出かけていき、この町のあちこちに住んでいる、わしの子孫たちと会って、いろいろな情報を持ってきてくれた」
老いらくさんがそう言った。
「有力な情報がありましたか」
ぼくは間髪を入れずに聞き返した。
「あった」
老いらくさんがそう答えたので、ぼくは思わず、にんまりした。
「それはよかったです。黒騎士はどこにいるのですか」
ぼくがそう聞くと老いらくさんは首を軽く横に振った。
「有力な情報はいくつかあったが、そのなかのどれが黒騎士なのか、まだ特定できずにいる」
老いらくさんがそう答えた。
「どうしてですか」
ぼくは、けげんに思って聞き返した。
「黒いラブラドル・レトリバー犬は、この町のあちこちにいることが分かったからだ」
老いらくさんが、そう答えた。
「そうですか。でも足に障害がある犬と言えば限られるのではないですか」
ぼくがそう言うと、老いらくさんが
「わしもそう思ったが、わしの子孫たちは遠くから見ただけだから、そこまでは見分けがつかなかった」
と答えた。
「そうですか。それでは実際に、近くまで行って確かめるしかないですね」
ぼくが、そう言うと、老いらくさんがうなずいた。
「わしもついていくよ」
老いらくさんがそう言った。
「えっ、老いらくさんも行くのですか」
ぼくはびっくりして聞き返した。
「もちろんだよ。わしはサンパオのことをとても大切に思っているからな」
老いらくさんがそう答えた。
「老いらくさんの気持ちはよく分かります。しかしサンパオはもう赤ん坊ではないので、サンパオと一緒に行ったら、何が起こるか分かりません」
ぼくはそう言って、老いらくさんがサンパオと一緒に行くことに難色を示した。サンパオは老いらくさんのことを、これまでずっと虫だとばかり思っていたが、老いらくさんにネズミのにおいを感じて、本当はネズミだということが分かったら、老いらくさんに飛びかからないとも限らない。ぼくは、そのことをずっと心配していた。
「大丈夫だよ。スイカボールの中に入って転がっていくよ」
老いらくさんが、そう言った。スイカボールというのは、老いらくさんが公園のゴミ箱の中から見つけてきたビニール製のボール。大きさがスイカぐらいで、スイカの模様が表面に描かれていて、ネズミぐらいの大きさの動物ならボールの中に入れるようになっている。サンパオが生まれたばかりのころ、玉跳びの練習をさせるために、老いらくさんはボールの中に入って転がりながらサンパオに跳ばせて遊ばせていた。スイカボールはサンパオが大好きなボールだし、中に老いらくさんが入っているとは少しも思っていなかった。
「わしはこれからうちへ帰って、明日の朝、スイカボールの中に入って転がりながら、お前のうちの前までやってくる。一緒に黒騎士を探すための旅に出よう」
老いらくさんがそう言った。
「分かりました。サンパオにも、明日から旅に出ることを伝えておきます」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく老いらくさんは、うちへ帰っていった。
一夜、明けて、今朝早く、サンパオは目が覚めるとすぐに、そわそわし始めた。朝食を終えてから、出発の準備をしていると、うちの出入り口のところにスイカボールがころころと転がってきた。
(老いらくさんだ)
ぼくはそう思った。
サンパオに気づかれないように、老いらくさんに声はかけなかった、老いらくさんも声は出さなかった。
「あっ、ボールだ。ぼくの大好きなスイカボール」
サンパオはそう言ってから、ボールの上をぴょんぴょん跳んで、楽しそうに遊んでいた。
「お父さん、このボールも持っていこうよ。ぼくが転がしていくから」
サンパオがそう言った。
「いいよ。このボールには不思議な力があるから、持っていったら、何かよいことがあるかもしれない」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくとサンパオは、うちを出ることにした。出る前に妻猫とパントーとアーヤーに、しばらくうちに帰ってこないかもしれないと話した。妻猫もパントーもアーヤーも少し寂しそうな顔をしていたが、サンパオが黒騎士を探して友だちになりたいと思っている以上、仕方のないことかもしれないと思って分かってくれた。
「さあ、出かけよう」
ぼくはサンパオに声をかけた。
サンパオはうなずいてから、自分よりも一回り大きいスイカボールに手を添えた。
「お父さん、ぼくたち、これから、どこへ探しに行くの?」
サンパオが聞いた。
「スイカボールの後についていったらいいよ」
ぼくはそう答えた。
「分かった。そうするよ」
サンパオがうなずいた。
サンパオがスイカボールをちょっと押すと、スイカボールは自分が行きたいほうに、ころころと転がり始めた。
「本当に不思議なボールですね。まるで生きているみたい」
サンパオが楽しそうな顔をしながら、そう言った。
公園を出ると、スイカボールは南のほうへ転がっていった。ぼくとサンパオはスイカボールの後に続いて、南へまっすぐ延びている道路の上を車に気をつけながら歩いていった。
公園を出てから、小一時間ほど歩いたとき、ぼくたちは、緑が広がっている農村地帯に入ってきた。スイカボールは、この農村地帯の中で転がるのをやめた。
(黒騎士は、ここにいるのだろうか)
ぼくはそう思った。
「お父さん、ぼく、これから農家を一軒一軒、見て回って、黒騎士がいないかどうか見てくるよ」
サンパオがそう言った。
「うん、分かった。気をつけていくのだよ」
ぼくはそう答えて、サンパオの後ろ姿を見送った。
サンパオが行ってしまったあと、スイカボールの中から、老いらくさんの声がした。
「笑い猫、黒騎士は以前はこの農村地帯にある農家の中で飼われていたようだ。しかし今はここではなくて、ここからさらに南に行ったところにある工場地帯の中で飼われているようだ」
老いらくさんがそう言った。
「えっ、そうなのですか。どうして、もっと早く、そのことを言わなかったのですか」
ぼくは少し、むっとしていた。
「サンパオがずっとお前のそばにいたから、声を出す機会がなかったのだ」
老いらくさんがそう答えた。
サンパオは三十分ほどしてから戻ってきた。
「二十軒ほど見て回ったけど、黒騎士はどこにもいなかったよ」
サンパオは、しょげたような顔をしていた。
「黒騎士は以前はここに住んでいたようだが、今は別のところに住んでいるようだ」
ぼくはそう言った。
「そうですか。でもお父さんは、どうしてそのことを知っているの。もっと早く教えてくれたら、無駄足を踏まなくてよかったのに……」
サンパオが不満そうな顔をしていた。
「ごめん、ごめん。悪かった」
ぼくはそう言って、サンパオに謝った。
「黒騎士は今はどこに住んでいるの」
サンパオが聞いた。
「ここからさらに南に行ったところにある工場地帯の中で飼われているようだ」
ぼくはそう答えた。
「どうしてそのことを知っているの」
「……」
ぼくは一瞬、答えに詰まった。
「何となく、そんな気がするだけだ」
そう答えるしかなかった。
「お父さんの勘を頼って探しに行くのは気が進まないなあ。どうせまた無駄足を踏むのではないの」
サンパオが渋い顔をしていた。
「そう思うなら、スイカボールをちょっと押してみろよ。スイカボールの行くほうへ探しに行こうよ」
ぼくがそう言うと、サンパオがうなずいた。
サンパオがスイカボールを押すと、スイカボールは再び転がり始めた。スイカボールは農村地帯を通り抜けて、さらに南に行ったところにある近代的な工場地帯のほうへ向かっていった。工場地帯の中には、先端的なハイテク技術を駆使した工場群がずらっと建ち並んでいて、どの工場の出入り口にも最先端のコンピューターを用いた監視制御装置が設置されていた。このような工場の中で犬が飼われていること自体、似つかわしくない光景だから、老いらくさんが言ったことが、にわかには信じられないようにも思えた。しかしそれでも老いらくさんの言うことを信じて、この工場地帯の中で黒騎士を探すことにした。
工場地帯に到着してからまもなく、目の前にある工場の上に大きな広告が出ていた。ハムの絵が描かれていた。
「サンパオ、ここはハムを作る工場のようだ」
ぼくがそう言うと、サンパオが鼻をくんくんさせながら
「道理で、いいにおいが漂ってきているわけだ」
と答えた。
「ぼくはこれから正門の近くへ行ってみるよ」
サンパオが、そう言った。
「分かった。犬が工場で飼われているとしたら、番犬として正門の前で人を監視しているかもしれないからな」
ぼくはそう答えた。
サンパオが出ていってからまもなく、スイカボールの中から老いらくさんの声が聞こえた。
「わしはこの工場の中に黒騎士がいたらいいなあと思っている」
老いらくさんがそう言った。
「どうしてですか」
ぼくはすぐに聞き返した。
「黒騎士がここにいて、サンパオと友だちになったら、サンパオは黒騎士からハムを分けてもらって食べることができる」
老いらくさんがそう言った。
「何を言っているのですか。そんなことは絶対にありえません」
ぼくは強く否定した。
「黒騎士がハムをもらっているとは限らないし、もらっていたとしても、うちのサンパオは食べないと思います」
ぼくはそう言った。
「どうしてだ。ハムはおいしいではないか」
老いらくさんが、けげんそうな顔をした。
「うちのサンパオが黒騎士から分けてもらいたいと思っているのは、ハムではありません。勇気です」
ぼくは毅然とした声で、そう言った。
「そうか。勇気か。建前はそうかもしれないが、本音は違うかもしれないではないか」
老いらくさんがそう言った。
「サンパオは育ち盛りの子どもですが、パントーと違って食い意地は張っていないので、建前も本音もまったく同じです」
ぼくは、きっぱりとそう言った。
「そうか。それは健気な心がけだな」
老いらくさんがそう答えた。
「あっ、サンパオが帰ってきた」
サンパオが戻ってくるのが見えたので、ぼくがそう言うと、老いらくさんは水が引いたように話をさっとやめた。
サンパオはとても慌てた様子で、こちらへ向かって、ものすごい勢いで戻ってきた。
「どうしたのだ、サンパオ」
ぼくはびっくりして聞き返した。
「門の前に大きなシェパード犬がいて、ものすごい声で吠えられた。怖かった」
サンパオがそう答えた。
「そうか。シェパード犬だったか。黒騎士ではなかったのか」
ぼくはそう答えた。老いらくさんからの情報によると、シェパード犬ではなくて、ラブラドル・レトリバー犬がここにいるはずだったが、情報が間違っていたことになる。
ぼくとサンパオは、それからまもなく別の工場へ探しに行くことにした。スイカボールが転がっていった先はテレビの部品を組み立てる工場だった。工場の前には花壇があって、大輪の菊の花が咲いていて美を競い合っていた。かぐわしい花のにおいが、辺り一面にぷんぷんと漂っていて、ほかのにおいは何も感じられなかった。
「ここには動物のにおいは感じられないから、犬はいないと思うけど」
サンパオがそう言った。
「そうとは限らないよ。花のにおいが強すぎて、動物のにおいをかき消してしまっているのかもしれない」
ぼくはそう答えて、サンパオを工場の門の前に行かせた。しばらくしてからサンパオが戻ってきた。
「門の前に犬はいなかったけど、門の横にある守衛室の中にラブラドル・レトリバー犬が寝ていた」
サンパオがそう答えた。
「黒騎士だったか」
ぼくは期待に胸をときめかせながら、聞き返した。するとサンパオが首を横に振った。
「黒騎士かどうか確かめようと思って、その犬を挑発して立たせたけど、後ろ足に障害らしいものは感じられなかった」
サンパオがそう答えた。
「そうか。黒騎士ではなかったか」
ぼくはがっかりした。
ぼくとサンパオは、それからまたスイカボールの後について、いくつかの工場を見て回った。番犬が門の前で見張っている工場は五つほどあった。しかしどの番犬もラブラドル・レトリバー犬ではなかった。途方に暮れて、ぼくもサンパオも黒騎士を探す気力が、だんだん失せてきた。老いらくさんは、スイカボールの中で、どのように思っているのだろうか。ぼくは聞きたくなった。でもサンパオがそばにいるので、今は老いらくさんに話しかけないことにした。
日が沈みかけて、辺りが暗くなってきた。ぼくとサンパオはスイカボールを転がしながら、農村地帯まで戻ってきて、田んぼの中に入り、稲を刈り取った後のわらが積んである中で一晩過ごすことにした。