天気…日が沈むと夜空には宝石のように、きらきらと輝く星が無数に現れて、空全体を美しく彩っていた。星空にはロマンチックなギリシャ神話の世界があふれていて、数日後に迫ってきた中秋の名月のプロローグを華やかに演出しているように思えた。
森の中のたそがれ時は、昼間以上にとても静かな雰囲気に包まれている。西の空を見上げれば、きれいなオレンジ色に染まっていて、えも言われぬほどの美しさにあふれている。昼間、町のあちこちで楽しくさえずっていた小鳥たちが、夕日に染まる西の空に名残を惜しむようにしてねぐらに帰ってくる。これも森の中の暮色ならではの光景だ。
夕方の六時を過ぎたころ、ピアノ調律師が盲導犬に導かれるようにして、うちの中から出てきた。いよいよ、これから、公園に行くのだ。ぼくとサンパオは、ヒマリーのあとからついていった。老いらくさんもついてきた。
森を出ると、ピアノ調律師と盲導犬は信号に気をつけながら、大通りを渡って歩いていった。三つめの大通りを渡って、左に曲がって少し行ったところに、小さな公園があって、その公園の入口まで来た時に盲導犬は足を止めた。盲導犬がピアノ調律師を導きながら、公園の中に入ろうとした時、入口の横にある守衛室から人が出てきて、盲導犬とピアノ調律師が公園の中に入るのを制止した。
「だめだ。ここには入れない。『ペットは立ち入り禁止』と書いてあるではないか」
怒ったような表情で守衛がピアノ調律師に注意しているのが聞こえてきた。
ぼくはそれを聞いて、けげんに思った。
「盲導犬は毎晩、ピアノ調律師を連れて公園に行くと、あなたは言っていたではありませんか。それなのに、どうして今日は公園に入っていけないのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「はっきりした理由は、おれにも分からない。ただ、あの守衛はこれまで見かけたことがない人だ。もしかしたら最近来たばかりの人で、あの犬が盲導犬だということに気がついていないのかもしれない」
ヒマリーがそう答えた。
「ペットの犬を連れてこの公園の中を散歩するのは禁止だが、盲人が盲導犬に導かれながら散歩するのは許されている」
ヒマリーがそう言った。
(あのピアノ調律師は盲人で、あの犬は盲導犬だということは見たらすぐに分かりそうなのに、分からないとは、あの守衛はなんて愚鈍なのだろう)
ぼくはそう思った。
ピアノ調律師が守衛に何か釈明しているのが聞こえてきた。しかし守衛はまったく聞く耳を持たずに、険しい態度のまま、突っぱねていた。それを見て、ぼくはピアノ調律師と盲導犬がとてもかわいそうに思えてきた。
(ぼくにできることがあったら何かしてあげなければ)
ぼくはそう思ったので、機転を利かせて、守衛の前に飛び出していって、大きな声で笑った。ぼくの笑い顔を見て、守衛はぎょっとして、ぼくの顔にくぎ付けになった。
「何だ、この猫は。化け猫か。笑える猫がいるのか……」
守衛が心の中で、そう言っているのが聞こえたような気がした。
守衛があっけにとられているすきに乗じて、ピアノ調律師と盲導犬は公園の中に入っていくことができた。
(うまくいってよかった)
作戦が成功して、ぼくはほっとした。
守衛の気をそらし続けるために、ぼくは笑みを浮かべたまま、じりじりと後ろに下がっていった。守衛は悪霊を見るような目でぼくを見ながら、ぼくのあとからついてきた。入口の横には高さ二メートルほどの外壁が張り巡らしてあって、外壁の所々に小さな窓があった。窓は開いていたので、ぼくとサンパオは体を縮めるようにしてその窓から公園の中に入っていった。あっという間の出来事だったので、守衛には、ぼくたちが公園の中に入るのを制止するすべがなかった。老いらくさんは、ぴょーんと高く飛び上がって、外壁の上をとび越えて公園の中に入った。スイカボールが外壁をとび越えるのを見て、守衛はびっくりして、目を白黒させていた。
首尾よく公園の中に入ることができたぼくたちは、追っ手を振り切るように、玉石が敷き詰められた小径の上を逃げるように走っていった。ひたすら走っていって、後ろを振り返ると追いかけているはずの守衛の姿はなかったので、ぼくたちはほっとした。ぼくたちの逃げ足が速かったので守衛は追うのをあきらめたのかもしれない。ぼくはそう思った。守衛を振り切ったのはよかったが、ピアノ調律師と盲導犬がどちらのほうに行ったのか、皆目、見当もつかなかったので、それが困った。ヒマリーに聞いたら分かるだろうと思って、ぼくとサンパオと老いらくさんは八角亭と呼ばれている休憩所でしばらくヒマリーを待っていた。しかし、ヒマリーはなかなかやってこなかった。ヒマリーは犬なので、ぼくたちのように小さなすき間をくぐり抜けたり、老いらくさんのように高く飛んで公園の中に入ることができないので、もしかしたらまだ公園の入口の外にいるかもしれない。ぼくはそう思った。ヒマリーがいなければ、ピアノ調律師と盲導犬を探しにいくすべがないので、ぼくたちは、再び、公園の入口付近まで戻った。外壁の所々にある小さな窓から、外の様子をうかがうと、守衛の姿が見えた。しかしヒマリーの姿は見えなかった。
(どこに行ったのだろう。うちへ帰っていったのだろうか)
そう思いながら、外壁の外をぼんやりした目で見ていると、後ろから不意に
「お前たち、そこから何を見ているのか」
と、声をかけられた。ヒマリーだった。
「あれっ、いつのまに、どこから入っていたのですか」
ぼくは、けげんに思って聞き返した。
「この公園には出入口が二つある。おれは裏門から入ってきた」
ヒマリーがそう答えた。
「裏門にも守衛がいるが、裏門の守衛は今までと同じ人だったから、おれのことをよく知っていた。盲導犬として活躍していたおれを見て、すぐに顔パスしてくれた」
ヒマリーが誇らしげにそう言った。
「そうですか。盲人を導いていなくても盲導犬だと分かっていれば、中に入れてくれるのですね」
「そうだよ。その通りだよ」
ヒマリーがうなずいた。
「ピアノ調律師と盲導犬の姿を見失ってしまったので、ぼくたちはこれから手分けして探しに行こうと思っていたところです」
ぼくはそう言った。
「大丈夫だよ。その必要はないよ。ピアノ調律師と盲導犬は、花がいっぱい咲いている花壇のほうに行ったと思うよ」
ヒマリーがそう答えた。
「そうですか。ではそこへ行きましょう。案内してください」
ぼくはそう言った。
「うん、分かった。おれのあとについてきなさい」
ヒマリーがそう言った。
ぼくとサンパオは、それからまもなくヒマリーに導かれるまま、あとからついていった。花壇は公園の隅のとても静かな一角にあった。いろいろな花が植えられていて、今ちょうど盛りを迎えている花や、咲く寸前になっていて、つぼみが大きく膨らんでいる花がたくさんあった。でも今は夜間だから辺りに人影はほとんどなかった。花壇は、遊歩道から少し離れたところにあったし、花壇の入口には「立ち入り禁止」という冷たい立札も立っていた。
ピアノ調律師と盲導犬は、ヒマリーが言ったとおり、花壇の中にいた。ピアノ調律師は目が見えないために、立札が読めないで、中に入っていったのだろうかと、ぼくは思った。見つかったら怒られるのではないかと思って、ぼくは心配した。そんなぼくの心配をよそに、ピアノ調律師はしゃがみこんで、花が開く寸前のつぼみに、耳を近づけていた。
(何をしているのだろう)
ぼくは奇異に感じた。
「花のにおいをかいでいるのかな」
サンパオがそう言った。ぼくは首を横に振った。
「においをかぐのは鼻だろう。耳でにおいがかげるわけがないではないか」
ぼくはそう答えた。
「おれにもさっぱり分からなかった。ピアノ調律師はここに来るたびに、いつも耳を花のつぼみに近づけていた」
ヒマリーがそう言った。
「もしかしたら、つぼみが開く時に、かすかな音がするのかもしれない。その音を聞こうとして耳を近づけているのかもしれない」
ぼくは想像をたくましくして、そう言った。
「つぼみが開く時に音がするとはおれには到底思えないがなあ」
ヒマリーが、首をかしげながら、耳を花に近づけていった。しばらくじっと耳を傾けていたが、首を横に振った。
「何も聞こえなかった」
ヒマリーがぽつりと、そう言った。
「その花はもう盛りを過ぎているよ」
ぼくはそう言ってから、つぼみが大きく膨らんでいて、咲く寸前になっている花を探して、そのつぼみに耳を近づけるように、ヒマリーに言った。花のかぐわしいにおいが、ぼくの鼻からぷんぷん漂ってきた。つぼみが開く時に、はじけるような音が出るかどうか、ぼくも試してみることにした。右の耳で聞いても、左の耳で聞いても音はまったく聞こえてこなかった。ヒマリーも同じだった。
「おれにはまるっきり音が聞こえない。おれの耳には何も問題がないはずだがなあ」
ヒマリーがそう言った。
「ぼくもそう思います。ぼくにも音は聞こえませんでした。ぼくの耳にも問題はありません。ぼくたちの耳は普通で、ピアノ調律師の耳が普通ではないのです」
ぼくはそう答えた。それを聞いて、ヒマリーは、ますます、わけがわからなくなって、頭の中が、もやもやとした霧に包まれているような顔をしていた。
「ピアノ調律師の耳は普通の人の耳とは違っています。研ぎ澄まされていて、芸術家としての繊細な感知力にあふれています。そのために通常では聞こえない微細な音でも心の耳でとらえることができるのだと思います」
ぼくはそう言った。
「神様はピアノ調律師に花が咲く瞬間を目で見る喜びを与えませんでした。その代わりに花が咲く瞬間に出るかすかな音を心の耳でとらえる才能を与えたのだと思います」
ぼくはそう言った。ヒマリーがうなずいた。
日がどっぷり暮れて、辺りが闇に包まれて、夜空に星がこうこうと輝いていた。それでも、ピアノ調律師は花のつぼみに一心に耳を傾けたまま、その姿勢を崩さなかった。盲導犬はピアノ調律師のそばに行儀よく、じっと座っていて、優しい目で見守っていた。ピアノ調律師の目にも盲導犬の目にも、星の光が映っていて、ひとみが宝石のように、とてもきれいだった。
「この盲導犬は後ろ足に障害があるにもかかわらず、本当にたいしたものだ。おれ以上にすぐれた盲導犬だ。心から敬服する」
ヒマリーがそう言った。
「おれも、おれなりに一生懸命、頑張ってきたが、こんなおかしなことをするピアノ調律師には、どうしても、付き合いきれなかった」
ヒマリーが、本音を吐露した。ヒマリーの気持ちが分からないこともないような気がした。
「お父さん、この盲導犬はまぎれもなく黒騎士だよ」
サンパオが、ぼくの耳元で、ささやくように言った。ぼくはうなずいた。
「黒騎士は以前、震災現場で救助活動をしていたが、その時の活動は模範的なものだった。そして障害を負った今は盲導犬として模範的なことをしている。これも当然の成り行きだろう」
ぼくはそう言った。
夜が更けてきた時、ピアノ調律師はようやく、花壇の中から出て、うちへ帰る準備を始めた。夜道で転倒しないように気をつけながら、ピアノ調律師は盲導犬のリードを慎重に引きながら、ゆっくりした足取りで公園の出口のほうに向かって歩いていた。公園の中には人影はまったくなかった。公園の外に出ても、通りはとても静かで、行きかう車や人は、ほとんどなかった。ピアノ調律師と盲導犬は通りを抜けると、舗装されていない野道をしばらく歩いてから森の入口まできた。木々の間から星明かりが、見えたり隠れたりしながら柔らかく差し込んでいるのが見えた。森の中に入って山道をしばらく歩いていると木々の向こうに、ピアノ調律師と盲導犬が住んでいる家が、星明かりに照らされながら、ぼーっと、かすんで見えてきた。ロマンティックな童話の中に出てくる小人の家のようなたたずまいだった。夜道で足元がおぼつかないなか、ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら、無事に家の前まで帰ってくることができた。しかしピアノ調律師はすぐには家の中に入らないで、家の前で奇妙なことをした。盲導犬のリードを放して、草が茂っている地面に体を伏せて、耳を地面にぴたりとつけたからだ。
(何をしているのだろう)
ぼくは、そう思いながら、ピアノ調律師の一挙手一投足をじっと見ていた。
「おれが盲導犬をしていた時も、いつも、同じことをしていた。おれには理由がさっぱり分からなかった」
ヒマリーがそう言った。
「もしかしたら草が土の中から成長してくる時に根からかすかな音がして、その音を聞いているのかもしれない」
ぼくは想像を膨らませながら、そう言った。根から音が出るはずがないと、ぼくも本当は思っていた。しかし特殊な才能を持つピアノ調律師には、普通は絶対に聞こえない音が心の耳を通して聞こえるのかもしれないと、あえて思うことにした。
ピアノ調律師が地面に体を伏せて、おかしなことをしていた時、盲導犬も草の上に体を伏せて、深い情がこもったようなまなざしでピアノ調律師を見ていた。『以心伝心』という言葉があるが、盲導犬にはピアノ調律師の気持ちが十分に伝わっているように思えた。
森の中のたそがれ時は、昼間以上にとても静かな雰囲気に包まれている。西の空を見上げれば、きれいなオレンジ色に染まっていて、えも言われぬほどの美しさにあふれている。昼間、町のあちこちで楽しくさえずっていた小鳥たちが、夕日に染まる西の空に名残を惜しむようにしてねぐらに帰ってくる。これも森の中の暮色ならではの光景だ。
夕方の六時を過ぎたころ、ピアノ調律師が盲導犬に導かれるようにして、うちの中から出てきた。いよいよ、これから、公園に行くのだ。ぼくとサンパオは、ヒマリーのあとからついていった。老いらくさんもついてきた。
森を出ると、ピアノ調律師と盲導犬は信号に気をつけながら、大通りを渡って歩いていった。三つめの大通りを渡って、左に曲がって少し行ったところに、小さな公園があって、その公園の入口まで来た時に盲導犬は足を止めた。盲導犬がピアノ調律師を導きながら、公園の中に入ろうとした時、入口の横にある守衛室から人が出てきて、盲導犬とピアノ調律師が公園の中に入るのを制止した。
「だめだ。ここには入れない。『ペットは立ち入り禁止』と書いてあるではないか」
怒ったような表情で守衛がピアノ調律師に注意しているのが聞こえてきた。
ぼくはそれを聞いて、けげんに思った。
「盲導犬は毎晩、ピアノ調律師を連れて公園に行くと、あなたは言っていたではありませんか。それなのに、どうして今日は公園に入っていけないのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「はっきりした理由は、おれにも分からない。ただ、あの守衛はこれまで見かけたことがない人だ。もしかしたら最近来たばかりの人で、あの犬が盲導犬だということに気がついていないのかもしれない」
ヒマリーがそう答えた。
「ペットの犬を連れてこの公園の中を散歩するのは禁止だが、盲人が盲導犬に導かれながら散歩するのは許されている」
ヒマリーがそう言った。
(あのピアノ調律師は盲人で、あの犬は盲導犬だということは見たらすぐに分かりそうなのに、分からないとは、あの守衛はなんて愚鈍なのだろう)
ぼくはそう思った。
ピアノ調律師が守衛に何か釈明しているのが聞こえてきた。しかし守衛はまったく聞く耳を持たずに、険しい態度のまま、突っぱねていた。それを見て、ぼくはピアノ調律師と盲導犬がとてもかわいそうに思えてきた。
(ぼくにできることがあったら何かしてあげなければ)
ぼくはそう思ったので、機転を利かせて、守衛の前に飛び出していって、大きな声で笑った。ぼくの笑い顔を見て、守衛はぎょっとして、ぼくの顔にくぎ付けになった。
「何だ、この猫は。化け猫か。笑える猫がいるのか……」
守衛が心の中で、そう言っているのが聞こえたような気がした。
守衛があっけにとられているすきに乗じて、ピアノ調律師と盲導犬は公園の中に入っていくことができた。
(うまくいってよかった)
作戦が成功して、ぼくはほっとした。
守衛の気をそらし続けるために、ぼくは笑みを浮かべたまま、じりじりと後ろに下がっていった。守衛は悪霊を見るような目でぼくを見ながら、ぼくのあとからついてきた。入口の横には高さ二メートルほどの外壁が張り巡らしてあって、外壁の所々に小さな窓があった。窓は開いていたので、ぼくとサンパオは体を縮めるようにしてその窓から公園の中に入っていった。あっという間の出来事だったので、守衛には、ぼくたちが公園の中に入るのを制止するすべがなかった。老いらくさんは、ぴょーんと高く飛び上がって、外壁の上をとび越えて公園の中に入った。スイカボールが外壁をとび越えるのを見て、守衛はびっくりして、目を白黒させていた。
首尾よく公園の中に入ることができたぼくたちは、追っ手を振り切るように、玉石が敷き詰められた小径の上を逃げるように走っていった。ひたすら走っていって、後ろを振り返ると追いかけているはずの守衛の姿はなかったので、ぼくたちはほっとした。ぼくたちの逃げ足が速かったので守衛は追うのをあきらめたのかもしれない。ぼくはそう思った。守衛を振り切ったのはよかったが、ピアノ調律師と盲導犬がどちらのほうに行ったのか、皆目、見当もつかなかったので、それが困った。ヒマリーに聞いたら分かるだろうと思って、ぼくとサンパオと老いらくさんは八角亭と呼ばれている休憩所でしばらくヒマリーを待っていた。しかし、ヒマリーはなかなかやってこなかった。ヒマリーは犬なので、ぼくたちのように小さなすき間をくぐり抜けたり、老いらくさんのように高く飛んで公園の中に入ることができないので、もしかしたらまだ公園の入口の外にいるかもしれない。ぼくはそう思った。ヒマリーがいなければ、ピアノ調律師と盲導犬を探しにいくすべがないので、ぼくたちは、再び、公園の入口付近まで戻った。外壁の所々にある小さな窓から、外の様子をうかがうと、守衛の姿が見えた。しかしヒマリーの姿は見えなかった。
(どこに行ったのだろう。うちへ帰っていったのだろうか)
そう思いながら、外壁の外をぼんやりした目で見ていると、後ろから不意に
「お前たち、そこから何を見ているのか」
と、声をかけられた。ヒマリーだった。
「あれっ、いつのまに、どこから入っていたのですか」
ぼくは、けげんに思って聞き返した。
「この公園には出入口が二つある。おれは裏門から入ってきた」
ヒマリーがそう答えた。
「裏門にも守衛がいるが、裏門の守衛は今までと同じ人だったから、おれのことをよく知っていた。盲導犬として活躍していたおれを見て、すぐに顔パスしてくれた」
ヒマリーが誇らしげにそう言った。
「そうですか。盲人を導いていなくても盲導犬だと分かっていれば、中に入れてくれるのですね」
「そうだよ。その通りだよ」
ヒマリーがうなずいた。
「ピアノ調律師と盲導犬の姿を見失ってしまったので、ぼくたちはこれから手分けして探しに行こうと思っていたところです」
ぼくはそう言った。
「大丈夫だよ。その必要はないよ。ピアノ調律師と盲導犬は、花がいっぱい咲いている花壇のほうに行ったと思うよ」
ヒマリーがそう答えた。
「そうですか。ではそこへ行きましょう。案内してください」
ぼくはそう言った。
「うん、分かった。おれのあとについてきなさい」
ヒマリーがそう言った。
ぼくとサンパオは、それからまもなくヒマリーに導かれるまま、あとからついていった。花壇は公園の隅のとても静かな一角にあった。いろいろな花が植えられていて、今ちょうど盛りを迎えている花や、咲く寸前になっていて、つぼみが大きく膨らんでいる花がたくさんあった。でも今は夜間だから辺りに人影はほとんどなかった。花壇は、遊歩道から少し離れたところにあったし、花壇の入口には「立ち入り禁止」という冷たい立札も立っていた。
ピアノ調律師と盲導犬は、ヒマリーが言ったとおり、花壇の中にいた。ピアノ調律師は目が見えないために、立札が読めないで、中に入っていったのだろうかと、ぼくは思った。見つかったら怒られるのではないかと思って、ぼくは心配した。そんなぼくの心配をよそに、ピアノ調律師はしゃがみこんで、花が開く寸前のつぼみに、耳を近づけていた。
(何をしているのだろう)
ぼくは奇異に感じた。
「花のにおいをかいでいるのかな」
サンパオがそう言った。ぼくは首を横に振った。
「においをかぐのは鼻だろう。耳でにおいがかげるわけがないではないか」
ぼくはそう答えた。
「おれにもさっぱり分からなかった。ピアノ調律師はここに来るたびに、いつも耳を花のつぼみに近づけていた」
ヒマリーがそう言った。
「もしかしたら、つぼみが開く時に、かすかな音がするのかもしれない。その音を聞こうとして耳を近づけているのかもしれない」
ぼくは想像をたくましくして、そう言った。
「つぼみが開く時に音がするとはおれには到底思えないがなあ」
ヒマリーが、首をかしげながら、耳を花に近づけていった。しばらくじっと耳を傾けていたが、首を横に振った。
「何も聞こえなかった」
ヒマリーがぽつりと、そう言った。
「その花はもう盛りを過ぎているよ」
ぼくはそう言ってから、つぼみが大きく膨らんでいて、咲く寸前になっている花を探して、そのつぼみに耳を近づけるように、ヒマリーに言った。花のかぐわしいにおいが、ぼくの鼻からぷんぷん漂ってきた。つぼみが開く時に、はじけるような音が出るかどうか、ぼくも試してみることにした。右の耳で聞いても、左の耳で聞いても音はまったく聞こえてこなかった。ヒマリーも同じだった。
「おれにはまるっきり音が聞こえない。おれの耳には何も問題がないはずだがなあ」
ヒマリーがそう言った。
「ぼくもそう思います。ぼくにも音は聞こえませんでした。ぼくの耳にも問題はありません。ぼくたちの耳は普通で、ピアノ調律師の耳が普通ではないのです」
ぼくはそう答えた。それを聞いて、ヒマリーは、ますます、わけがわからなくなって、頭の中が、もやもやとした霧に包まれているような顔をしていた。
「ピアノ調律師の耳は普通の人の耳とは違っています。研ぎ澄まされていて、芸術家としての繊細な感知力にあふれています。そのために通常では聞こえない微細な音でも心の耳でとらえることができるのだと思います」
ぼくはそう言った。
「神様はピアノ調律師に花が咲く瞬間を目で見る喜びを与えませんでした。その代わりに花が咲く瞬間に出るかすかな音を心の耳でとらえる才能を与えたのだと思います」
ぼくはそう言った。ヒマリーがうなずいた。
日がどっぷり暮れて、辺りが闇に包まれて、夜空に星がこうこうと輝いていた。それでも、ピアノ調律師は花のつぼみに一心に耳を傾けたまま、その姿勢を崩さなかった。盲導犬はピアノ調律師のそばに行儀よく、じっと座っていて、優しい目で見守っていた。ピアノ調律師の目にも盲導犬の目にも、星の光が映っていて、ひとみが宝石のように、とてもきれいだった。
「この盲導犬は後ろ足に障害があるにもかかわらず、本当にたいしたものだ。おれ以上にすぐれた盲導犬だ。心から敬服する」
ヒマリーがそう言った。
「おれも、おれなりに一生懸命、頑張ってきたが、こんなおかしなことをするピアノ調律師には、どうしても、付き合いきれなかった」
ヒマリーが、本音を吐露した。ヒマリーの気持ちが分からないこともないような気がした。
「お父さん、この盲導犬はまぎれもなく黒騎士だよ」
サンパオが、ぼくの耳元で、ささやくように言った。ぼくはうなずいた。
「黒騎士は以前、震災現場で救助活動をしていたが、その時の活動は模範的なものだった。そして障害を負った今は盲導犬として模範的なことをしている。これも当然の成り行きだろう」
ぼくはそう言った。
夜が更けてきた時、ピアノ調律師はようやく、花壇の中から出て、うちへ帰る準備を始めた。夜道で転倒しないように気をつけながら、ピアノ調律師は盲導犬のリードを慎重に引きながら、ゆっくりした足取りで公園の出口のほうに向かって歩いていた。公園の中には人影はまったくなかった。公園の外に出ても、通りはとても静かで、行きかう車や人は、ほとんどなかった。ピアノ調律師と盲導犬は通りを抜けると、舗装されていない野道をしばらく歩いてから森の入口まできた。木々の間から星明かりが、見えたり隠れたりしながら柔らかく差し込んでいるのが見えた。森の中に入って山道をしばらく歩いていると木々の向こうに、ピアノ調律師と盲導犬が住んでいる家が、星明かりに照らされながら、ぼーっと、かすんで見えてきた。ロマンティックな童話の中に出てくる小人の家のようなたたずまいだった。夜道で足元がおぼつかないなか、ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら、無事に家の前まで帰ってくることができた。しかしピアノ調律師はすぐには家の中に入らないで、家の前で奇妙なことをした。盲導犬のリードを放して、草が茂っている地面に体を伏せて、耳を地面にぴたりとつけたからだ。
(何をしているのだろう)
ぼくは、そう思いながら、ピアノ調律師の一挙手一投足をじっと見ていた。
「おれが盲導犬をしていた時も、いつも、同じことをしていた。おれには理由がさっぱり分からなかった」
ヒマリーがそう言った。
「もしかしたら草が土の中から成長してくる時に根からかすかな音がして、その音を聞いているのかもしれない」
ぼくは想像を膨らませながら、そう言った。根から音が出るはずがないと、ぼくも本当は思っていた。しかし特殊な才能を持つピアノ調律師には、普通は絶対に聞こえない音が心の耳を通して聞こえるのかもしれないと、あえて思うことにした。
ピアノ調律師が地面に体を伏せて、おかしなことをしていた時、盲導犬も草の上に体を伏せて、深い情がこもったようなまなざしでピアノ調律師を見ていた。『以心伝心』という言葉があるが、盲導犬にはピアノ調律師の気持ちが十分に伝わっているように思えた。

