天気……朝、目が覚めた時、東の空が真っ赤に染まっていて、きれいな朝焼けが広がっていた。遠くに見える山の上に、それからまもなく太陽が顔を出して、まばゆいほどの朝日が大地に柔らかく降り注ぎ始めた。秋が深まってきたので、太陽の光に照りつけるような激しさはなく、きらきらと輝いていても、暖かさよりも、ひんやりするような涼しささえ感じた。
ぼくとサンパオと老いらくさんは、昨夜は公園で寝てから、今朝早く、太陽が顔を出した直後に、昨日、ヒマリーと会った場所に出かけていった。
しばらく待っているとヒマリーがやってきた。
「やあ、待たせたな」
「大丈夫です」
ぼくはそう答えた。
「盲導犬が日頃、どんな生活をしているのか、ぼくはあまりよく知らないので、今日はとても楽しみにしています」
ぼくがそう言うと、ヒマリーが
「そうか。それはよかった」
と答えた。
「サンパオも楽しみにしています。よろしくお願いします」
ぼくはサンパオを見ながらそう言った。
「分かった。でも期待するのはいいが、あまり期待し過ぎないほうがいい」
ヒマリーが、ぼくたちの高揚した気持ちにブレーキをかけるように、そう言った。
「どうしてですか」
ぼくは聞き返した。
「初めのうちは盲導犬の仕事が珍しく思えるかもしれないが、見ているうちに、だんだん楽しくないように思えてくるかもしれないからだ」
ヒマリーがそう言った。
「大丈夫です。楽しくなくても見ていると勉強になります」
ぼくはそう答えた。
「そうか。それならよかった」
ヒマリーがそう答えた。
「ではこれから、おれの後についてこい。ここから二十分ほど行ったところに、小さな森の入口がある。その森の中におれが以前働いていた家がある」
ヒマリーがそう言った。
「分かりました。ついていきます」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくとサンパオはヒマリーの後からついていった。老いらくさんもスイカボールの中で転がりながらついてきた。歩きながら、ぼくはヒマリーに聞いた。
「盲導犬になろうと思ったきっかけは何だったのですか」
「きっかけも何もないよ。おれの飼い主が、おれを盲導犬にしようと思って訓練学校に無理やり連れていったからだ」
ヒマリーが不機嫌そうな声でそう言った。
「そうですか。あなたに盲導犬になるための素質や才能があると見込んで、飼い主さんが連れていったのではないですか」
ぼくはそう聞いた。するとヒマリーが首をかしげた。
「理由はおれにもよく分からない。ただ言えることは、犬だったらどんな犬でも盲導犬になれるわけではないということだ。おれのようなコリー犬か、ラブラドル・レトリバー犬が一番適しているようだ。おれが学校で訓練を受けていた時は、コリー犬とラブラドル・レトリバー犬しかいなかったから」
ヒマリーがそう答えた。
「どういうところが適しているのでしょうか」
ぼくは聞き返した。
「コリー犬もラブラドル・レトリバー犬も飼い主にとても忠実で、理解力が高いからではないかと、おれは思っている」
ヒマリーがそう言った。
「訓練を受けているなかで、おれたちはペットではなくて、盲人のために奉仕する犬として飼われるのだという意識をたたきこまれた。そのために訓練を終えたあと、飼い主がおれを盲人のうちに連れていって、それ以来その家で飼われるようになった」
盲導犬になったいきさつをヒマリーが話してくれた。ヒマリーの話を聞いて、ぼくは盲導犬がとても偉い犬のように思えてきた。サンパオにもヒマリーが言った話の内容を話して聞かせた。
「盲導犬はとても崇高な仕事をする犬なのに、どうしてその仕事を続けようとはしなかったのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「見たら分かると思うが、仕事の内容がとてもハードだし、毎日心身ともに疲れるので、するのがだんだん、嫌になってきた」
ヒマリーがそう答えた。
「それでどうしたのですか」
「仕事をしなくなったので、盲人が訓練学校に連絡して、それ以来、おれはお払い箱になった」
ヒマリーが自嘲ぎみにそう言った。
「あなたが辞めたあと、盲人はどうしたのですか」
ぼくは聞き返した。
「新しい盲導犬が来て、おれの代わりをしている」
ヒマリーがそう答えた。
「そうですか。それはよかったですね」
ぼくは、ほっとした声でそう言った。
「新しい盲導犬は、黒いラブラドル・レトリバー犬で、おれと同じように仕事をきちんとこなしている。よい後任が見つかったので、おれも安堵している。ただ、一つだけ難を言えば、その犬は左の後ろ足に障害があるということだ。そのために、とっさの行動ができないし、重い荷物を背中に背負わせるのは見るに忍びない」
ヒマリーがそう言った。
それを聞いて、ぼくは、ひょっとしたら、その犬は、ぼくたちが探している黒騎士かもしれないと思った。サンパオにもそのことを話したら、うなずいていた。
「今度こそ、本当の黒騎士かもしれないね」
サンパオがそう言った。
「喜ぶのはまだ早いよ」
ぼくはサンパオを戒めた。足が不自由な黒いラブラドル・レトリバー犬がこれまで何匹もいたが、結局どの犬も黒騎士ではなかったからだ。でも、ぼくも心の中では、今度こそ、本当の黒騎士であってほしいと思っていた。
「ともかく、その犬に会ってみようよ」
ぼくがサンパオにそう言うと、サンパオが
「そうだね。ぼくは盲導犬の生活に興味があるし、その盲導犬が黒騎士だったら、それ以上の喜びはないからね」
と答えた。
話しながら歩いているうちに、ヒマリーは、ぼくたちを田畑の先にある小さな森の入口に連れてきた。
「この森の中に家が一軒ある。盲人と盲導犬がその家に住んでいる」
ヒマリーがそう言った。森の入口まで来ると、森の中に、たくさんの木が茂っているのが見えた。木以外には何も見えなかったので、ベールに包まれた不思議な空間がその中に広がっているように思われた。
森に入ってから山道を十分ほど歩いたとき、遠くから男の人の声が聞こえてきた。歌を歌っていた。
「あれは盲人が歌っている声だ」
ヒマリーがそう言った。
「あの人は目がまったく見えないが、耳の感覚は研ぎ澄まされている。音にとても敏感な人だ」
ヒマリーがそう話した。
「卓越した耳の感覚を生かして、あの人はピアノの調律師をしている。あの人の耳は機械以上に正確だし、普通の人には聞こえない小さな音もとらえることができる」
ヒマリーはそう言って、称賛してやまないような顔をしていた。
「歌も上手ですね」
聞こえてくるテノールの声に耳を傾けながら、ぼくはそう言った。
「あの人はピアノの調律だけでなく歌の指導もしている」
ヒマリーがそう言った。
「そうですか。音感が抜群に優れている人なのですね」
ぼくも称賛してやまなかった。
「毎朝八時から十時まで歌の練習をして、そのあと盲導犬と一緒に仕事や買い物に出かけていく」
ヒマリーがそう話した。
耳に心地よい歌声を聞きながら、山道をしばらく歩いていると、山の中に白い家が一軒見えてきた。
「あの家だ」
ヒマリーがそう言った。まるでヨーロッパのメルヘンに出てくる小人が住んでいるような、おしゃれで、きれいな家だった。歌はその家の中から聞こえていた。
家が見えたとたん、心がますます、そぞろになって、ぼくもサンパオも、急いですぐ近くまで行ってみたいという衝動に駆られた。ぼくとサンパオの心のうちを読んだヒマリーが「あの人に気配を感じとられたら、練習に集中できなくなって邪魔をすることになる。くれぐれもさとられないようにすることだ」
と、釘を刺した。
「ここでしばらくじっとしていなさい。歌の練習が終わるまで、これ以上、近づいてはいけない」
ヒマリーは、そう言って、ぼくたちを家から少し離れたところにある大きな木の後ろに隠れさせた。
「分かりました。そうします」
ぼくとサンパオはヒマリーの指示に従った。
ぼくの耳には、ピアノ調律師が歌う声のほかに、サンパオの心臓がどきどきと鼓動する
音が聞こえてきた。
「どうしたのだ。興奮しているのか」
ぼくは声をひそめてサンパオに聞いた。
「だって、あそこに黒騎士がいて、もう少ししたら会えるかもしれないと思うと、嬉しくてたまらなくなって、じっとしていられないの」
サンパオがそう答えた。
「まだ黒騎士がいると決まっているわけではないじゃないか」
ぼくはそう言った。するとサンパオは首を横に振った。
「ぼくの直感によると、今度は間違いなく黒騎士だと思うの」
サンパオがそう言った。
「盲導犬は今、うちの中で何をしているのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「ピアノ調律師のそばに行儀よく座って、歌をじっと聞いているはずだ」
ヒマリーがそう答えた。ピアノ調律師が歌う歌は本当にきれいで、木々や草花もうっとりとして酔いしれているようにさえ感じられた。
それからまもなく歌がやんだ。それと同時に森の中に住んでいる小鳥たちが、にぎやかにさえずり始めた。小鳥たちの声はとてもきれいで、耳に心地よかった。しかしピアノ調律師の歌声は小鳥たちの声を圧倒するほどに美しくて、大地を揺るがすほどのオーラにあふれていた。それを知って、小鳥たちは、かなわないと思って白旗を上げて、ピアノ調律師が歌を歌っていた時は、鳴かなかったのだと、ぼくは思った。
ピアノ調律師の歌がやんでから、しばらくして玄関のドアが静かに開いた。それと同時に、黒いラブラドル・レトリバー犬とピアノ調律師の姿が現れた。ぼくとサンパオは気づかれないように注意しながら木の陰からじっと見ていた。黒いラブラドル・レトリバー犬は後ろ足に障害があって、丈夫な前足とバランスを取るのに難儀しながら歩いていた。犬の背中には二つの布袋が、ひもでくくりつけられていた。盲導犬にとって少し重そうに見えたが、盲導犬としての役割を果たすべく、めげないで懸命に歩いていた。犬のリードを引いているピアノ調律師は背の高い男の人だった。年のころは二十歳前後。姿かたちは男優のようにハンサムで、目は遠くを見つめるような寂しげな目をしていた。青いセーターを着て白いスラックスをはき、セーターの上にダークブラウンのダスターコートをまとっていた。
「あの人が先ほど歌を歌っていた人だ」
ヒマリーがそう言った。
(そうかあの人か)
ぼくは、そう思いながら、ピアノ調律師の一挙手一投足をじっと見ていた。サンパオも、ぼくと同じように、じっと見ていた。
ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら、森の中の小道を通り抜けて森の外へ出ていった。ぼくとサンパオと老いらくさんは、気づかれないように注意しながら、距離を置いて、あとからついていった。空を見ると、太陽が高く登っていた。
「これからどこに行くのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
ヒマリーは盲導犬の背中を見ながら
「背負っている布袋が、それほど膨らんでいないので、買い物に行くようだ。仕事に行く時は、調律用の器具を入れていくので、布袋がもう少し膨らんでいるはずだから」
ヒマリーがそう答えた。
ぼくとサンパオと老いらくさんは、昨夜は公園で寝てから、今朝早く、太陽が顔を出した直後に、昨日、ヒマリーと会った場所に出かけていった。
しばらく待っているとヒマリーがやってきた。
「やあ、待たせたな」
「大丈夫です」
ぼくはそう答えた。
「盲導犬が日頃、どんな生活をしているのか、ぼくはあまりよく知らないので、今日はとても楽しみにしています」
ぼくがそう言うと、ヒマリーが
「そうか。それはよかった」
と答えた。
「サンパオも楽しみにしています。よろしくお願いします」
ぼくはサンパオを見ながらそう言った。
「分かった。でも期待するのはいいが、あまり期待し過ぎないほうがいい」
ヒマリーが、ぼくたちの高揚した気持ちにブレーキをかけるように、そう言った。
「どうしてですか」
ぼくは聞き返した。
「初めのうちは盲導犬の仕事が珍しく思えるかもしれないが、見ているうちに、だんだん楽しくないように思えてくるかもしれないからだ」
ヒマリーがそう言った。
「大丈夫です。楽しくなくても見ていると勉強になります」
ぼくはそう答えた。
「そうか。それならよかった」
ヒマリーがそう答えた。
「ではこれから、おれの後についてこい。ここから二十分ほど行ったところに、小さな森の入口がある。その森の中におれが以前働いていた家がある」
ヒマリーがそう言った。
「分かりました。ついていきます」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくとサンパオはヒマリーの後からついていった。老いらくさんもスイカボールの中で転がりながらついてきた。歩きながら、ぼくはヒマリーに聞いた。
「盲導犬になろうと思ったきっかけは何だったのですか」
「きっかけも何もないよ。おれの飼い主が、おれを盲導犬にしようと思って訓練学校に無理やり連れていったからだ」
ヒマリーが不機嫌そうな声でそう言った。
「そうですか。あなたに盲導犬になるための素質や才能があると見込んで、飼い主さんが連れていったのではないですか」
ぼくはそう聞いた。するとヒマリーが首をかしげた。
「理由はおれにもよく分からない。ただ言えることは、犬だったらどんな犬でも盲導犬になれるわけではないということだ。おれのようなコリー犬か、ラブラドル・レトリバー犬が一番適しているようだ。おれが学校で訓練を受けていた時は、コリー犬とラブラドル・レトリバー犬しかいなかったから」
ヒマリーがそう答えた。
「どういうところが適しているのでしょうか」
ぼくは聞き返した。
「コリー犬もラブラドル・レトリバー犬も飼い主にとても忠実で、理解力が高いからではないかと、おれは思っている」
ヒマリーがそう言った。
「訓練を受けているなかで、おれたちはペットではなくて、盲人のために奉仕する犬として飼われるのだという意識をたたきこまれた。そのために訓練を終えたあと、飼い主がおれを盲人のうちに連れていって、それ以来その家で飼われるようになった」
盲導犬になったいきさつをヒマリーが話してくれた。ヒマリーの話を聞いて、ぼくは盲導犬がとても偉い犬のように思えてきた。サンパオにもヒマリーが言った話の内容を話して聞かせた。
「盲導犬はとても崇高な仕事をする犬なのに、どうしてその仕事を続けようとはしなかったのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「見たら分かると思うが、仕事の内容がとてもハードだし、毎日心身ともに疲れるので、するのがだんだん、嫌になってきた」
ヒマリーがそう答えた。
「それでどうしたのですか」
「仕事をしなくなったので、盲人が訓練学校に連絡して、それ以来、おれはお払い箱になった」
ヒマリーが自嘲ぎみにそう言った。
「あなたが辞めたあと、盲人はどうしたのですか」
ぼくは聞き返した。
「新しい盲導犬が来て、おれの代わりをしている」
ヒマリーがそう答えた。
「そうですか。それはよかったですね」
ぼくは、ほっとした声でそう言った。
「新しい盲導犬は、黒いラブラドル・レトリバー犬で、おれと同じように仕事をきちんとこなしている。よい後任が見つかったので、おれも安堵している。ただ、一つだけ難を言えば、その犬は左の後ろ足に障害があるということだ。そのために、とっさの行動ができないし、重い荷物を背中に背負わせるのは見るに忍びない」
ヒマリーがそう言った。
それを聞いて、ぼくは、ひょっとしたら、その犬は、ぼくたちが探している黒騎士かもしれないと思った。サンパオにもそのことを話したら、うなずいていた。
「今度こそ、本当の黒騎士かもしれないね」
サンパオがそう言った。
「喜ぶのはまだ早いよ」
ぼくはサンパオを戒めた。足が不自由な黒いラブラドル・レトリバー犬がこれまで何匹もいたが、結局どの犬も黒騎士ではなかったからだ。でも、ぼくも心の中では、今度こそ、本当の黒騎士であってほしいと思っていた。
「ともかく、その犬に会ってみようよ」
ぼくがサンパオにそう言うと、サンパオが
「そうだね。ぼくは盲導犬の生活に興味があるし、その盲導犬が黒騎士だったら、それ以上の喜びはないからね」
と答えた。
話しながら歩いているうちに、ヒマリーは、ぼくたちを田畑の先にある小さな森の入口に連れてきた。
「この森の中に家が一軒ある。盲人と盲導犬がその家に住んでいる」
ヒマリーがそう言った。森の入口まで来ると、森の中に、たくさんの木が茂っているのが見えた。木以外には何も見えなかったので、ベールに包まれた不思議な空間がその中に広がっているように思われた。
森に入ってから山道を十分ほど歩いたとき、遠くから男の人の声が聞こえてきた。歌を歌っていた。
「あれは盲人が歌っている声だ」
ヒマリーがそう言った。
「あの人は目がまったく見えないが、耳の感覚は研ぎ澄まされている。音にとても敏感な人だ」
ヒマリーがそう話した。
「卓越した耳の感覚を生かして、あの人はピアノの調律師をしている。あの人の耳は機械以上に正確だし、普通の人には聞こえない小さな音もとらえることができる」
ヒマリーはそう言って、称賛してやまないような顔をしていた。
「歌も上手ですね」
聞こえてくるテノールの声に耳を傾けながら、ぼくはそう言った。
「あの人はピアノの調律だけでなく歌の指導もしている」
ヒマリーがそう言った。
「そうですか。音感が抜群に優れている人なのですね」
ぼくも称賛してやまなかった。
「毎朝八時から十時まで歌の練習をして、そのあと盲導犬と一緒に仕事や買い物に出かけていく」
ヒマリーがそう話した。
耳に心地よい歌声を聞きながら、山道をしばらく歩いていると、山の中に白い家が一軒見えてきた。
「あの家だ」
ヒマリーがそう言った。まるでヨーロッパのメルヘンに出てくる小人が住んでいるような、おしゃれで、きれいな家だった。歌はその家の中から聞こえていた。
家が見えたとたん、心がますます、そぞろになって、ぼくもサンパオも、急いですぐ近くまで行ってみたいという衝動に駆られた。ぼくとサンパオの心のうちを読んだヒマリーが「あの人に気配を感じとられたら、練習に集中できなくなって邪魔をすることになる。くれぐれもさとられないようにすることだ」
と、釘を刺した。
「ここでしばらくじっとしていなさい。歌の練習が終わるまで、これ以上、近づいてはいけない」
ヒマリーは、そう言って、ぼくたちを家から少し離れたところにある大きな木の後ろに隠れさせた。
「分かりました。そうします」
ぼくとサンパオはヒマリーの指示に従った。
ぼくの耳には、ピアノ調律師が歌う声のほかに、サンパオの心臓がどきどきと鼓動する
音が聞こえてきた。
「どうしたのだ。興奮しているのか」
ぼくは声をひそめてサンパオに聞いた。
「だって、あそこに黒騎士がいて、もう少ししたら会えるかもしれないと思うと、嬉しくてたまらなくなって、じっとしていられないの」
サンパオがそう答えた。
「まだ黒騎士がいると決まっているわけではないじゃないか」
ぼくはそう言った。するとサンパオは首を横に振った。
「ぼくの直感によると、今度は間違いなく黒騎士だと思うの」
サンパオがそう言った。
「盲導犬は今、うちの中で何をしているのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「ピアノ調律師のそばに行儀よく座って、歌をじっと聞いているはずだ」
ヒマリーがそう答えた。ピアノ調律師が歌う歌は本当にきれいで、木々や草花もうっとりとして酔いしれているようにさえ感じられた。
それからまもなく歌がやんだ。それと同時に森の中に住んでいる小鳥たちが、にぎやかにさえずり始めた。小鳥たちの声はとてもきれいで、耳に心地よかった。しかしピアノ調律師の歌声は小鳥たちの声を圧倒するほどに美しくて、大地を揺るがすほどのオーラにあふれていた。それを知って、小鳥たちは、かなわないと思って白旗を上げて、ピアノ調律師が歌を歌っていた時は、鳴かなかったのだと、ぼくは思った。
ピアノ調律師の歌がやんでから、しばらくして玄関のドアが静かに開いた。それと同時に、黒いラブラドル・レトリバー犬とピアノ調律師の姿が現れた。ぼくとサンパオは気づかれないように注意しながら木の陰からじっと見ていた。黒いラブラドル・レトリバー犬は後ろ足に障害があって、丈夫な前足とバランスを取るのに難儀しながら歩いていた。犬の背中には二つの布袋が、ひもでくくりつけられていた。盲導犬にとって少し重そうに見えたが、盲導犬としての役割を果たすべく、めげないで懸命に歩いていた。犬のリードを引いているピアノ調律師は背の高い男の人だった。年のころは二十歳前後。姿かたちは男優のようにハンサムで、目は遠くを見つめるような寂しげな目をしていた。青いセーターを着て白いスラックスをはき、セーターの上にダークブラウンのダスターコートをまとっていた。
「あの人が先ほど歌を歌っていた人だ」
ヒマリーがそう言った。
(そうかあの人か)
ぼくは、そう思いながら、ピアノ調律師の一挙手一投足をじっと見ていた。サンパオも、ぼくと同じように、じっと見ていた。
ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら、森の中の小道を通り抜けて森の外へ出ていった。ぼくとサンパオと老いらくさんは、気づかれないように注意しながら、距離を置いて、あとからついていった。空を見ると、太陽が高く登っていた。
「これからどこに行くのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
ヒマリーは盲導犬の背中を見ながら
「背負っている布袋が、それほど膨らんでいないので、買い物に行くようだ。仕事に行く時は、調律用の器具を入れていくので、布袋がもう少し膨らんでいるはずだから」
ヒマリーがそう答えた。

