天気……朝晩は断続的に雨が降った。日中は雨が止んで風がそよそよと吹き、風に乗って木犀の芳香が辺り一面に運ばれていた。
昼間の青空のもとで見ると、湖面に浮かんでいる白鳥や、湖畔に建ち並んでいる三角屋根の別荘や、におっている木犀や、木の下でのんびり休んでいる犬や猫が、とてもメルヘンチックに思えた。まるで童話の世界に迷い込んだように、のどかで穏やかな風景が目の前に広がっていたからだ。
ナンクセーはフーテンに言づけて、ぼくたちが黒狐と会う場所と時間を連絡してきた。
「あそこに大きな木犀の木が見えるだろう」
フーテンが言った。
「はい、見えます。とても大きな木ですね」
ぼくはそう答えた。
「あの木は、目立ちやすいから、待ち合わせの場所として最適だ。黒狐は毎朝六時ごろ、あの大きな木のところまで散歩に行く。明日の朝、六時にあそこで待っていろ」
フーテンがそう言った。
「分かりました。そうします」
ぼくはそう答えた。ぼくとサンパオは、それからまもなく、待ち合わせの場所として指定された木犀の木の下まで行ってみた。老いらくさんもスイカボールの中に入って転がりながら、ぼくたちの後からついてきた、湖畔に植えられている、その木犀の木は高さが二十メートルぐらいもある立派な金木犀で、傘を広げたような形をしていて、枝全体にオレンジ色の小花がびっしりとついていた。花に鼻を近づけなくても、においに酔いしれてしまうほどの芳香が辺り一面に漂っていた。花のにおいに、ぼくはすっかり心を奪われていた。サンパオは、花のにおいよりも、黒狐に会う期待感のほうに心が惹かれていていたのか、遠くを見つめるような目をしていた。
「ぼくの予感では、黒狐は黒騎士のような気がする」
サンパオがそう言った。
「会ってみないと分からないではないか」
ぼくはそう答えた。
「早く黒狐に会いたいなあ。どんな犬だろう」
サンパオは黒狐に思いを馳せていた。
「期待外れに終わるといけないから、あまり期待しすぎないほうがいいよ」
ぼくはサンパオにそう言った。
「秘め事が多い犬だそうだから、どんな犬なのか、ますます興味があるよ」
サンパオがそう言った。
「障害を負った理由について、父さんは聞いてみたい。話してくれるといいが」
ぼくはそう答えた。
「もしかしたら恐ろしい目に遭って、思い出したくないことがあるから話さないかもしれないね」
サンパオがそう言った。
「そうかもしれないが、心の中にいつまでもひとりで抱えておくよりは、だれかに話したほうがすっきりして健康にもよい」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくたちは湖畔をあとにして、拠点としている公園まで戻っていった。おなかがへっていたので、ゴミ箱の中に捨てられていた食べ物をあさって腹ごしらえをしたり、噴水の水を飲んでのどの渇きをいやしたりした。夜は雨に濡れないところに行って、落ち葉を体にたくさんかけて寒くないようにして寝た。木犀の花がぱらぱらと落ちてきて、ぼくやサンパオの顔にかかったので、ぼくとサンパオは、いいかおりに包まれながら眠ることができた。老いらくさんもスイカボールの中で、暖かく眠っていた。
一夜明けて、朝早く、ぼくたちは昨日フーテンが指定した場所へ行って、黒狐がやってくるのを待っていた。ところがお昼になっても黒狐はやってこなかった。約束を反故にされたのかと思って、ぼくもサンパオも不愉快な気持ちになった。待ちくたびれたぼくたちはもうこれ以上、そこにいる気はしなくなったので、お昼すぎにそこを離れて公園へ戻ろうとした。するとその矢先に、黒狐ではなくて、ナンクセーがやってきた。
「どうでしたか。黒狐は、あなたたちが探している黒騎士でしたか」
ナンクセーが聞いた。
「何を言っているのですか。黒狐はここに来ませんでしたよ」
ぼくは仏頂面をしてそう答えた。
「えっ、そうでしたか。てっきり来たものとばかり思っていました」
ナンクセーが意外そうな顔をしていた。
「ぼくたちは朝早くからここに来て、黒狐をずっと待っていました」
ぼくは不機嫌そうな声でそう言った。
「どうしたのでしょう。散歩コースを変えることはないと思いますが」
ナンクセーが小首をかしげていた。
「暗くて場所を間違えたのではないですか」
ぼくはそう聞いた。
「そんなことはないです。この木は特別な木で、この公園のシンボルみたいな木ですから、誰でも知っています。間違えるはずはないです」
ナンクセーがそう言った。
「だったら、どうして来なかったのですか」
ぼくは腹立たしくなって、口をへの字に曲げながら、そう言った。
「もしかしたら、あなたたちが来るのが遅かったので、来ていないと思って帰っていったのではないですか」
人を食ったようなナンクセーの言いぐさに、ぼくは、かちんと来た。
「そんなことはないです。まだ暗くて、外は雨が降っていましたが、それでもぼくたちは朝早く、ここにやってきました。約束の六時前に来ました」
ぼくは毅然とした声で言葉を返した。
「そうでしたか。黒狐も朝早く、まだ暗くて雨が降っているなかを出かけていきました」
ナンクセーがそう答えた。
「だったらどこかですれ違ったのかもしれません」
ぼくはそう答えるしかなかった。
「黒狐はいったんうちへ帰ってきましたが、今はまたどこかへ出かけていきました」
ナンクセーがそう言った。
「お父さん、これ以上、ここで言い争っても、らちが明かないから、一緒に黒狐を探しに行きませんか」
サンパオがそう言った。
「いや、父さんは行かない」
ぼくは首を横に振った。
「どうして?」
サンパオがけげんそうな顔をした。
「ここを留守にしている間に黒狐がここに来ないとも限らないから」
ぼくはそう答えた。
「分かりました。だったら、ぼくはナンクセーと一緒に探しに行きます」
サンパオがそう言った。
「分かった。黒狐らしき犬と出会えたら、お父さんを呼びにここへ戻ってきなさい」
ぼくがそう言うと、サンパオはうなずいた。サンパオはそれからまもなくナンクセーのあとについて黒狐を探しに行った。
サンパオとナンクセーの姿が見えなくなって、しばらくしてから、老いらくさんがスイカボールの中から声を出した。
「わしは、この中にずっと隠れていたが、サンパオもナンクセーも全然、わしに気がつかないでいた」
老いらくさんが、そう言った。
「よかったではないですか。ネズミがこの中に入っていることが、もし猫に気づかれたら、大変なことになりますから」
ぼくはそう答えた。
「この辺りには猫がたくさん住んでいますから、これからもくれぐれも気をつけてください」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「ありがとう。おまえは本当にわしのことを気遣ってくれるいい猫だ」
老いらくさんがそう言った。
「今は木犀の花のにおいが強く漂っているから、ネズミのにおいも、老いらくさんが塗っているにおい消しの油のにおいも、かき消されてしまっています」
ぼくがそう言うと
「そうか。それで、気がつかなかったのか」
と、老いらくさんが答えた。
「ここにいたら、におい消しの油を塗らなくても猫に気づかれることがないので、ここはまるで桃源郷みたいなところだなあ。こんなところでずっと生活できたら、なんとしあわせなのだろう」
老いらくさんがそう言った。
「老いらくさん、そんな夢みたいなことを言ってはいけませんよ。ネズミのにおいが花のにおいにまぎれて見えなくなるのは、ほんの一時だけです。木犀の花は、せいぜい一週間ぐらいですぐに枯れてしまいます。そのあとは老いらくさんの体についているネズミのにおいがぷんぷんします」
ぼくはそう言って、老いらくさんの妄想を戒めた。
「そうか。それなら、わしはやはり、これからもお前たちと一緒に翠湖公園の中で暮らすことにしよう。梅園の中にあるロウバイのにおいも、わしはとても好きだから」
老いらくさんがそう言った。
「それがいいですよ。老いらくさんが近くにいたら、ぼくは心強いです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。うれしいことを言ってくれるね」
老いらくさんが、悦に入ったような顔をしていた。
「春には翠湖公園でロウバイのにおいをかぎ、秋には白鳥公園で木犀のにおいをかぐ。こんな生活はいいなあ」
老いらくさんが独り言のように言った。老いらくさんは、そのあと話題を変えて
「ところでお前たちは黒狐にまだ会っていないようだが、わしは会ったぞ」
と言った。
「えっ、本当ですか」
ぼくは、びっくりして聞き返した。
「今朝、お前たちの後から転がりながらついてきた時、後ろのほうで犬の気配を感じた。はっきりとは分からなかったが、あれは黒狐ではなかったかと思う」
老いらくさんがそう言った。
「わしはてっきり、お前たちに会いにいっているものとばかり思っていた。でも途中でいつのまにか犬の気配は消えていた」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「そうですか。ぼくはただひたすら前ばかり見て歩いていたから、後ろにまでは目がいきませんでした」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、サンパオが探索から戻ってくる姿が見えたので、ぼくは老いらくさんとの話をやめた。老いらくさんはスイカボールの中でじっとしていた。
「お父さん、湖畔に沿って、あちこち探し回ったけど、黒狐の姿は見つけられなかった」
しょげたような顔をしながら、サンパオがそう言った。
「そうか。それは残念だったな」
ぼくはそう答えた。
「ここにも来ませんでしたか」
「来なかったよ」
ぼくは首を横に振った。
「では、ぼくたち、これからどうすればいいの?」
サンパオが聞いた。
「黒狐が住んでいそうな家を一軒一軒、しらみつぶしに調べていくよりほかない」
ぼくはそう答えた。
「でもここには五十以上も別荘があるので、調べるのは大変だよ」
サンパオがそう言った。
「そうだね。それよりもフーテンに聞いて、あとについていくのが効率的だね」
ぼくはそう答えた。
「フーテンは野良猫だから、いつどこに現れるか分からないけど、ぼくたちが、ぶらぶら歩いていたら、いつかまた、ばったり会うかもしれないよ」
サンパオがそう言った。
「そうだね。そうしよう」
ぼくはサンパオの考えに同意した。
ぼくとサンパオはそれからしばらくしてから、湖畔に沿って再び散歩を始めた。老いらくさんもスイカボールの中で体を丸くして、転がりながらついてきた。
日が暮れて空が暗くなり始めたころ、ぼくたちはようやくフーテンと再び会うことができた。
「今朝早く、ぼくたちは昨日指定された場所に行って、黒狐をずっと待っていました。でも結局来ませんでした。お昼過ぎにナンクセーが来たので、聞いたら、黒狐は今朝早く出ていったと言っていました。話が食い違っています。一体、どういうことですか」
ぼくはフーテンに不満をぶつけた。
「そうか。おれも今朝早く黒狐を見かけた。うちへ帰っていくところだったので、てっきりお前たちに会ったのだとばかり思っていた」
フーテンがそう答えた。
辻褄が合わない話ばかりだったので、ぼくは誰を信用していいのか分からなくなった。
「黒狐はどんな様子で帰っていましたか」
ぼくはフーテンに聞いた。
「これまでとは、うって変わって、とても自信にあふれた顔をして帰っていた」
フーテンがそう答えた。
「どうしてでしょうか」
ぼくは合点がいかなかった。
「おれにもよく分からない」
フーテンがそう言った。
「黒狐は以前はとても卑屈なところがあって、どこか劣等感を抱いている犬のように見えた。目つきがいつもおどおどしていて、視線を避けようとしていた。ところが今朝は全然違っていた。自信にあふれていて、元気を取り戻したような目をしていた。それを見て、お前たちと会って、話をしたことで、かつての輝いていた自分を思い出したのではないかと思った」
フーテンがそう言った。
黒狐は秘め事が多い犬だと、以前フーテンから聞いていたので、ぼくは今の話を聞いて、黒狐がどんな犬なのか、ますます分からなくなった。黒狐が黒騎士かどうかはともかく、黒狐に一度ぜひ会ってみたいような気がした。
「ご面倒おかけしますが、もう一度、ぼくたちが黒狐と会うための手筈を整えてくれませんか」
ぼくはフーテンにお願いした。
「いいだろう。でも今日はもう日が暮れて遅いので、明日、ナンクセーともう一度、話をつけてくるよ」
フーテンがそう言った。
「分かりました」
ぼくはそう答えた。それからまもなく、ぼくたちはフーテンと別れて公園に戻り、ゴミ箱の中から食べられるものを探し出して食べて、そのあと眠りに就いた。
昼間の青空のもとで見ると、湖面に浮かんでいる白鳥や、湖畔に建ち並んでいる三角屋根の別荘や、におっている木犀や、木の下でのんびり休んでいる犬や猫が、とてもメルヘンチックに思えた。まるで童話の世界に迷い込んだように、のどかで穏やかな風景が目の前に広がっていたからだ。
ナンクセーはフーテンに言づけて、ぼくたちが黒狐と会う場所と時間を連絡してきた。
「あそこに大きな木犀の木が見えるだろう」
フーテンが言った。
「はい、見えます。とても大きな木ですね」
ぼくはそう答えた。
「あの木は、目立ちやすいから、待ち合わせの場所として最適だ。黒狐は毎朝六時ごろ、あの大きな木のところまで散歩に行く。明日の朝、六時にあそこで待っていろ」
フーテンがそう言った。
「分かりました。そうします」
ぼくはそう答えた。ぼくとサンパオは、それからまもなく、待ち合わせの場所として指定された木犀の木の下まで行ってみた。老いらくさんもスイカボールの中に入って転がりながら、ぼくたちの後からついてきた、湖畔に植えられている、その木犀の木は高さが二十メートルぐらいもある立派な金木犀で、傘を広げたような形をしていて、枝全体にオレンジ色の小花がびっしりとついていた。花に鼻を近づけなくても、においに酔いしれてしまうほどの芳香が辺り一面に漂っていた。花のにおいに、ぼくはすっかり心を奪われていた。サンパオは、花のにおいよりも、黒狐に会う期待感のほうに心が惹かれていていたのか、遠くを見つめるような目をしていた。
「ぼくの予感では、黒狐は黒騎士のような気がする」
サンパオがそう言った。
「会ってみないと分からないではないか」
ぼくはそう答えた。
「早く黒狐に会いたいなあ。どんな犬だろう」
サンパオは黒狐に思いを馳せていた。
「期待外れに終わるといけないから、あまり期待しすぎないほうがいいよ」
ぼくはサンパオにそう言った。
「秘め事が多い犬だそうだから、どんな犬なのか、ますます興味があるよ」
サンパオがそう言った。
「障害を負った理由について、父さんは聞いてみたい。話してくれるといいが」
ぼくはそう答えた。
「もしかしたら恐ろしい目に遭って、思い出したくないことがあるから話さないかもしれないね」
サンパオがそう言った。
「そうかもしれないが、心の中にいつまでもひとりで抱えておくよりは、だれかに話したほうがすっきりして健康にもよい」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくたちは湖畔をあとにして、拠点としている公園まで戻っていった。おなかがへっていたので、ゴミ箱の中に捨てられていた食べ物をあさって腹ごしらえをしたり、噴水の水を飲んでのどの渇きをいやしたりした。夜は雨に濡れないところに行って、落ち葉を体にたくさんかけて寒くないようにして寝た。木犀の花がぱらぱらと落ちてきて、ぼくやサンパオの顔にかかったので、ぼくとサンパオは、いいかおりに包まれながら眠ることができた。老いらくさんもスイカボールの中で、暖かく眠っていた。
一夜明けて、朝早く、ぼくたちは昨日フーテンが指定した場所へ行って、黒狐がやってくるのを待っていた。ところがお昼になっても黒狐はやってこなかった。約束を反故にされたのかと思って、ぼくもサンパオも不愉快な気持ちになった。待ちくたびれたぼくたちはもうこれ以上、そこにいる気はしなくなったので、お昼すぎにそこを離れて公園へ戻ろうとした。するとその矢先に、黒狐ではなくて、ナンクセーがやってきた。
「どうでしたか。黒狐は、あなたたちが探している黒騎士でしたか」
ナンクセーが聞いた。
「何を言っているのですか。黒狐はここに来ませんでしたよ」
ぼくは仏頂面をしてそう答えた。
「えっ、そうでしたか。てっきり来たものとばかり思っていました」
ナンクセーが意外そうな顔をしていた。
「ぼくたちは朝早くからここに来て、黒狐をずっと待っていました」
ぼくは不機嫌そうな声でそう言った。
「どうしたのでしょう。散歩コースを変えることはないと思いますが」
ナンクセーが小首をかしげていた。
「暗くて場所を間違えたのではないですか」
ぼくはそう聞いた。
「そんなことはないです。この木は特別な木で、この公園のシンボルみたいな木ですから、誰でも知っています。間違えるはずはないです」
ナンクセーがそう言った。
「だったら、どうして来なかったのですか」
ぼくは腹立たしくなって、口をへの字に曲げながら、そう言った。
「もしかしたら、あなたたちが来るのが遅かったので、来ていないと思って帰っていったのではないですか」
人を食ったようなナンクセーの言いぐさに、ぼくは、かちんと来た。
「そんなことはないです。まだ暗くて、外は雨が降っていましたが、それでもぼくたちは朝早く、ここにやってきました。約束の六時前に来ました」
ぼくは毅然とした声で言葉を返した。
「そうでしたか。黒狐も朝早く、まだ暗くて雨が降っているなかを出かけていきました」
ナンクセーがそう答えた。
「だったらどこかですれ違ったのかもしれません」
ぼくはそう答えるしかなかった。
「黒狐はいったんうちへ帰ってきましたが、今はまたどこかへ出かけていきました」
ナンクセーがそう言った。
「お父さん、これ以上、ここで言い争っても、らちが明かないから、一緒に黒狐を探しに行きませんか」
サンパオがそう言った。
「いや、父さんは行かない」
ぼくは首を横に振った。
「どうして?」
サンパオがけげんそうな顔をした。
「ここを留守にしている間に黒狐がここに来ないとも限らないから」
ぼくはそう答えた。
「分かりました。だったら、ぼくはナンクセーと一緒に探しに行きます」
サンパオがそう言った。
「分かった。黒狐らしき犬と出会えたら、お父さんを呼びにここへ戻ってきなさい」
ぼくがそう言うと、サンパオはうなずいた。サンパオはそれからまもなくナンクセーのあとについて黒狐を探しに行った。
サンパオとナンクセーの姿が見えなくなって、しばらくしてから、老いらくさんがスイカボールの中から声を出した。
「わしは、この中にずっと隠れていたが、サンパオもナンクセーも全然、わしに気がつかないでいた」
老いらくさんが、そう言った。
「よかったではないですか。ネズミがこの中に入っていることが、もし猫に気づかれたら、大変なことになりますから」
ぼくはそう答えた。
「この辺りには猫がたくさん住んでいますから、これからもくれぐれも気をつけてください」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「ありがとう。おまえは本当にわしのことを気遣ってくれるいい猫だ」
老いらくさんがそう言った。
「今は木犀の花のにおいが強く漂っているから、ネズミのにおいも、老いらくさんが塗っているにおい消しの油のにおいも、かき消されてしまっています」
ぼくがそう言うと
「そうか。それで、気がつかなかったのか」
と、老いらくさんが答えた。
「ここにいたら、におい消しの油を塗らなくても猫に気づかれることがないので、ここはまるで桃源郷みたいなところだなあ。こんなところでずっと生活できたら、なんとしあわせなのだろう」
老いらくさんがそう言った。
「老いらくさん、そんな夢みたいなことを言ってはいけませんよ。ネズミのにおいが花のにおいにまぎれて見えなくなるのは、ほんの一時だけです。木犀の花は、せいぜい一週間ぐらいですぐに枯れてしまいます。そのあとは老いらくさんの体についているネズミのにおいがぷんぷんします」
ぼくはそう言って、老いらくさんの妄想を戒めた。
「そうか。それなら、わしはやはり、これからもお前たちと一緒に翠湖公園の中で暮らすことにしよう。梅園の中にあるロウバイのにおいも、わしはとても好きだから」
老いらくさんがそう言った。
「それがいいですよ。老いらくさんが近くにいたら、ぼくは心強いです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。うれしいことを言ってくれるね」
老いらくさんが、悦に入ったような顔をしていた。
「春には翠湖公園でロウバイのにおいをかぎ、秋には白鳥公園で木犀のにおいをかぐ。こんな生活はいいなあ」
老いらくさんが独り言のように言った。老いらくさんは、そのあと話題を変えて
「ところでお前たちは黒狐にまだ会っていないようだが、わしは会ったぞ」
と言った。
「えっ、本当ですか」
ぼくは、びっくりして聞き返した。
「今朝、お前たちの後から転がりながらついてきた時、後ろのほうで犬の気配を感じた。はっきりとは分からなかったが、あれは黒狐ではなかったかと思う」
老いらくさんがそう言った。
「わしはてっきり、お前たちに会いにいっているものとばかり思っていた。でも途中でいつのまにか犬の気配は消えていた」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「そうですか。ぼくはただひたすら前ばかり見て歩いていたから、後ろにまでは目がいきませんでした」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、サンパオが探索から戻ってくる姿が見えたので、ぼくは老いらくさんとの話をやめた。老いらくさんはスイカボールの中でじっとしていた。
「お父さん、湖畔に沿って、あちこち探し回ったけど、黒狐の姿は見つけられなかった」
しょげたような顔をしながら、サンパオがそう言った。
「そうか。それは残念だったな」
ぼくはそう答えた。
「ここにも来ませんでしたか」
「来なかったよ」
ぼくは首を横に振った。
「では、ぼくたち、これからどうすればいいの?」
サンパオが聞いた。
「黒狐が住んでいそうな家を一軒一軒、しらみつぶしに調べていくよりほかない」
ぼくはそう答えた。
「でもここには五十以上も別荘があるので、調べるのは大変だよ」
サンパオがそう言った。
「そうだね。それよりもフーテンに聞いて、あとについていくのが効率的だね」
ぼくはそう答えた。
「フーテンは野良猫だから、いつどこに現れるか分からないけど、ぼくたちが、ぶらぶら歩いていたら、いつかまた、ばったり会うかもしれないよ」
サンパオがそう言った。
「そうだね。そうしよう」
ぼくはサンパオの考えに同意した。
ぼくとサンパオはそれからしばらくしてから、湖畔に沿って再び散歩を始めた。老いらくさんもスイカボールの中で体を丸くして、転がりながらついてきた。
日が暮れて空が暗くなり始めたころ、ぼくたちはようやくフーテンと再び会うことができた。
「今朝早く、ぼくたちは昨日指定された場所に行って、黒狐をずっと待っていました。でも結局来ませんでした。お昼過ぎにナンクセーが来たので、聞いたら、黒狐は今朝早く出ていったと言っていました。話が食い違っています。一体、どういうことですか」
ぼくはフーテンに不満をぶつけた。
「そうか。おれも今朝早く黒狐を見かけた。うちへ帰っていくところだったので、てっきりお前たちに会ったのだとばかり思っていた」
フーテンがそう答えた。
辻褄が合わない話ばかりだったので、ぼくは誰を信用していいのか分からなくなった。
「黒狐はどんな様子で帰っていましたか」
ぼくはフーテンに聞いた。
「これまでとは、うって変わって、とても自信にあふれた顔をして帰っていた」
フーテンがそう答えた。
「どうしてでしょうか」
ぼくは合点がいかなかった。
「おれにもよく分からない」
フーテンがそう言った。
「黒狐は以前はとても卑屈なところがあって、どこか劣等感を抱いている犬のように見えた。目つきがいつもおどおどしていて、視線を避けようとしていた。ところが今朝は全然違っていた。自信にあふれていて、元気を取り戻したような目をしていた。それを見て、お前たちと会って、話をしたことで、かつての輝いていた自分を思い出したのではないかと思った」
フーテンがそう言った。
黒狐は秘め事が多い犬だと、以前フーテンから聞いていたので、ぼくは今の話を聞いて、黒狐がどんな犬なのか、ますます分からなくなった。黒狐が黒騎士かどうかはともかく、黒狐に一度ぜひ会ってみたいような気がした。
「ご面倒おかけしますが、もう一度、ぼくたちが黒狐と会うための手筈を整えてくれませんか」
ぼくはフーテンにお願いした。
「いいだろう。でも今日はもう日が暮れて遅いので、明日、ナンクセーともう一度、話をつけてくるよ」
フーテンがそう言った。
「分かりました」
ぼくはそう答えた。それからまもなく、ぼくたちはフーテンと別れて公園に戻り、ゴミ箱の中から食べられるものを探し出して食べて、そのあと眠りに就いた。

