野いちご源氏物語 一三 明石(あかし)

明石(あかし)入道(にゅうどう)出家(しゅっけ)しているのに、一人娘のことだけは心から捨て去ることができない。
本当は家族とも(えん)を切って、仏教(ぶっきょう)修行(しゅぎょう)に集中するべきなのよ。
でもこの入道は、娘を高貴(こうき)男君(おとこぎみ)と結婚させたいと必死になっている。

源氏(げんじ)(きみ)は、北山(きたやま)のお寺で良清(よしきよ)が話していたことを覚えていらっしゃった。
<明石の入道は一人娘に、「理想の結婚ができそうになければ、海にもぐって死ぬ道を選べ」と言い聞かせている、という話だった。まさかその娘の近くに住むことになろうとは。これは運命だろうか>
と、ひさしぶりに女好きのお心が動く。

さすがに冷静に、
<いやいや、謹慎(きんしん)すると言って都を離れたのだから、ただひたすら仏教の修行をしていた方がよい。恋愛などをしたら(むらさき)(うえ)にあきれられるだろう。気まずいではないか>
と思い直して、入道の娘には興味のないふりをなさっていた。
でもね。
良清や家来(けらい)たちが、(うわさ)話をするのだもの。
性格も容姿(ようし)もかなりよいらしいとお聞きになると、やはりお心は動くの。

入道は源氏の君の御用(ごよう)をするために、しょっちゅう(はま)(やかた)に来ている。
源氏の君のお部屋近くは恐れ多くて、召使(めしつかい)が住む離れでお呼びがかかるのを待っていたわ。
<なんとかして娘の婿君(むこぎみ)になっていただきたい。(おか)(やかた)の方にお移りくだされば、朝も夜も一日中、お姿を拝見できるのに>
と祈りつづけている。

入道は六十歳くらい。
すっきりとやせていて嫌な感じはしないわ。
よい家柄(いえがら)の出身だから、ところどころに品のよさも感じられる。
源氏の君はおそばにお呼びになって、昔の時代の話をお聞きになることもあった。
須磨(すま)では家来以外にお話し相手がいらっしゃらなかったから、こちらでは入道とお話しなさって、よい気分転換をしておられたわ。

貴族の男性にとって、昔の政治家が何に対してどんな決定をしてきたのかを知っておくことは、とても重要なことなの。
それをふまえて自分たちも政治をしていかなければならいのだから、知識が不足している人は、内裏(だいり)の会議などで恥をかいてしまうわ。
源氏の君はお若いころからお忙しくて、十分な知識を(たくわ)えるお暇がなかった。
そういう昔の政治についての話を、入道はしてくれるの。

源氏の君にとってはとても興味深いお話よ。
<ここへ来てよかった。貴重な話を聞ける>
とお思いになって、入道の話をうなずきながら聞いておられる。

こんなふうに源氏の君と入道の距離は近づいていったけれど、源氏の君を前にすると、入道は恐れ多くて娘のことなど口には出せない。
源氏の君の雰囲気が気高(けだか)すぎるのよ。
(おか)(やかた)に戻っては、
「今日もまた申し上げられなかった。なかなか話のきっかけがつかめないのだ」
と妻に愚痴(ぐち)をこぼす。

娘は入道から、源氏の君のご立派さやお美しさを聞いている。
入道は岡の館に戻るたびに、浜の館で見聞きしたご様子を興奮しながら話すのよ。
でもそうなると、
<世の中にはそんなに素晴らしい方がいらっしゃるのか。このあたりの田舎(いなか)(もの)たちとはまったく違っておられるようだ。父君(ちちぎみ)は源氏の君を私の婿(むこ)にとお考えらしいけれど、私などが釣り合う方ではない>
と思ってしまう。
源氏の君が近くにおられることを意識して、
<それでももしかしたら。いえ、そんなはずはないわ>
と、若い娘らしくどきどきすることもあるのだけれど。