都へお戻りになる日は夜明け前から準備が始まった。源氏の君は上の空でいらっしゃる。ただ明石の君のことが気になって、お別れの手紙をお書きになった。
「いよいよ明石を離れます。あなたがこれからどう過ごしていかれるだろうかと心配です」
女君からは、
「あなたがいらっしゃらなくなれば、ここはまた寒々しい田舎になりましょう。あなたを追いかけて海に身を投げてしまいそうです」
と率直な返事が届いた。
源氏の君は涙を抑えられない。
<このような寂しいところでも、長くお暮らしだったのだから離れがたいとお思いになるのも当然だ>
事情を知らないお迎えの人たちは勘違いする。片思いの相手を主人にとられてしまった良清は、
<ずいぶん夢中になっていらっしゃる。やはりよい娘だったらしい>
とやきもちを焼いていた。
他の家来たちは、都に戻れることはもちろんうれしいのだけれど、今日でこの浜辺ともお別れだと思うと切なくなる。
明石の入道はお別れの準備を立派に整えていた。いつの間に用意したのか、源氏の君の家来たちに旅行用の着物を贈った。源氏の君には、特別に美しい着物や、都へのお土産として由緒正しい宝物を差し上げる。行き届いた配慮をしてみせた。
源氏の君の今日のための着物には小さな紙がつけてあった。女君からの手紙だった。
「私の涙でお着物が濡れてしまいました。うっとうしいとお思いになるでしょうか」
あわただしいときだったけれど、源氏の君は返事をお書きになる。
「ありがたくいただいて着替えて出発します。脱いだ私の着物はあなたが預かっていてください。また会える日まで」
ご自分の着物と一緒に届けさせなさる。
岡の館で受け取った明石の君は、着物に染みついた香りに切なくなった。
明石の入道は泣いている。
「私は出家した身ですから、おめでたいご出発のお供はできません。残念でございます」
お迎えのなかの若い人たちは、
<僧侶のくせに未練がましいな>
と苦笑いしていた。
これが最後かもしれないと思うと、入道は源氏の君にどうしてもお願いしたいことがある。
「私は俗世間が嫌で出家いたしましたが、恥ずかしながら娘のことだけはいつまでも気がかりなのでございます。でしゃばったことを申しますが、都にお戻りになってもどうか娘にお手紙をくださいませ」
源氏の君は泣きはらした目で入道をお見つめになる。
「懐妊もしているのだから見捨てはしません。すぐに都に迎えるつもりです。ただ、この浜の館に戻ることはもうないでしょうから、それは寂しく思います。一昨年都を追い出されたときも無念だったが、明石を離れる今もそれに負けないほど心残りがあるのです」
涙をぬぐわれるご様子に、入道は悲しみのあまり足元がおぼつかなくなる。
明石の君自身もたとえようもないほど悲しい。人目を気にして心を落ち着かせようとしている。
<身分の差を思えばこうなったのは当然だ。私などがいつまでも一緒にいられる方ではない。だからなおさらこの悲しみを何にもぶつけられない>
源氏の君の面影を思い出しては泣くだけだった。
入道の妻も娘を慰めきれない。
「あなたが身の程知らずな結婚を思いつかれたから、こんな面倒なことになったのですよ。頑固な夫に従った私が愚かでした」
文句を言う妻を入道は叱りつける。
「うるさい。懐妊しているのだから源氏の君もまさかお見捨てにはなるまい。そなたは気を落ち着かせる薬湯でも飲んでおけ。まったく縁起の悪いことを言いおって」
そう言いながら、自分も部屋の隅で力を失っている。
妻は娘の乳母に愚痴をこぼしはじめた。
「あの人の言う理想の結婚とやらを待って待って待ちくたびれて、いよいよとんでもない夢が叶うと期待していたら、こんな結末だもの。まだ恋人関係になって間もないというのに」
入道も内心では同じように思っていたらしく、それから一気に老けこんでしまった。昼間はずっと寝ているのに、夜になると妙に元気になって修行をしようとする。
「数珠はどこだ。どこへ行った」
などと言って、数珠をつけないまま手をこすり合わせてお祈りをしている。
「入道は呆けてしまわれたらしい」
弟子たちが馬鹿にするものだから、しゃんとした姿を見せようと庭を歩きながらお経を唱える。すると、何かにつまずいたのか足元がふらついたのか、小川に転げ落ちてしまった。なんとか抜け出すと、今度は近くにあった岩に腰をぶつけた。
それから入道は寝こんでいる。気がおかしくなるほど悩むよりは、痛みに苦しむ方がましかもしれない。
「いよいよ明石を離れます。あなたがこれからどう過ごしていかれるだろうかと心配です」
女君からは、
「あなたがいらっしゃらなくなれば、ここはまた寒々しい田舎になりましょう。あなたを追いかけて海に身を投げてしまいそうです」
と率直な返事が届いた。
源氏の君は涙を抑えられない。
<このような寂しいところでも、長くお暮らしだったのだから離れがたいとお思いになるのも当然だ>
事情を知らないお迎えの人たちは勘違いする。片思いの相手を主人にとられてしまった良清は、
<ずいぶん夢中になっていらっしゃる。やはりよい娘だったらしい>
とやきもちを焼いていた。
他の家来たちは、都に戻れることはもちろんうれしいのだけれど、今日でこの浜辺ともお別れだと思うと切なくなる。
明石の入道はお別れの準備を立派に整えていた。いつの間に用意したのか、源氏の君の家来たちに旅行用の着物を贈った。源氏の君には、特別に美しい着物や、都へのお土産として由緒正しい宝物を差し上げる。行き届いた配慮をしてみせた。
源氏の君の今日のための着物には小さな紙がつけてあった。女君からの手紙だった。
「私の涙でお着物が濡れてしまいました。うっとうしいとお思いになるでしょうか」
あわただしいときだったけれど、源氏の君は返事をお書きになる。
「ありがたくいただいて着替えて出発します。脱いだ私の着物はあなたが預かっていてください。また会える日まで」
ご自分の着物と一緒に届けさせなさる。
岡の館で受け取った明石の君は、着物に染みついた香りに切なくなった。
明石の入道は泣いている。
「私は出家した身ですから、おめでたいご出発のお供はできません。残念でございます」
お迎えのなかの若い人たちは、
<僧侶のくせに未練がましいな>
と苦笑いしていた。
これが最後かもしれないと思うと、入道は源氏の君にどうしてもお願いしたいことがある。
「私は俗世間が嫌で出家いたしましたが、恥ずかしながら娘のことだけはいつまでも気がかりなのでございます。でしゃばったことを申しますが、都にお戻りになってもどうか娘にお手紙をくださいませ」
源氏の君は泣きはらした目で入道をお見つめになる。
「懐妊もしているのだから見捨てはしません。すぐに都に迎えるつもりです。ただ、この浜の館に戻ることはもうないでしょうから、それは寂しく思います。一昨年都を追い出されたときも無念だったが、明石を離れる今もそれに負けないほど心残りがあるのです」
涙をぬぐわれるご様子に、入道は悲しみのあまり足元がおぼつかなくなる。
明石の君自身もたとえようもないほど悲しい。人目を気にして心を落ち着かせようとしている。
<身分の差を思えばこうなったのは当然だ。私などがいつまでも一緒にいられる方ではない。だからなおさらこの悲しみを何にもぶつけられない>
源氏の君の面影を思い出しては泣くだけだった。
入道の妻も娘を慰めきれない。
「あなたが身の程知らずな結婚を思いつかれたから、こんな面倒なことになったのですよ。頑固な夫に従った私が愚かでした」
文句を言う妻を入道は叱りつける。
「うるさい。懐妊しているのだから源氏の君もまさかお見捨てにはなるまい。そなたは気を落ち着かせる薬湯でも飲んでおけ。まったく縁起の悪いことを言いおって」
そう言いながら、自分も部屋の隅で力を失っている。
妻は娘の乳母に愚痴をこぼしはじめた。
「あの人の言う理想の結婚とやらを待って待って待ちくたびれて、いよいよとんでもない夢が叶うと期待していたら、こんな結末だもの。まだ恋人関係になって間もないというのに」
入道も内心では同じように思っていたらしく、それから一気に老けこんでしまった。昼間はずっと寝ているのに、夜になると妙に元気になって修行をしようとする。
「数珠はどこだ。どこへ行った」
などと言って、数珠をつけないまま手をこすり合わせてお祈りをしている。
「入道は呆けてしまわれたらしい」
弟子たちが馬鹿にするものだから、しゃんとした姿を見せようと庭を歩きながらお経を唱える。すると、何かにつまずいたのか足元がふらついたのか、小川に転げ落ちてしまった。なんとか抜け出すと、今度は近くにあった岩に腰をぶつけた。
それから入道は寝こんでいる。気がおかしくなるほど悩むよりは、痛みに苦しむ方がましかもしれない。



