野いちご源氏物語 一三 明石(あかし)

都へお戻りになる日は、夜明け前から準備が始まった。
源氏(げんじ)(きみ)(うわ)(そら)でいらっしゃる。
ただ明石(あかし)(きみ)のことが気になって、お別れのお手紙をお書きになった。
「いよいよ明石を離れます。あなたがこれからどう過ごしていかれるだろうかと心配です」
女君(おんなぎみ)は、
「あなたがいらっしゃらなくなったら、ここはまた暗闇(くらやみ)に戻ってしまいます。あなたを追いかけて海に身を投げてしまいそうです」
と思ったまま率直なお返事をなさった。

それをお読みになると、源氏の君は涙を抑えられなくていらっしゃる。
お迎えの人たちはご事情を知らないから、
<このような寂しいお住まいでも、一年以上も暮らしておられたのだから、離れがたいとお思いになるのも当然だ>
と勘違いしていたわ。
片思いの相手を主人にとられてしまった良清(よしきよ)は、
<ずいぶん夢中になっていらっしゃる。やはりよい女だったらしい>
とやきもちを焼いていた。
他の家来たちは、都に戻れることはもちろんうれしいのだけれど、今日でこの浜辺ともお別れかと思うと寂しくもなる。

明石の入道(にゅうどう)はお別れの準備を万端(ばんぜん)に整えていた。
いつの間に準備していたのか、源氏の君の家来たちに立派な旅行用の着物を贈ったわ。
もちろん源氏の君には、特別に美しいお着物をたくさんお贈りした。
都へのお土産として由緒(ゆいしょ)正しい品物もお贈りして、完璧なお見送りをしてみせた。

源氏の君は、今日お()しになるためのお着物に、小さな紙がはさまれていることにお気づきになった。
女君からのお手紙で、
「私の涙でお着物が()れてしまいました。うっとうしいとお思いになるでしょうか」
とある。
源氏の君は、
「ありがたくいただいて、着替えて出発します。脱いだ私の着物はあなたが預かっていてください。また会える日まで」
と書いて、ご自分のお着物と一緒にお届けになった。
それを(おか)(やかた)で受けとった明石の君は、お着物に染みついた香りに切なくなってしまわれる。
思い出の品が増えると、切なくなる時間も増えてしまうのよね。

入道は、
「私は出家(しゅっけ)した身でございますから、おめでたいご出発のお(とも)はできません。残念でございます」
と泣いている。
お迎えのなかの若い人たちは、
<入道なのに未練(みれん)がましい>
と苦笑いしていた。

これが最後かもしれないと思うと、入道は源氏の君にどうしてもお願いしたいことがある。
「私は都での出世競争が嫌になって、明石で出家生活をすることにいたしましたが、恥ずかしながら娘のことだけはいつまでたっても気がかりなのでございます。でしゃばったことを申しますが、都にお戻りになっても、どうか娘にお手紙をくださいませ」

源氏の君は泣きはらしたお目で入道をお見つめになって、
懐妊(かいにん)もしているのだから、見捨てることなどしません。すぐに都に来てもらうつもりです。ただ、この(はま)(やかた)に戻ることはもうないでしょうから、それは寂しく思います。一昨年、都を追い出されたときも無念(むねん)だったが、明石を離れる今もそれに負けないほど心残りがあるのです」
と涙をぬぐっておられる。
入道は悲しみのあまり暗闇(くらやみ)にいるのでしょうね、足元をふらふらさせながら源氏の君をお見送りしたわ。

明石の君はたとえようもないほど悲しんでいらっしゃる。
人目(ひとめ)を気にして、心を落ち着かせようとはなさっているのだけれど。
<身分の差を思えば、こうなったのは当然だ。私などがいつまでも一緒にいられるようなお方ではない。だからなおさら、この悲しみを何にもぶつけられなくてつらい>
源氏の君の面影(おもかげ)を思い出されてはお泣きになるよりほかにない。

入道の妻も娘をなぐさめきれなくて、
「あなたが()(ほど)知らずな結婚を思いつかれたから、こんな面倒なことになったのですよ。あなたのような人に従った私が馬鹿(ばか)でした」
と夫を責める。
入道は、
「うるさい。懐妊しているのだから源氏の君もまさかお見捨てにはなるまい。そなたは気を落ち着かせる薬湯(やくとう)でも飲んでおけ。まったく縁起(えんぎ)の悪いことを言いおって」
としかりつけたけれど、自分だって部屋の隅でうろたえている。

妻は娘の乳母(めのと)を相手にぶつくさ言いはじめた。
「あの人の言う理想の結婚とやらを待って待って待ちくたびれて、いよいよとんでもない夢が(かな)うと期待していたら、こんな結末だもの。まだ恋人にしていただいて間もないというのに」
入道も内心では同じように思っていたらしく、それから一気に老け込んでしまったわ。
昼はずっと寝ているのに、夜になると(みょう)に元気になって仏教(ぶっきょう)修行(しゅぎょう)をしようとする。
数珠(じゅず)はどこだ。見つからぬ」
などと言って、数珠をつけないまま手をこすり合わせてお祈りをしているの。

弟子(でし)たちが、
「入道様は()けてしまわれたらしい」
なんてひそひそと話すものだから、立派に修行しているところを見せようと、庭を歩きながらお(きょう)(とな)える。
すると、何かにつまずいたのか足元がふらついたのか、庭に引いた人工の小川に転げ落ちてしまったの。
なんとか抜け出すと、今度は近くにあった岩に腰をぶつけてしまった。
それから入道は寝込んでいるのだけれど、気がおかしくなるほど悩んでいるよりは、痛みに苦しんでいた方がましかもしれないわね。