野いちご源氏物語 一三 明石(あかし)

 明後日(あさって)には出発という日の夜。めずらしくあまり遅くない時間に源氏(げんじ)(きみ)明石(あかし)(きみ)をお訪ねになった。
 これまでは女君(おんなぎみ)遠慮(えんりょ)して、まじまじと顔をご覧になったことはなかったけれど、もうお別れだから目に焼きつけておかれる。驚くほど気高(けだか)い美人だった。
<美しいとは思っていたが、これほど貴婦人(きふじん)らしい顔立ちだったとは。元地方長官の娘とは思えない>
 見捨ててしまうのはもったいなくて、
「しばらくここで待っていてください。必ず都に迎えますから」
 と約束なさる。

 源氏の君は二年以上続いた謹慎(きんしん)生活の修行(しゅぎょう)でお顔がやせてしまっている。しかしそれがかえってお美しい。そんな人が心苦しそうに涙ぐんで約束なさるのだから、女君はお(うら)みすることなどできない。
<そう言っていただけるだけで十分幸せだ。これ以上の幸せを求められる身分ではない>
 自分の身分の低さがつらい。
「ほんの少しのお別れです。すぐに都でお会いできますよ」
 源氏の君はお(なぐさ)めになる。
「お別れは仕方がないことと(あきら)めております。お(うら)みいたしません」
 弱々しく泣きながらも立派に返事をする。

「そういえば、ずっとお聞きしたいと思っていた(そう)()を、ついに聞かせてくれませんでしたね」
 源氏の君が残念そうにおっしゃっても、女君は従おうと思えない。
「では私が少し弾きましょう。どうかこの音を覚えていて、私を思い出してください」
 (はま)(やかた)から(きん)を取り寄せて、源氏の君はすばらしい音色でお弾きになった。
 明石(あかし)入道(にゅうどう)は居ても立ってもいられず、娘の部屋まで(そう)を届けた。女君は涙がとめどなくあふれる。思わず(そう)に手を伸ばして品よく弾いた。

 都で筝が上手な人といえば入道の(みや)で、晴れやかな現代風の音色でお弾きになる。弾き手の美しく優しい様子が思い浮かぶという点では、最高の音色だった。
 一方で明石の君の(そう)は、あくまでも()んだ音色で奥ゆかしさがある。めずらしい曲を少しずつ弾いて、女君は演奏をやめた。
<もうやめてしまうのか。この人と恋人関係になってから一年もの月日があったのに、どうして無理にでも聞かせてもらわなかったのだろう>
 源氏の君は後悔(こうかい)なさる。

「私の(きん)はここに置いていきます。また合奏できる日まであなたが持っていてください」
 再会を約束なさる。
「ほんの気休めでおっしゃったことだと分かっておりますが、今のお言葉を支えに、泣きながら生きてまいりましょう」
 女君は(ひと)(ごと)のように答えた。
「何を言うのです。この(きん)(げん)がゆるまないうちに、必ずまた会いましょう。あなたこそ心変わりしないでください」
 源氏の君に(なぐさ)められても、女君はもうむせび泣くことしかできない。