源氏(げんじ)(きみ)二条(にじょう)(いん)にお戻りになった。
女房(にょうぼう)たちは、いよいよ源氏の君が都を離れる日が近づいて、一睡(いっすい)もできないままお迎えする。
<なんというつらい世の中だろう>
と思って、女房同士で(なげ)いているの。

男性たちの姿は少ない。
須磨(すま)へお(とも)する家来(けらい)たちは、それぞれどこかで誰かとお別れをしているのでしょうね。
それほど親しくなく、お供にも留守番(るすばん)(やく)にも選ばれなかった人たちは、右大臣(うだいじん)様を恐れて二条(にじょう)(いん)には近づかないの。
<世の中は冷たいものだな>
と源氏の君は思い知らされていらっしゃる。

これまではにぎやかに人が出入りしていたのよ。
そのためにお食事の道具や敷物(しきもの)もたくさん用意があるのだけれど、最近ではめっきり使われず、(ほこり)をかぶってしまっている。
<私が都から離れる前からこれでは、この先が思いやられる>
とご心配なさった。

(むらさき)(うえ)の離れへ行かれると、縁側(えんがわ)女童(めのわらわ)たちが寝ている。
源氏の君のお戻りに気づいて、あわてて起き出した様子がかわいらしいの。
<まだ言われたままここにいるだけの幼い子どもたちだが、いつまでもこのような寂しいところで仕えてはいまい。より華やかな勤め先を求めて()()りになってしまうのだろう>
と、何かにつけてご自分のいなくなったあとを悲観的にお思いになる。

源氏の君は紫の上に外泊(がいはく)の言い訳をなさる。
「昨夜は(さきの)左大臣(さだいじん)(てい)をお訪ねして、三位(さんみの)中将(ちゅうじょう)と語り合っているうちに夜が()けてしまいました。それであちらに泊まったのです。外泊などなんということだと怒っていらっしゃるのですか。もう都を離れる日が近づいていますから、本当はずっとあなたと一緒にいたいのですが、いろいろなところに挨拶(あいさつ)をしておかなければならないのです。薄情(はくじょう)(もの)だと思われるのもつらいですからね」

紫の上は、
「なんということと悲しんでおりますよ。外泊なさったことではありません。あなたが都を離れてしまわれることをです」
とだけお返事して、沈みこんでいらっしゃる。

紫の上は源氏の君とのお別れが何より悲しいのだけれど、父宮(ちちみや)の思いやりのなさも、情けなく恥ずかしく思っておられた。
というのも、兵部卿(ひょうぶきょう)(みや)様は内裏(だいり)での源氏の君のお立場が悪くなると、急によそよそしくなってしまわれたの。
須磨へ行かれるというのに、お見舞いにもいらっしゃらないし、お手紙もくださらない。
<女房たちが父宮を冷たい方だと思っているらしいのがつらい。こんなことなら、私の父親が誰か公表しないままにしておけばよかった>
とお思いになる。

さらには兵部卿の宮様のご正妻(せいさい)が、
「あなたがよそで産ませた(ひめ)は、源氏の君に見初(みそ)められて幸運な人だと世間で言われておりましたけれど、あらまぁ、一瞬のご幸福でございましたね。幸運どころか不吉(ふきつ)な姫なのではありませんか。母親も祖母も早くに亡くなって、夫君(おっとぎみ)まで遠くへ行ってしまうのですもの」
と意地悪なことをおっしゃっている。
紫の上はその(うわさ)をお聞きになって、それ以降はお手紙もお送りにならない。
源氏の君が都を離れておられる間、頼りにできる方がいらっしゃらなくて、心細そうなご様子だったわ。

源氏の君は紫の上をおなぐさめになる。
「あまり長く都に戻れないようなら、あなたを須磨(すま)にお迎えするつもりです。最初から連れていくのは人聞きが悪い。罪人(ざいにん)はつらい暮らしをしていなければ世間が納得しないのです。私は罪人ではないけれど、私に罪を着せようとする人がいる限り、大人しくしていないとさらにひどい目に遭うでしょう」

すっかり落ちぶれたと世間の人は源氏の君を()(かぎ)っているけれど、今もご友情をお持ちの方はいらっしゃる。
亡き奥様の兄君(あにぎみ)である、三位(さんみの)中将(ちゅうじょう)様よ。
右大臣様ににらまれることなど恐れておられない、心強いお味方(みかた)なの。

その中将様がお見舞いにいらっしゃった。
源氏の君はお着替えをなさる。
(みかど)からいただいていた(くらい)もお役職(やくしょく)返上(へんじょう)して須磨(すま)へ行かれるので、うっすらとした模様(もよう)さえない、無地のお着物をお選びになる。
少しおやつれになった源氏の君がお召しになると、かえってすっきりとしてお美しかったわ。

(ぐし)を整えるために鏡をご覧になる。
ずいぶんやせたお顔が映ったので、源氏の君は紫の上に、
「本当に、ここに映っているようにやせてしまっていますか。情けなくやつれてしまったな。こんな顔でも、この鏡に私の面影(おもかげ)を閉じこめておけたらよいのに。そうしたらあなたとずっと一緒にいられる」
と悲しみを押し殺してほほえまれる。

紫の上は泣き顔を見られないように物陰(ものかげ)にお隠れになって、
「本当に。鏡のなかにあなたがいらっしゃったら、離れていても鏡を見てはなぐさめられるでしょうね」
とおっしゃる。
紫の上は、すっかり理想的な女君(おんなぎみ)になっておられた。