野いちご源氏物語 一二 須磨(すま)

 二条(にじょう)(いん)にお戻りになると、女房(にょうぼう)たちは一睡(いっすい)もしていない様子でお迎えした。なんというつらい世の中だろうと(うら)んでいる。
 家来たちの姿は少ない。須磨(すま)へお(とも)する人たちは、それぞれ大切な誰かと別れを()しんでいるらしい。
 それほど親しくなく、お供にも留守番(るすばん)(やく)にも選ばれなかった人たちは、右大臣(うだいじん)を恐れて二条(にじょう)(いん)に近づかない。世の中の冷たさを見せつけられた思いがなさる。
 これまではにぎやかに人が出入りする屋敷だった。食事の道具や敷物(しきもの)もたくさん用意があるけれど、近ごろはめっきり使われず(ほこり)をかぶっている。
<私が都から離れる前からこれでは、この先が思いやられる>
 源氏の君は苦々しくご覧になった。

 (むらさき)(うえ)は一晩じゅう物思いをなさっていた。離れは昨夜から窓を開けたままで、女童(めのわらわ)たちが()(えん)でうたた寝をしている。源氏の君のお戻りに気づいてあわてて起き出した様子がかわいらしい。
<この子たちだっていつまでも(さび)しい屋敷に仕えてはいまい。より華やかな(つと)め先を求めて、()()りになってしまうのだろう>
 何かにつけてご自分のいなくなった後を悲観(ひかん)なさる。

「昨夜は前左大臣(さだいじん)(てい)をお訪ねして、三位(さんみ)中将(ちゅうじょう)と語り合っているうちに夜が()けてしまいました。それであちらに泊まったのです。外泊を心外(しんがい)だと怒っていらっしゃるのですか。もう都を離れる日が近づいていますから、本当はずっとあなたと一緒にいたいのですが、いろいろなところに挨拶(あいさつ)をしておかなければならないのです。薄情(はくじょう)(もの)だと思われるのもつらいですからね」
「あなたとのお別れ以上に心外なことなどありましょうか」
 紫の上はそれだけ言うと(しず)みこんでしまわれる。

 女君(おんなぎみ)にとってさらにお苦しいのは、父宮(ちちみや)の思いやりのなさだった。朝廷(ちょうてい)での源氏の君のお立場が悪くなると、兵部卿(ひょうぶきょう)(みや)は急によそよそしくなってしまわれた。
 娘の夫が都を離れるというのに、お見舞いにいらっしゃるどころか手紙さえくださらない。
女房(にょうぼう)たちはどう思っているだろうか。こんなことなら父宮に私の居場所(いばしょ)を知られない方がよかった>
 紫の上は情けなく恥ずかしくお思いになる。

 宮邸(みやてい)では宮のご正妻(せいさい)意地(いじ)の悪いことをおっしゃっていた。
「あなたがよそで産ませた(ひめ)は、源氏の君に見初(みそ)められて幸運な人だと世間で言われておりましたけれど、あらまぁ、一瞬(いっしゅん)のお幸せでございましたね。幸運どころか不吉(ふきつ)な姫なのではありませんか。母親も祖母も早くに亡くなって、夫まで遠くへ行ってしまうのですもの」
 紫の上はその(うわさ)を聞いて、もう手紙もお送りにならない。頼りにできるお身内(みうち)がいなくて心細そうなご様子だった。
 源氏の君は紫の上をお(なぐさ)めになる。
「あまり長く都に戻れないようなら、あなたを須磨(すま)にお迎えするつもりです。最初から連れていくのは人聞きが悪い。罪人(ざいにん)はつらい暮らしをせよと世間は思うものですからね。私は罪人ではないけれど、私に罪を着せようとする人がいる限り、大人しくしていないとさらにひどい目に()うでしょう」

 すっかり落ちぶれたと世間の人は源氏の君を()(かぎ)っているけれど、今も友情をお持ちの方はいる。亡きご正妻の兄君(あにぎみ)である三位(さんみ)中将(ちゅうじょう)は、右大臣ににらまれることなど恐れていらっしゃらない。
 その中将がお見舞いにお越しになったので、源氏の君は着替えをなさる。(くらい)官職(かんしょく)返上(へんじょう)した人らしく、無地の地味な着物をお選びになった。心労(しんろう)でやつれた源氏の君がお召しになると、かえってすっきりとしてお美しい。
 それからお(ぐし)を整えるために鏡をご覧になった。
「本当にこんなにやせてしまっていますか。情けないな。こんな顔でも鏡に私の面影(おもかげ)を閉じこめておけたらよいのに。そうしたらあなたとずっと一緒にいられる」
「本当に。鏡の中にあなたがいらっしゃったら、離れていても鏡を見ては(なぐさ)められるでしょうね」
 紫の上は泣き顔を見られないように物陰(ものかげ)からおっしゃった。