引退なさった前左大臣様のお屋敷にだけは、ご出発の二、三日前にご挨拶に行かれたの。
夜に、身分の低い人が乗るような乗り物に乗って、人目を忍んでご訪問なさった。
かつては勢いのある婿君として堂々とご訪問なさっていたことを思うと、信じたくない光景だったわ。
前左大臣様のご一族が内裏で勢いをなくされたからか、お屋敷の雰囲気もどんよりとしている。
源氏の君のご正妻が遺された若君は、物心がつくかどうかのお年頃で、とてもお美しい。
ひさしぶりに父君に会えたうれしさで、はしゃいで走り回っていらっしゃる。
「ずいぶん会わなかったのに、父を忘れていなかったのだね」
と、源氏の君は若君をお膝に座らせておっしゃるの。
若君ともこれが最後になるかもしれない。
涙がこらえきれないご様子だった。
前左大臣様が源氏の君のところへいらっしゃった。
ずいぶん老けこんでしまわれたわ。
「つまらなそうにしていらっしゃるあなたをお訪ねして、昔話でもしたいと思っていたのですがね。病気を理由に政治の場から引退した身ですから、遊び歩いていると噂されるのも面倒で、お訪ねできずにおりました。もう誰に気を遣う必要もないただの年寄りのはずですが、誰もかれも目を光らせて他人の粗探しをしている、嫌な時代になったものです。
まさかあなたまでこんな目にお遭いになるとは。長生きなどするものではありませんね。どこをどう考えたって、あなたが都を離れねばならぬ理由などないではありませんか。そういうふうに仕向けた今の内裏にはあきれてしまう」
とお怒りになるお声も、ところどころかすれて弱々しい。
源氏の君は、
「きっと私は前世で何か悪いことをしたのでしょう。その罰でございます。右大臣様は、私が謀反を企てているとおっしゃっているようですね。今の帝を引退させて、一日も早く東宮様を帝にするようたくらんでいる、と。そのご意見が通れば、須磨などではなく、もっと都から遠い場所へ流されることになりましょう。
私はけっして謀反など企ててはおりませんが、これ以上都にいたら、右大臣様の思いどおりになることは目に見えております。その前に須磨あたりに避難して、自分の身を守ろうと思うのです」
と、お考えを丁寧にご説明なさる。
前左大臣様は、亡き上皇様のことをあれこれ思い出してお話しになる。
「くれぐれもあなたを大切にするようにと帝にご遺言していかれましたのに」
とおっしゃりながら、ぼろぼろと涙を流されるの。
源氏の君も力強くおなぐさめすることなどおできにならない。
若君だけが楽しそうに歩き回っておられる。
それをご覧になると、おふたりはますますつらくなってしまわれた。
前左大臣様はお嘆きが止まらない。
「せっかくあなたの妻にした姫が若くして亡くなってしまったことをずっと悲しんでおりましたが、むしろ短命でよかったのかもしれません。こんなふうなあなたを見ずにすんだのですから。今は若君が気がかりです。このような年寄りばかりの屋敷で、父君であるあなたとどれだけ会えずに暮らすことになるのか。
いつの時代でも、罪を犯しても見逃される人もいれば、無実の罪を着せられる人もいます。今回は、あなたに無実の罪を着せようとする者がいたということでしょう。本当に嫌な世の中です」
三位中将様も急いで駆けつけられた。
お酒を飲みながら語り合われるうちに夜も更けてしまったので、源氏の君は今夜は泊まっていくことになさったわ。
前左大臣家の女房たちのなかに、源氏の君がひそかにかわいがっておられた女房がいる。
覚えていなくても全然構わないけれど、ほら、琵琶の演奏が得意で、亡き奥様の母君に関係を知られて左大臣邸で働くのを辞めようか悩んでいた、あの人。
恋人とも言えない関係だから、その女房は人前で大っぴらに嘆くことはできない。
胸のうちで苦しんでいる様子を源氏の君はかわいそうにお思いになって、他の女房たちが寝静まったあと、おふたりで語り合われた。
翌朝、まだ夜が明けきらないうちに二条の院にお帰りになろうと、源氏の君は早くから起きていらっしゃる。
月が美しい。
霧が薄くただようなかで、お庭の桜が散りはじめていたわ。
源氏の君は濡れ縁にお座りになって、手すりにもたれながらぼんやりとしていらっしゃる。
一晩愛された女房がお見送りをしようと出てくると、源氏の君はそちらをご覧になって、お手を差し出された。
女房が源氏の君の前に座ると、悲しそうにほほえんでおっしゃる。
「もうそなたにも会えないかもしれない。こんなふうになると知っていれば、もっとたくさん会いにきたのだけれど」
女房はお返事もできずに泣いていた。
亡き奥様の母君からはお手紙が届いた。
「私からもお別れのご挨拶をするべきでしたが、とても心を落ち着けてお話しできそうにはありません。このような深夜に、人目を忍んでご出発なさるのですね。姫とのんびり朝寝坊しておられたころが懐かしい。若君はまだ寝ていらっしゃいますよ。お目覚めになるまでお待ちいただけませんか」
とある。
源氏の君は、何かとお世話をしてくださった奥様の母君を思うと、悲しくて泣いてしまわれる。
「姫君のことは忘れませんよ。私の妻になって、かわいい子まで生んでくれた愛しい人です。須磨へ行っても、空を眺めては姫君を火葬したときの煙を探しましょう。
申し上げたいことはまだたくさんございますが、うまく言葉にできません。若君に会えば都を離れる決心が鈍ってしまいそうです。心を鬼にして、このまま二条の院に帰ります」
とお返事なさった。
お帰りになるときには、たくさんの人がお見送りしたわ。
明るい月に照らされた源氏の君は、清らかでお美しくて、そんな方が物思いにふけっていらっしゃるのだから、誰だって泣いてしまう。
このお屋敷には、源氏の君が十二歳で姫君とご結婚されたときからお仕えしている人もいるの。
そういう人たちは、
<源氏の君には輝かしいご将来しかないと思っていたのに>
と嘆いていた。
奥様の母君から、
「都を離れて須磨まで行かれては、亡き姫君などお忘れになってしまうのではと心配しております」
というお返事が届いて、源氏の君の悲しみに追い打ちをかけた。
お帰りになったあと、左大臣家では不吉なほどの泣き声が響きわたっていたわ。
夜に、身分の低い人が乗るような乗り物に乗って、人目を忍んでご訪問なさった。
かつては勢いのある婿君として堂々とご訪問なさっていたことを思うと、信じたくない光景だったわ。
前左大臣様のご一族が内裏で勢いをなくされたからか、お屋敷の雰囲気もどんよりとしている。
源氏の君のご正妻が遺された若君は、物心がつくかどうかのお年頃で、とてもお美しい。
ひさしぶりに父君に会えたうれしさで、はしゃいで走り回っていらっしゃる。
「ずいぶん会わなかったのに、父を忘れていなかったのだね」
と、源氏の君は若君をお膝に座らせておっしゃるの。
若君ともこれが最後になるかもしれない。
涙がこらえきれないご様子だった。
前左大臣様が源氏の君のところへいらっしゃった。
ずいぶん老けこんでしまわれたわ。
「つまらなそうにしていらっしゃるあなたをお訪ねして、昔話でもしたいと思っていたのですがね。病気を理由に政治の場から引退した身ですから、遊び歩いていると噂されるのも面倒で、お訪ねできずにおりました。もう誰に気を遣う必要もないただの年寄りのはずですが、誰もかれも目を光らせて他人の粗探しをしている、嫌な時代になったものです。
まさかあなたまでこんな目にお遭いになるとは。長生きなどするものではありませんね。どこをどう考えたって、あなたが都を離れねばならぬ理由などないではありませんか。そういうふうに仕向けた今の内裏にはあきれてしまう」
とお怒りになるお声も、ところどころかすれて弱々しい。
源氏の君は、
「きっと私は前世で何か悪いことをしたのでしょう。その罰でございます。右大臣様は、私が謀反を企てているとおっしゃっているようですね。今の帝を引退させて、一日も早く東宮様を帝にするようたくらんでいる、と。そのご意見が通れば、須磨などではなく、もっと都から遠い場所へ流されることになりましょう。
私はけっして謀反など企ててはおりませんが、これ以上都にいたら、右大臣様の思いどおりになることは目に見えております。その前に須磨あたりに避難して、自分の身を守ろうと思うのです」
と、お考えを丁寧にご説明なさる。
前左大臣様は、亡き上皇様のことをあれこれ思い出してお話しになる。
「くれぐれもあなたを大切にするようにと帝にご遺言していかれましたのに」
とおっしゃりながら、ぼろぼろと涙を流されるの。
源氏の君も力強くおなぐさめすることなどおできにならない。
若君だけが楽しそうに歩き回っておられる。
それをご覧になると、おふたりはますますつらくなってしまわれた。
前左大臣様はお嘆きが止まらない。
「せっかくあなたの妻にした姫が若くして亡くなってしまったことをずっと悲しんでおりましたが、むしろ短命でよかったのかもしれません。こんなふうなあなたを見ずにすんだのですから。今は若君が気がかりです。このような年寄りばかりの屋敷で、父君であるあなたとどれだけ会えずに暮らすことになるのか。
いつの時代でも、罪を犯しても見逃される人もいれば、無実の罪を着せられる人もいます。今回は、あなたに無実の罪を着せようとする者がいたということでしょう。本当に嫌な世の中です」
三位中将様も急いで駆けつけられた。
お酒を飲みながら語り合われるうちに夜も更けてしまったので、源氏の君は今夜は泊まっていくことになさったわ。
前左大臣家の女房たちのなかに、源氏の君がひそかにかわいがっておられた女房がいる。
覚えていなくても全然構わないけれど、ほら、琵琶の演奏が得意で、亡き奥様の母君に関係を知られて左大臣邸で働くのを辞めようか悩んでいた、あの人。
恋人とも言えない関係だから、その女房は人前で大っぴらに嘆くことはできない。
胸のうちで苦しんでいる様子を源氏の君はかわいそうにお思いになって、他の女房たちが寝静まったあと、おふたりで語り合われた。
翌朝、まだ夜が明けきらないうちに二条の院にお帰りになろうと、源氏の君は早くから起きていらっしゃる。
月が美しい。
霧が薄くただようなかで、お庭の桜が散りはじめていたわ。
源氏の君は濡れ縁にお座りになって、手すりにもたれながらぼんやりとしていらっしゃる。
一晩愛された女房がお見送りをしようと出てくると、源氏の君はそちらをご覧になって、お手を差し出された。
女房が源氏の君の前に座ると、悲しそうにほほえんでおっしゃる。
「もうそなたにも会えないかもしれない。こんなふうになると知っていれば、もっとたくさん会いにきたのだけれど」
女房はお返事もできずに泣いていた。
亡き奥様の母君からはお手紙が届いた。
「私からもお別れのご挨拶をするべきでしたが、とても心を落ち着けてお話しできそうにはありません。このような深夜に、人目を忍んでご出発なさるのですね。姫とのんびり朝寝坊しておられたころが懐かしい。若君はまだ寝ていらっしゃいますよ。お目覚めになるまでお待ちいただけませんか」
とある。
源氏の君は、何かとお世話をしてくださった奥様の母君を思うと、悲しくて泣いてしまわれる。
「姫君のことは忘れませんよ。私の妻になって、かわいい子まで生んでくれた愛しい人です。須磨へ行っても、空を眺めては姫君を火葬したときの煙を探しましょう。
申し上げたいことはまだたくさんございますが、うまく言葉にできません。若君に会えば都を離れる決心が鈍ってしまいそうです。心を鬼にして、このまま二条の院に帰ります」
とお返事なさった。
お帰りになるときには、たくさんの人がお見送りしたわ。
明るい月に照らされた源氏の君は、清らかでお美しくて、そんな方が物思いにふけっていらっしゃるのだから、誰だって泣いてしまう。
このお屋敷には、源氏の君が十二歳で姫君とご結婚されたときからお仕えしている人もいるの。
そういう人たちは、
<源氏の君には輝かしいご将来しかないと思っていたのに>
と嘆いていた。
奥様の母君から、
「都を離れて須磨まで行かれては、亡き姫君などお忘れになってしまうのではと心配しております」
というお返事が届いて、源氏の君の悲しみに追い打ちをかけた。
お帰りになったあと、左大臣家では不吉なほどの泣き声が響きわたっていたわ。



