野いちご源氏物語 一二 須磨(すま)

 引退なさった前左大臣(さだいじん)のところにだけは、出発の二、三日前にご挨拶(あいさつ)に行かれた。人目(ひとめ)を避(さ)けて、夜分(やぶん)に身分の低い人が乗るような乗り物でお訪ねになる。勢いのある婿君(むこぎみ)として堂々とご訪問なさっていたころを思うと、信じたくない光景だった。この大臣の一族は政界(せいかい)で冷遇(れいぐう)されていらっしゃるから、屋敷の雰囲気(ふんいき)もどんよりとしている。

 源氏(げんじ)の君(きみ)の亡きご正妻(せいさい)が遺(のこ)された若君(わかぎみ)は、物心(ものごころ)つくかどうかの年頃で、とてもおかわいらしい。ひさしぶりに父君(ちちぎみ)に会えたことがうれしくて、走り回ってはしゃいでいらっしゃる。
「ずいぶん会わなかったのに父を忘れていないのだね」
 若君をお膝(ひざ)に座らせなさる。これが最後の別れになるかもしれない。涙がこらえきれないご様子だった。

 大臣が源氏の君のところへお越しになった。
「することもなく二条(にじょう)の院(いん)に籠(こも)っていらっしゃると聞きましたから、お訪ねして昔話でもしたいと思っていたのですがね。病気を理由に引退した身ですから、遊び歩いていると噂(うわさ)されるのも面倒(めんどう)で、お訪ねできずにおりました。もう誰に気を遣(つか)う必要もないただの年寄りのはずですが、いたるところで粗(あら)探(さが)しがされている嫌な時代になったものです。
 まさかあなたまでこんな目にお遭(あ)いになるとは。長生きなどするものではありませんね。どこをどう考えたって、あなたが都を離れねばならぬ理由などないではありませんか。何もかも情けない」
 不満をおっしゃって弱々しく肩(かた)を落とされる。

「きっと前世(ぜんせ)で何か悪いことをした罰(ばつ)なのでしょう。右大臣(うだいじん)は私に謀反(むほん)の疑いがあるとおっしゃったようですね。今の帝(みかど)を引退させて、一日も早く東宮(とうぐう)を帝にしようと企(たくら)んでいる、と。私はけっして謀反など考えておりませんが、これ以上都に留(とど)まれば、はるか遠い国へ流されることになりましょう。その前に須磨(すま)あたりに移って、自分の身を守ろうと思うのです」
 源氏の君はお考えを丁寧にご説明なさった。

 亡き桐壺(きりつぼ)院(いん)のことを大臣は思い出される。
「くれぐれもあなたを大切にするようにと帝にご遺言(ゆいごん)なさいましたのに」
 ぼろぼろと涙がこぼれた。源氏の君は力強くお慰(なぐさ)めになることができない。若君だけが楽しそうに歩きまわって祖父君(そふぎみ)と父君(ちちぎみ)にまとわりつかれるので、ふたりはますますつらくなってしまわれた。

 大臣はお嘆(なげ)きが止まらない。
「姫(ひめ)が若くして亡くなってしまったことをずっと悲しんでおりましたが、むしろ短命(たんめい)でよかったのかもしれません。こんなふうなあなたを見ずに済んだのですから。今は姫の遺した若君が気がかりです。年寄りばかりの屋敷で、父君であるあなたとどれだけ会えずに暮らすことになるのか。
 古今(ここん)東西(とうざい)、罪(つみ)を犯(おか)しても見(み)逃(のが)される人もいれば、無実(むじつ)の罪を着せられる人もいます。罪を着せるなら何らかの証拠(しょうこ)を出すものなのに、今回のことは完全な言いがかりでしょう。理解できない嫌な世の中です」
 大臣のご長男である三位(さんみ)の中将(ちゅうじょう)も急いで駆(か)けつけられた。お酒を飲みながら語り合われるうちに夜も更(ふ)けてしまったので、源氏の君は今夜は泊まっていくことになさる。

 大臣家の女房(にょうぼう)のなかに、源氏の君がひそかにかわいがっていらっしゃる女房がいる。恋人とも言えない関係だから人前で嘆(なげ)くことはできない。胸のうちで苦しんでいるのを源氏の君はかわいそうに思って、他の女房たちが寝静まった後でお会いになった。このためにお泊まりになったのでしょうね。

 翌朝、まだ夜が明けきらないうちから源氏の君は濡(ぬ)れ縁(えん)に出ていらっしゃる。月が美しい。霧(きり)が薄(うす)く漂(ただよ)うなかで、庭の桜が散りはじめていた。
 源氏の君は手すりにもたれながらぼんやりなさっている。女房はお見送りしようと、おそばまで出てきた。
「もうそなたにも会えないかもしれない。こんなふうになると知っていれば、もっとたくさん会いにきたのだけれど」
 女房は何も申し上げられずに泣く。

 亡きご正妻の母君からは手紙が届いた。
「私からもお別れのご挨拶(あいさつ)をするべきですが、とても落ち着いてお話しできそうにありません。このような深夜に人目(ひとめ)を忍(しの)んで出発なさるのですね。姫とのんびり朝(あさ)寝坊(ねぼう)していらっしゃったころが懐(なつ)かしい。若君はまだお休みですよ。お目覚めになるまでお待ちになりませんか」
 何かとお世話してくださった母君を思うと、源氏の君もお悲しい。
「姫君(ひめぎみ)は私の妻になって、かわいい子まで生んでくれた愛しい人です。須磨(すま)へ行っても、空を眺(なが)めては姫君を火葬(かそう)したときの煙(けむり)を探しましょう。
 申し上げたいことはたくさんございますが、うまく言葉にできません。若君に会えば都を離れる決心が鈍(にぶ)ってしまいそうです。心を鬼(おに)にして、このまま二条(にじょう)の院(いん)に帰ります」
 とお返事なさった。

 女房たちが物陰(ものかげ)からお見送りする。明るい月に照らされた源氏の君は清らかでお美しい。そんな人が物(もの)思(おも)いに沈(しず)んでいらっしゃるのだから、誰だって泣いてしまう。源氏の君が十二歳で姫君と結婚されたときから仕えている女房は、
<婿君(むこぎみ)には輝かしいご将来しかないと思っていたのに>
 と嘆(なげ)いている。母君からお返事が届いた。
「都を離れて須磨まで行かれては、亡き姫君などお忘れになってしまうのではと心配しております」
 お帰りになった後、大臣家では不吉(ふきつ)なほどの泣き声が響(ひび)きわたっていた。