野いちご源氏物語 一二 須磨(すま)

 朧月夜(おぼろづきよ)尚侍(ないしのかみ)は、世間から笑われていることをつらく思いながら、実家で謹慎(きんしん)していらっしゃる。この姫君(ひめぎみ)右大臣(うだいじん)愛娘(まなむすめ)だから、大臣は(みかど)皇太后(こうたいごう)に必死にお願いなさった。
 帝はもともと尚侍と源氏(げんじ)(きみ)の関係をご存じで、その上で尚侍を愛していらっしゃった。
(きさき)が他の男と関係を持ったというなら内裏(だいり)に置いておけないが、尚侍は妃ではなく女官(にょかん)なのだから、そこまでの処分は必要ない」
 とお許しになる。

 七月、源氏の君が須磨(すま)へ行かれて四か月ほどしたころ、尚侍は内裏に復帰(ふっき)なさった。これだけの不祥事(ふしょうじ)を起こして帝をお苦しめしたというのに、まだ源氏の君をお忘れになれない。
 帝の尚侍へのご愛情は冷めることなく、誰に何を言われてもずっとおそばに置いておかれる。(うら)(ごと)をおっしゃったり永遠の愛を約束なさったりする帝のお姿は、とても清らかでお美しい。それでも尚侍は源氏の君のことばかりを思っていらっしゃる。なんと恐れ多いことかしら。

 ある日の音楽会のとき、帝は尚侍におっしゃった。
「源氏の君がいないとつまりませんね。私以上にそう思って、残念がっている人も多いでしょう。あの人は光のような人だったから。源氏の君を大切にせよという(ちち)(いん)のご遺言(ゆいごん)を破ってしまった。(ばつ)を受けるだろうな」
 涙ぐまれる帝を見て、尚侍も涙を我慢(がまん)できない。
「生きていたところでたいしておもしろいこともないから、そろそろ死んでしまってもよいと思うのです。しかし死んでも私は源氏の君に勝てないでしょう。私が二度と会えないところに行ったとしても、あなたが流す涙は、源氏の君がたかだか須磨(すま)へ行ったときの何分の一だろう。帝の(くらい)をしても弟に勝てない。あなたの愛を得られない。(くや)しいことです」
 お胸のうちにあるわだかまりを何もかも話してしまわれる。

 深く思いつめていらっしゃるご様子に、尚侍の涙がこぼれた。
「ほら、それですよ。その涙は源氏の君のためか、私のためか」
 苦笑いしておっしゃる。お返事できない尚侍に、帝は話をお変えになった。
「私には残念なことにまだ皇子(みこ)がいませんから、父院のご遺言に従って東宮(とうぐう)養子(ようし)にしようと考えることもあるけれど、きっと反対する人がいて実現できないでしょう。本当に私は帝なのだろうか。何も思いどおりにできない」
 右大臣(うだいじん)皇太后(こうたいごう)の前では、お若い帝はご意見を通せずにいらっしゃる。お気の毒なことだった。