野いちご源氏物語 一〇 賢木(さかき)

政治を思いのままにできない(みかど)を、優しくお支えしている人がいたの。
内裏(だいり)女官(にょかん)として働いていらっしゃる朧月夜(おぼろづきよ)(きみ)よ。
この姫君(ひめぎみ)は、源氏(げんじ)(きみ)との関係が(うわさ)になったせいで、東宮(とうぐう)時代の(みかど)とご結婚なさることができなくなってしまった。
それで女官として内裏に上がられたのだけれど、出世して、今は「尚侍(ないしのかみ)」という高い役職に就いていらっしゃった。
上品で人柄も優れているから、帝からご愛情もいただいておられる。

女御(にょうご)様や更衣(こうい)様のようなお(きさき)様とはお立場が違うけれど、実際はどのお妃様より愛されているみたい。
内裏では弘徽殿(こきでん)に住んでいらっしゃる。
弘徽殿といえば、朧月夜の君の姉君(あねぎみ)でいらっしゃる皇太后(こうたいごう)様が、女御時代にお暮らしになっていた建物ね。
でも、朧月夜の君は皇太后様とは似ても似つかない。
自由で華やかで、帝はずいぶん救われていらっしゃった。
だから深いご愛情で大切になさるの。

それなのに朧月夜の君は、源氏の君のことをずっと忘れられない。
源氏の君も、ときどきこっそりとお手紙をお送りになる。
女官とはいえ帝が愛する女性と手紙のやりとりだなんて、かなり危険なことよ。
源氏の君は、
<人に知られたら大変なことになる>
とお思いになるけれど、ほら、厄介(やっかい)な女性にこそ夢中になってしまわれるご性格だものね。

おふたりがお会いになるのは、危険ではあるけれど難しいことではないの。
お互いに思いあっている大人同士なのだから、どうとでもやり方はあるわ。
その夜も、源氏の君は弘徽殿にそっと忍びこんでいらっしゃった。
特別に人目(ひとめ)が多い夜だったから、恐ろしくお思いになる。
でも、危険のなかで会うのって盛り上がるのよね。
女君(おんなぎみ)は人生で一番お美しいとき。
ご身分にふさわしい重々しさはないけれど、華やかで若々しくて源氏の君はたまらない。

夜明けが近づこうとしている。
女君は、
「あなたに飽きられる日が怖いわ。私の方があなたを好きなのだもの」
と、めずらしく気弱そうにおっしゃる。
源氏の君はますます女君が愛しくなって、
「あなたに飽きることなどあるものですか」
と優しくおなぐさめになったわ。

源氏の君はこっそりと弘徽殿から出ていかれた。
(きり)が立ちこめているけれど、月明かりでぼんやりとお姿が見える。
見る人が見れば、源氏の君だということははっきりと分かる。
ふつうの人とは全然違うお美しさだもの。
でも、このときばかりは人並みのお美しさの方がよかったかもしれない。
源氏の君は気づいておられなかったけれど、弘徽殿から出ていらっしゃるところを、偶然ひとりの貴族が見ていたの。
これまで運良く守りつづけられた秘密が、ついにほころびはじめたわ。