野いちご源氏物語 〇九 葵(あおい)

その頃 左大臣(さだいじん)(てい)では、どうやっても奥様から引き離すことのできなかった妖怪(ようかい)が、ついに本気を出していた。
奥様はお命が危ないほどになってしまわれたの。
世間では無責任な噂が流れる。
六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)が妖怪に化けていらっしゃるのではないか」
「六条御息所の亡きお父君(ちちぎみ)の妖怪かもしれない」
と騒がれていることが、御息所(みやすんどころ)のお耳に入ってしまった。

御息所はもともと思いつめてしまわれるご性格だから、噂を聞き流すことなどおできにならない。
<私には誰かを(うら)む気持ちなどないと思っていたけれど、悩みすぎると体から(たましい)が抜け出てしまうという。知らないうちに私の魂が左大臣邸へ行って、妖怪に化けているのかもしれない>
と不安になってしまわれる。

そういえばたしかに、奥様との揉め事があってから、御息所は悪夢をご覧になるようになったの。
美しい姫君(ひめぎみ)が寝ていらっしゃるところへ行って、姫君を(のろ)いながら激しくぶつ夢よ。
<あの姫君は源氏(げんじ)(きみ)のご正妻(せいさい)だったのだ>
愕然(がくぜん)となさる。

<なんということ。体から魂が抜け出るというのは本当だったのか。これが世間に知られたら、どんな噂を立てられるだろう。亡くなった人の妖怪というのはよく聞く話だけれど、私はまだ生きているというのに。源氏の君の冷淡さを悩みすぎているせいだ。あぁもう、あの人のことはすっぱり忘れよう>
とお思いになる。
でも、忘れよう忘れようと思っているうちは忘れられないのよね。

御息所の姫宮(ひめみや)はまもなく、(みやこ)の郊外にある特別なお屋敷に引っ越しなさるご予定なの。
伊勢(いせ)神宮(じんぐう)斎宮(さいぐう)になられるためのご準備よ。
それなのに母君(ははぎみ)である御息所がぼんやりと正気(しょうき)をなくしたご様子でいらっしゃるので、周りの人たちは困ってしまう。

ご回復のお祈りもしているのだけれど、このご病気は良くも悪くもならないままなの。
源氏の君もご心配なさって、たびたびお手紙をお送りになる。
あちらもこちらもご病気で、お心が休まる暇もないようだったわ。