夕顔(ゆうがお)(きみ)二条(にじょう)(いん)にまだお迎えになってはいなくて、今夜も女君(おんなぎみ)の家でお会いになっていたの。
十五夜(じゅうごや)の明るい月光が、屋根の隙間(すきま)から差しこんでくる。
源氏(げんじ)(きみ)はこんな粗末(そまつ)な家にお暮らしになったことはないから、屋根の隙間からの月光など初めてお浴びになった。

明け方が近いのか、近くの家々(いえいえ)の住人が起きはじめたの。
いかにも貧しそうな男が、大きな声で話す。
「うぅ、寒い。今年は全然もうからなかった。このままでは年が越せるかどうか。おおい、北のお前さんはどうだ」
北隣(きたどなり)に住んでいるらしい男が、大声でそれに答えているのも聞こえてくる。
細々(ほそぼそ)とした生活のために早朝から働くのね。
がたがたと動き出す音が聞こえる。
女君は、恋人に貧しい家を見られ、近所の生活音まで聞かれてしまったことが恥ずかしくなった。
ふつうの恋人ではないもの。
正体はよく分からないけれど、いかにも身分が高そうな恋人だから、こういうことが原因で嫌われてしまうかもしれない。

でもね。
夕顔の君はここがすごいのだけれど、恥ずかしがるそぶりはまったくお見せにならないの。
つらいとも気まずいともお顔には出されない。
ただいつもどおり、のんびりおっとりとほほえんでいらっしゃる。
源氏の君は、上品でかわいらしいとお思いになった。

隣の家から(かみなり)のような大きな音がしはじめた。
源氏の君には何の音だかさっぱりお分かりにならないけれど、とにかくとても大きな、(まくら)もとに(ひび)くような音よ。
さすがにこれには寝ていられなくて、源氏の君は起き上がられたわ。

源氏の君と女君は、戸を開けさせてささやかな庭をご覧になった。
植え込みの葉についた(つゆ)は、こんな粗末な家の庭であっても美しくきらめいているの。
虫の()は近くてうるさいくらい。
源氏の君は、広いお庭からほのかに聞こえる虫の音しかご存じないから、これはこれでおもしろいとお聞きになる。
恋の力は偉大(いだい)ね。
どんな欠点でも気にならなくなるのだから。

夕顔の君は、白いお着物に薄紫(うすむらさき)色のお着物を重ねていらっしゃる。
やさしくて(はかな)げな雰囲気よ。
はっきりと目立つよいところがあるわけではないけれど、おとなしくて可憐(かれん)でいらっしゃるの。
小さなあどけない声でお話しになるのもかわいらしいと、源氏の君はお胸が苦しくなってしまわれる。

「もう少し感情が()れるところも見てみたい。もっと気楽にくつろげる場所に行けば、それも見られるだろうか」
とお思いになって、
「この近くに私が自由に使える()()があります。夜が明けきる前に、今からそちらへ行きませんか。夜まで静かにゆっくり過ごして、一晩泊まったら、また戻ってくればよいのだから」
とご提案なさる。
女君は、
「今からなんて、急ですわ」
とおっとりお返事なさる。

もう一押(ひとお)しすればうなずかれそうな気配(けはい)なので、源氏の君は優しくお口説(くど)きになる。
「私は来世(らいせ)でもあなたと一緒にいたいと思っているのですよ。今夜のことなどでお迷いにならないで」
とささやかれると、女君は素直に受け取ってうなずいてしまわれた。
そのご様子があまりに初々(ういうい)しくて、もう源氏の君のお気持ちは止まらない。
右近(うこん)という女房(にょうぼう)に、源氏の君の家来(けらい)を呼んでくるようお命じになった。
家来は源氏の君の乗り物の準備を始めたわ。

女君の女房たちも反対はしない。
男君(おとこぎみ)素性(すじょう)は分からないままなのだけれど、女主人へのご愛情は確かなようだから、この男君を信じてお任せしようと思っていた。

いよいよ夜が明けそうになった。
どこかから老人たちが仏様にお祈りする声と物音が聞こえる。
「人生など(はかな)いものなのに、ああまでして何を欲しがっているのだろうか」
とお思いになっていると、その老人たちはつづいて来世のことまでも祈りはじめた。
源氏の君は、
「近くに熱心な宗教(しゅうきょう)(しゃ)がいるようですね。私たちも来世を約束しましょう。ずっと一緒ですよ」
と手を差し出された。

女君は源氏の君のお手をとることをためらわれた。
「私がこのような落ちぶれた境遇(きょうぐう)におりますのは、前世(ぜんせ)の行いが悪かったせいでございましょう。来世も期待はできません」
と心細そうにお答えなさる。
源氏の君はあれこれと(はげま)まされたわ。
人目(ひとめ)を避けるために、夜が明けてしまう前にご出発なさりたいの。
源氏の君は「さぁ」と女君の手をおとりになって抱き上げると、軽々と乗り物にお乗せした。
女房の右近(うこん)同乗(どうじょう)して、やっと出発なさったわ。