源氏(げんじ)(きみ)小君(こぎみ)を連れて二条(にじょう)(いん)へお帰りになった。
二条の院は亡き桐壺(きりつぼ)更衣(こうい)様のご実家よ。母君(ははぎみ)祖母君(そぼぎみ)を亡くされたあと、源氏の君が相続(そうぞく)なさったの。
源氏の君がお暮らしになる場所は三か所。
内裏(だいり)桐壺(きりつぼ)と、左大臣(さだいじん)(てい)婿君(むこぎみ)用のお部屋と、この二条の院なのだけれど、一番気楽にお過ごしになれるのは、やはり我が家である二条の院ね。

「また逃げられてしまった。おまえの計画が甘かったのだ」
と、源氏の君は小君をお責めになる。
小君はお気の毒で何も申し上げられない。
「おまえの姉上は、よほど私のことがお嫌いなのだな。ついたて越しに話すくらいはしてくださってもよいだろうに。私など年老(としお)いた夫より下だとおっしゃるのか」
とすねてしまわれる。

それでもあの薄い着物は大切にお持ちになっていて、ご寝室で抱きしめていらっしゃるの。
女君(おんなぎみ)(にお)いがしみついているから手放せないご様子だったわ。
小君を近くに寝かせて、(うら)んだり相談したりとお忙しい。
「おまえはかわいいけれど、あの人の弟だと思うとこれ以上かわいがってやれない気もする」
と弱気になっておっしゃるので、小君はそれは嫌だと思う。
しばらく横になっていらっしゃったけれど、お眠りにはなれない。
(すずり)と筆を持ってこさせて、ちょっとした紙に何かお書きになる。

「空っぽの寝床(ねどこ)(せみ)()(がら)が落ちていましたので、拾って帰りました。蝉のようなあなたはどこへ飛んでいってしまったのだろうと、私は抜け殻を抱きしめながら恋しがっております」
こう書かれていたのを、小君はそっと自分の着物にしまった。
姉君(あねぎみ)に渡してさしあげようと思ったのね。
継娘(ままむすめ)の方にお手紙を書くことはおやめになった。
そこまで本気にはなれないお相手だったし、やりとりを続けるのもご面倒(めんどう)だったのでしょうね。

小君は紀伊()(かみ)の屋敷に戻った。
姉君は腹を立ててお待ちになっていたわ。
「なんてことをしてくれたの。すんでのところで気づいたから逃げられたけれど、あやしんだ人だっていたはずですよ。屋敷にこっそり(しの)びこむお手伝いをするだなんて、おまえはあの方に都合よく使われているだけです」
とお(しか)りになった。
小君は源氏の君からも姉君からも叱られて板挟(いたばさ)みでつらいのだけれど、源氏の君が走り書きなさった紙をおそるおそるお渡しした。
姉君もさすがにご覧になって、はっとなさる。
「私の着物をお持ち帰りになったのね。汗を吸っていただろうに、なんて恥ずかしいこと」
と思い悩んでしまわれたわ。

継娘も悩んでいた。
小君が屋敷に戻ってくるたびに、源氏の君からの手紙を届けてくれるのではないかと期待していたの。
でもお手紙は来ない。
自分からお手紙を差し上げることは気が引けて、誰にも相談できず一人で悩んでいた。

女君はお返事をお書きにならない。
人妻(ひとづま)であることを(なげ)いても仕方がないと分かっているけれど、気持ちは(おさ)えきれず、小君が差し上げた紙の(はし)に書き加えていらっしゃった。
「抜け殻から出た蝉は、人目につかない木陰(こかげ)で泣いております。あなた様の光は私のような者にはまぶしすぎるのです」

蝉の抜け殻のことを「空蝉(うつせみ)」と言うの。
だからこの女君のことは、これから「空蝉(うつせみ)(きみ)」とお呼びしましょう。