野いちご源氏物語 〇三 空蝉(うつせみ)

 源氏(げんじ)(きみ)小君(こぎみ)を連れて二条(にじょう)(いん)へお帰りになった。
 二条の院は亡き桐壺(きりつぼ)更衣(こうい)の実家で、母君(ははぎみ)祖母君(そぼぎみ)の死後、源氏の君が相続(そうぞく)なさった。
 源氏の君のお住まいは三か所ある。
 この二条の院と、内裏(だいり)桐壺(きりつぼ)と、左大臣(さだいじん)(てい)婿君(むこぎみ)の部屋。そのなかで一番気楽なのは、やはり我が家と呼べる二条の院だった。

「また逃げられてしまった。おまえの計画が甘かったのだ」
 小君を責めつつ女君(おんなぎみ)強情(ごうじょう)さもお(うら)みになる。小君はお気の毒で何も申し上げられない。
「あまりにひどく私をお嫌いになるから、私も自分が嫌になってしまった。ついたて越しに優しく話すくらいはしてくださってもよいだろうに。おまえの姉君(あねぎみ)にとって、私など年老(としお)いた夫より下だということだね」

 それでも持ち帰っていらした着物は手放せない。女君の匂いがしみついている。
 ()きしめて寝室にお入りになった。小君を近くに寝かせて、(うら)んだり相談したりとお忙しい。
「おまえはかわいいけれど、あの人の弟だと思うとこれ以上かわいがってやれない気がする」
 深刻(しんこく)そうにおっしゃるので、小君は悲しくなってしまう。
 しばらく横になっていらっしゃったけれど眠れない。(すずり)と筆を持ってこさせて、ちょっとした紙に何かお書きになる。
「空っぽの寝床(ねどこ)(せみ)()(がら)が落ちていたので、拾って帰りました。蝉のようなあなたはどこへ飛んでいってしまったのだろうと、私は抜け殻を()きしめながら恋しがっています」
 姉に見せたくて、小君はその紙をそっと(ふところ)にしまった。
 源氏の君は継娘(ままむすめ)のことも気になったけれど、いろいろと考えて、手紙はおやりにならない。

 小君が紀伊()(かみ)の屋敷に戻ると、女君は腹を立てて待ちかまえていた。
「なんということをしてくれたの。すんでのところで気づいたから逃げられたけれど、(あや)しんだ人だっていたはずですよ。屋敷に(しの)びこむお手伝いをするなんて、おまえはあの方に都合よく使われているだけです」
 源氏の君からも姉からも(しか)られてつらい。おそるおそる先ほどの紙を渡す。
 女君は仕方なく読んではっとした。
<私の着物をお持ち帰りになったのだ。汗ばんでいただろうに、恥ずかしい>
 怒っていたことも忘れて弱々しく思い悩んでしまう。

 継娘も悩んでいた。
 なんとなく恥ずかしい気がする。かといって誰にも相談できないので、離れに戻ってひとりで物思いをしていた。
 小君が屋敷の中をうろうろしている。その姿を見かけるたびに期待するけれど、源氏の君からのお手紙を届けにはこない。人違いだったとは思いもよらず、ませた心で恋の苦しみに(ひた)っていた。
 
 女君は源氏の君の走り書きを読んでも、表面上は平気なふりをしている。
<これほどのご愛情を娘時代に頂戴(ちょうだい)していたなら>
 もう戻れないと分かっていても心の中はざわつく。(おさ)えきれない気持ちを紙の(はし)に書きつけた。
「殻から出た蝉は、人目につかない木陰(こかげ)で泣いております」

 蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と言うの。それにちなんで、この女君を空蝉(うつせみ)(きみ)とお呼びしましょう。