野いちご源氏物語 〇二 帚木(ははきぎ)

 左大臣(さだいじん)(てい)にお戻りになっても、寝直(ねなお)すご気分にはなれない。
<もう二度と会えないだろう。あれほど約束をしたのに、あの人はどう思っていることか>
 申し訳なく思う一方で、
<とくに優れたところがあったわけではないが、感じのよい中流の女性だった。女遊びにふけっている男の言うことは本当だな>
 と、先日の女性談義(だんぎ)を思い出して納得なさる。

 それからしばらくは左大臣(さだいじん)(てい)でお暮らしになっている。
<あれきり連絡もできていない。きっと苦しんでいるだろう> 
 どうしてもあの女君(おんなぎみ)のことが気になって、ついに紀伊()(かみ)をお呼びになった。
「先日の少年を私に預けてくれないか。そう、そなたの継母(ままはは)の弟だ。かわいらしい子だったから、私のそばで仕えさせて、いずれ内裏(だいり)に見習いとして上げてやろう」
 紀伊の守は恐縮(きょうしゅく)して、
「大変ありがたい(おお)せでございます。継母にそのように伝えましょう」
 と申し上げる。

 女君の話が出たのでどきりとしながら、源氏の君はさりげなくお尋ねになった。
「継母に子どもはいるのか」
「おりません。もう結婚して二年になりますが、入内(じゅだい)させたいという父親の考えに(そむ)いたことを継母は嘆いておりまして、それで夫婦仲がうまくいっていないようでございます」
「気の毒なことだ。娘時代は美しいと評判だったけれど。あの(うわさ)は本当だろうか」
「どうでしょう。不美人ではないと存じますが、はっきりと姿を見たことはもちろんございませんので」
 
 五、六日して、紀伊の守は継母の弟を連れてきた。
 繊細(せんさい)な美しさがあるわけではないけれど、貴族らしい育ちの良さそうな少年だった。小君(こぎみ)と呼んで、親しげに話をなさる。小君は幼心(おさなごころ)に、
<なんと美しい方だろう。おそばでお仕えできてうれしい>
 と思っている。
 源氏の君は女君のことも詳しくお尋ねになった。
 小君は答えられることはきちんとお返事して、その後はかしこまっている。言い出しにくく思いながらも、源氏の君は女君との関係を打ち明けなさった。もちろんご自分に都合のよいように、うまくお伝えになる。

<意外だけれど、おふたりはそんなご関係だったのか>
 幼い小君は深くも考えないまま信じて、源氏の君からお手紙をお預かりした。
 お手紙を受け取ると、女君はあきれて涙まで出てくる。幼い弟がどう思うか気まずい。顔を隠すようにお手紙を広げた。
 お手紙はとても長い。最後に、
「もう一度あなたにお会いしたくて苦しんでおります。夢でもよいからと横になってみますが、苦しみのあまり眠ることもできないのです。この恋しさをどうやって(なぐさ)めたらよいのでしょう」
 と書かれていた。
 見事すぎるご筆跡(ひっせき)だけれど、涙で目がくもって読めない。また運命に翻弄(ほんろう)されるのかとつらくて、女君は()してしまった。

 翌日、源氏の君は小君を呼び戻された。
 小君は姉の部屋へ行って、
「源氏の君のお屋敷に上がりますから、お手紙のお返事をください」
 と言う。
「『宛先(あてさき)をお間違えではございませんか』と申し上げなさい」
 と答えると、小君は(わけ)()り顔に微笑(ほほえ)んだ。
「そんなはずはありません。源氏の君はきちんと事情をお話しくださったのです。どうしてそんなことを申し上げられましょうか」
 女君はぞっとする。
<幼い弟にお手紙を持たせただけでなく、何もかも話してしまわれたのだ>
 源氏の君のなさり方がつらくてならない。

「大人ぶったことを言うものではありません。それならもうお屋敷へは参らずともよい」
「お呼びになりましたのに、参らないわけにはいきません」
 小君はそう言って出ていってしまった。どうやら紀伊の守が小君を左大臣邸まで連れていったみたい。この人はひそかに継母に興味をもっていて、継母の気を引くために小君をかわいがってやっている。

 源氏の君は小君を近くにお呼びになった。
「昨日は一日中おまえが来るのを待っていたのだよ。会いたかったのは私だけか」
 と冗談(じょうだん)をおっしゃるので、小君は顔を赤くする。
「お返事はいただいてきたか」
 小君は仕方なく正直にお話しした。
「頼りにならない使者だね。そんなことではいけないよ」
 源氏の君はまた新しいお手紙をお渡しになる。

「おまえは知らないだろうが、姉君はご結婚前から私の恋人だったのだ。しかし私のような若造(わかぞう)では不安に思ったのか、あんなつまらない年寄りと結婚してしまわれた。それで今も私を馬鹿(ばか)にしていらっしゃる。せめておまえは私のそばにいておくれ。私を父と思えばよい。あの年寄りは()(さき)短いはずだ」
 源氏の君がまことしやかにおっしゃると、
<なるほどそんなことがあったのか>
 と小君は神妙(しんみょう)にうなずく。素直なかわいらしい子だと源氏の君はおかしくお思いになる。
 源氏の君は小君を連れて参内(さんだい)なさることもあった。
 裁縫(さいほう)係に命じて、小君の着物を作っておやりになる。本当の父親になったつもりで世話していらっしゃった。

 それからもお手紙は頻繁(ひんぱん)に届くけれど、女君はお返事を書かない。
<弟はまだ幼いから、うっかり手紙をなくして誰かに読まれてしまうかもしれない。ただでさえ落ちぶれた結婚をしたのに、浮気の(うわさ)まで立ってはつらい。どんなに優しいお手紙をいただいても、やはり源氏の君とは住む世界が違う>
 自重(じちょう)しながらも、源氏の君の美しさを思い出すことはある。
<明け方のほのかな明るさで拝見したお姿は、本当に信じられないほどだった>
 そしてすぐに、
<あぁ、いけない。今さらかわいらしいことを申し上げたところで、どうにもなりはしないのだから>
 と思い直す。

 源氏の君はずっと、女君のことを気の毒にも恋しくも思われていた。つらそうだった様子がまぶたから離れない。
<紀伊の守の屋敷にこっそり(しの)びこんでみようか。しかし人目(ひとめ)が多いところだから、誰かに気づかれてしまうかもしれない。もし私たちの関係が知られたら、人妻のあの人にとってかわいそうなことになる>
 と悩んでいらっしゃった。