左大臣邸にお戻りになっても、寝直すご気分にはなれない。
<もう二度と会えないだろう。あれほど約束をしたのに、あの人はどう思っていることか>
申し訳なく思う一方で、
<とくに優れたところがあったわけではないが、感じのよい中流の女性だった。女遊びにふけっている男の言うことは本当だな>
と、先日の女性談義を思い出して納得なさる。
それからしばらくは左大臣邸でお暮らしになっている。
<あれきり連絡もできていない。きっと苦しんでいるだろう>
どうしてもあの女君のことが気になって、ついに紀伊の守をお呼びになった。
「先日の少年を私に預けてくれないか。そう、そなたの継母の弟だ。かわいらしい子だったから、私のそばで仕えさせて、いずれ内裏に見習いとして上げてやろう」
紀伊の守は恐縮して、
「大変ありがたい仰せでございます。継母にそのように伝えましょう」
と申し上げる。
女君の話が出たのでどきりとしながら、源氏の君はさりげなくお尋ねになった。
「継母に子どもはいるのか」
「おりません。もう結婚して二年になりますが、入内させたいという父親の考えに背いたことを継母は嘆いておりまして、それで夫婦仲がうまくいっていないようでございます」
「気の毒なことだ。娘時代は美しいと評判だったけれど。あの噂は本当だろうか」
「どうでしょう。不美人ではないと存じますが、はっきりと姿を見たことはもちろんございませんので」
五、六日して、紀伊の守は継母の弟を連れてきた。
繊細な美しさがあるわけではないけれど、貴族らしい育ちの良さそうな少年だった。小君と呼んで、親しげに話をなさる。小君は幼心に、
<なんと美しい方だろう。おそばでお仕えできてうれしい>
と思っている。
源氏の君は女君のことも詳しくお尋ねになった。
小君は答えられることはきちんとお返事して、その後はかしこまっている。言い出しにくく思いながらも、源氏の君は女君との関係を打ち明けなさった。もちろんご自分に都合のよいように、うまくお伝えになる。
<意外だけれど、おふたりはそんなご関係だったのか>
幼い小君は深くも考えないまま信じて、源氏の君からお手紙をお預かりした。
お手紙を受け取ると、女君はあきれて涙まで出てくる。幼い弟がどう思うか気まずい。顔を隠すようにお手紙を広げた。
お手紙はとても長い。最後に、
「もう一度あなたにお会いしたくて苦しんでおります。夢でもよいからと横になってみますが、苦しみのあまり眠ることもできないのです。この恋しさをどうやって慰めたらよいのでしょう」
と書かれていた。
見事すぎるご筆跡だけれど、涙で目がくもって読めない。また運命に翻弄されるのかとつらくて、女君は臥してしまった。
翌日、源氏の君は小君を呼び戻された。
小君は姉の部屋へ行って、
「源氏の君のお屋敷に上がりますから、お手紙のお返事をください」
と言う。
「『宛先をお間違えではございませんか』と申し上げなさい」
と答えると、小君は訳知り顔に微笑んだ。
「そんなはずはありません。源氏の君はきちんと事情をお話しくださったのです。どうしてそんなことを申し上げられましょうか」
女君はぞっとする。
<幼い弟にお手紙を持たせただけでなく、何もかも話してしまわれたのだ>
源氏の君のなさり方がつらくてならない。
「大人ぶったことを言うものではありません。それならもうお屋敷へは参らずともよい」
「お呼びになりましたのに、参らないわけにはいきません」
小君はそう言って出ていってしまった。どうやら紀伊の守が小君を左大臣邸まで連れていったみたい。この人はひそかに継母に興味をもっていて、継母の気を引くために小君をかわいがってやっている。
源氏の君は小君を近くにお呼びになった。
「昨日は一日中おまえが来るのを待っていたのだよ。会いたかったのは私だけか」
と冗談をおっしゃるので、小君は顔を赤くする。
「お返事はいただいてきたか」
小君は仕方なく正直にお話しした。
「頼りにならない使者だね。そんなことではいけないよ」
源氏の君はまた新しいお手紙をお渡しになる。
「おまえは知らないだろうが、姉君はご結婚前から私の恋人だったのだ。しかし私のような若造では不安に思ったのか、あんなつまらない年寄りと結婚してしまわれた。それで今も私を馬鹿にしていらっしゃる。せめておまえは私のそばにいておくれ。私を父と思えばよい。あの年寄りは老い先短いはずだ」
源氏の君がまことしやかにおっしゃると、
<なるほどそんなことがあったのか>
と小君は神妙にうなずく。素直なかわいらしい子だと源氏の君はおかしくお思いになる。
源氏の君は小君を連れて参内なさることもあった。
裁縫係に命じて、小君の着物を作っておやりになる。本当の父親になったつもりで世話していらっしゃった。
それからもお手紙は頻繁に届くけれど、女君はお返事を書かない。
<弟はまだ幼いから、うっかり手紙をなくして誰かに読まれてしまうかもしれない。ただでさえ落ちぶれた結婚をしたのに、浮気の噂まで立ってはつらい。どんなに優しいお手紙をいただいても、やはり源氏の君とは住む世界が違う>
自重しながらも、源氏の君の美しさを思い出すことはある。
<明け方のほのかな明るさで拝見したお姿は、本当に信じられないほどだった>
そしてすぐに、
<あぁ、いけない。今さらかわいらしいことを申し上げたところで、どうにもなりはしないのだから>
と思い直す。
源氏の君はずっと、女君のことを気の毒にも恋しくも思われていた。つらそうだった様子がまぶたから離れない。
<紀伊の守の屋敷にこっそり忍びこんでみようか。しかし人目が多いところだから、誰かに気づかれてしまうかもしれない。もし私たちの関係が知られたら、人妻のあの人にとってかわいそうなことになる>
と悩んでいらっしゃった。
<もう二度と会えないだろう。あれほど約束をしたのに、あの人はどう思っていることか>
申し訳なく思う一方で、
<とくに優れたところがあったわけではないが、感じのよい中流の女性だった。女遊びにふけっている男の言うことは本当だな>
と、先日の女性談義を思い出して納得なさる。
それからしばらくは左大臣邸でお暮らしになっている。
<あれきり連絡もできていない。きっと苦しんでいるだろう>
どうしてもあの女君のことが気になって、ついに紀伊の守をお呼びになった。
「先日の少年を私に預けてくれないか。そう、そなたの継母の弟だ。かわいらしい子だったから、私のそばで仕えさせて、いずれ内裏に見習いとして上げてやろう」
紀伊の守は恐縮して、
「大変ありがたい仰せでございます。継母にそのように伝えましょう」
と申し上げる。
女君の話が出たのでどきりとしながら、源氏の君はさりげなくお尋ねになった。
「継母に子どもはいるのか」
「おりません。もう結婚して二年になりますが、入内させたいという父親の考えに背いたことを継母は嘆いておりまして、それで夫婦仲がうまくいっていないようでございます」
「気の毒なことだ。娘時代は美しいと評判だったけれど。あの噂は本当だろうか」
「どうでしょう。不美人ではないと存じますが、はっきりと姿を見たことはもちろんございませんので」
五、六日して、紀伊の守は継母の弟を連れてきた。
繊細な美しさがあるわけではないけれど、貴族らしい育ちの良さそうな少年だった。小君と呼んで、親しげに話をなさる。小君は幼心に、
<なんと美しい方だろう。おそばでお仕えできてうれしい>
と思っている。
源氏の君は女君のことも詳しくお尋ねになった。
小君は答えられることはきちんとお返事して、その後はかしこまっている。言い出しにくく思いながらも、源氏の君は女君との関係を打ち明けなさった。もちろんご自分に都合のよいように、うまくお伝えになる。
<意外だけれど、おふたりはそんなご関係だったのか>
幼い小君は深くも考えないまま信じて、源氏の君からお手紙をお預かりした。
お手紙を受け取ると、女君はあきれて涙まで出てくる。幼い弟がどう思うか気まずい。顔を隠すようにお手紙を広げた。
お手紙はとても長い。最後に、
「もう一度あなたにお会いしたくて苦しんでおります。夢でもよいからと横になってみますが、苦しみのあまり眠ることもできないのです。この恋しさをどうやって慰めたらよいのでしょう」
と書かれていた。
見事すぎるご筆跡だけれど、涙で目がくもって読めない。また運命に翻弄されるのかとつらくて、女君は臥してしまった。
翌日、源氏の君は小君を呼び戻された。
小君は姉の部屋へ行って、
「源氏の君のお屋敷に上がりますから、お手紙のお返事をください」
と言う。
「『宛先をお間違えではございませんか』と申し上げなさい」
と答えると、小君は訳知り顔に微笑んだ。
「そんなはずはありません。源氏の君はきちんと事情をお話しくださったのです。どうしてそんなことを申し上げられましょうか」
女君はぞっとする。
<幼い弟にお手紙を持たせただけでなく、何もかも話してしまわれたのだ>
源氏の君のなさり方がつらくてならない。
「大人ぶったことを言うものではありません。それならもうお屋敷へは参らずともよい」
「お呼びになりましたのに、参らないわけにはいきません」
小君はそう言って出ていってしまった。どうやら紀伊の守が小君を左大臣邸まで連れていったみたい。この人はひそかに継母に興味をもっていて、継母の気を引くために小君をかわいがってやっている。
源氏の君は小君を近くにお呼びになった。
「昨日は一日中おまえが来るのを待っていたのだよ。会いたかったのは私だけか」
と冗談をおっしゃるので、小君は顔を赤くする。
「お返事はいただいてきたか」
小君は仕方なく正直にお話しした。
「頼りにならない使者だね。そんなことではいけないよ」
源氏の君はまた新しいお手紙をお渡しになる。
「おまえは知らないだろうが、姉君はご結婚前から私の恋人だったのだ。しかし私のような若造では不安に思ったのか、あんなつまらない年寄りと結婚してしまわれた。それで今も私を馬鹿にしていらっしゃる。せめておまえは私のそばにいておくれ。私を父と思えばよい。あの年寄りは老い先短いはずだ」
源氏の君がまことしやかにおっしゃると、
<なるほどそんなことがあったのか>
と小君は神妙にうなずく。素直なかわいらしい子だと源氏の君はおかしくお思いになる。
源氏の君は小君を連れて参内なさることもあった。
裁縫係に命じて、小君の着物を作っておやりになる。本当の父親になったつもりで世話していらっしゃった。
それからもお手紙は頻繁に届くけれど、女君はお返事を書かない。
<弟はまだ幼いから、うっかり手紙をなくして誰かに読まれてしまうかもしれない。ただでさえ落ちぶれた結婚をしたのに、浮気の噂まで立ってはつらい。どんなに優しいお手紙をいただいても、やはり源氏の君とは住む世界が違う>
自重しながらも、源氏の君の美しさを思い出すことはある。
<明け方のほのかな明るさで拝見したお姿は、本当に信じられないほどだった>
そしてすぐに、
<あぁ、いけない。今さらかわいらしいことを申し上げたところで、どうにもなりはしないのだから>
と思い直す。
源氏の君はずっと、女君のことを気の毒にも恋しくも思われていた。つらそうだった様子がまぶたから離れない。
<紀伊の守の屋敷にこっそり忍びこんでみようか。しかし人目が多いところだから、誰かに気づかれてしまうかもしれない。もし私たちの関係が知られたら、人妻のあの人にとってかわいそうなことになる>
と悩んでいらっしゃった。



