「眠れない。一人で寝るなんてつまらないではないか」
と寝返りを打っていらっしゃると、ご寝室の奥の部屋あたりから人の気配がしたの。
「紀伊の守の継母の女房だろうか」
と源氏の君は起きあがって聞き耳をお立てになった。
すると、
「姉上、どちらにおいでですか」
と呼びかける少年の声が聞こえたの。
先ほどお会いになった、継母の弟の声だった。
「ここよ。お客様はお休みになったの? あまりお近くで寝るのは気が引けたけれど、思ったより遠くにいらっしゃるのかしら」
寝ぼけたような女性の声がする。
源氏の君は継母の声だろうとお気づきになったわ。
弟が小さな声で答える。
「それほど遠くではありませんが、あちら側の縁側でお休みになりました。評判の美しいご様子を拝見できましたよ。すばらしいお美しさでした」
「私もこっそり物陰から拝見したかったわ。でももう夜も遅いですからね」
と眠そうに言って、寝具にもぐる音が聞こえる。
源氏の君は、
「それだけか。もっと詳しく話を聞こうとはしてくれないのか」
と残念にお思いになった。
弟は、
「僕はむこう側の縁側で寝ます。あぁ疲れた」
とだけ言うと、行ってしまったの。
継母は気づいていないけれど、今、源氏の君はすぐ近くにいらっしゃるのよ。
引き戸を一枚はさんだだけのところで息をひそめていらっしゃる。
何かを予感したのか、継母は女房を呼んだ。
「中将の君はどこ? 誰も近くにいないなんて心細いじゃないの」
女房たちは継母の弟の近くで寝ているらしくて、一人の女房が遠くからお返事をする。
「中将の君はお風呂にまいりました」
継母は諦めたのか、それから戸の向こうは静かになったわ。
源氏の君と継母をへだてている戸には、掛け金、つまり簡単な鍵のようなものがついていたの。
こちら側の掛け金はかけてあったから、継母の方からは戸を開けられない状態ね。
継母の方でも掛け金をかけているだろうと思われたけれど、源氏の君はご自分の方の掛け金を外してから戸を少し動かしてごらんになった。
なんということかしら、あちらからは掛け金をかけていなかったの。
源氏の君はそっと戸をお開けになった。
ついたてが置いてあるのが見える。
そのむこうに入っていくと小柄な女君がお一人で寝ていらっしゃるの。
脱いだ着物を掛け布団のようにして頭までかぶっておられる。
源氏の君はその着物を引き下げて、お顔をご覧になった。
女君はやっと女房が来たと勘違いなさっていたのだけれど、目をお開けになったら源氏の君がいらっしゃるのだもの。
声も出せないご様子だったわ。
「中将をお呼びになりましたか。私も中将ですよ」
源氏の君はほほえんでおっしゃった。
女君がお呼びになったのは「中将の君」という女房なのだけれど、このとき源氏の君も偶然「近衛中将」というお役職でいらっしゃったから、こんなご冗談をおっしゃったのね。
驚く女君に、
「人知れずあなたに片思いをしていたのです。中将を呼んでいただいて、思いが通じたようでうれしい」
とおささやきになる。
嘘よ?
紀伊の守の話を聞いて、急に「昔そんな女性の話を聞いたことがある」程度に思い出しただけ。
でも源氏の君はこういうとき、息をするように嘘をおつきになる。
女君はもう何が何だか分からない。
妖怪に襲われたようにおびえていらっしゃるの。
かろうじて、
「あ、あ」
とだけ声をお出しになったけれど、離れたところに寝ている女房たちには聞こえないわ。
「遊びのつもりではありません。私はもう何年もあなたに恋をしているのです。この気持ちをお伝えする機会を待っておりました。信じてくださいますか」
と優しくお口説きになる。
あまりに美しくお優しいご様子なので、女君は大声を上げられない。
ただ、人妻である自分がこんな目に遭ったことに困惑して、無茶をする源氏の君にあきれはてていらっしゃった。
「お人違いでございましょう」
と小さな震える声でおっしゃる。
女君はつらすぎて消えてしまいたいと思っているご様子なので、源氏の君は心苦しくおなりになった。
かわいそうに思われるけれど、それと同時にかわいらしいともお思いになる。
「人違いなどするはずがありません。どれほどあなたに恋焦がれていたか。話を聞いてくださるだけでよいのです。失礼なことはいたしませんから」
とおっしゃって、女君の小さな体を抱き上げてしまわれた。
源氏の君はそのままご自分のお部屋まで連れていこうとなさった。
そこへ女房が通りかかったの。
さっき女君が呼んでいた中将の君が、お風呂から戻ってきたのね。
源氏の君は思わず、
「あ」
と声を漏らされた。
暗いからお互いの姿ははっきりと見えない。
女房は男の声を不審に思って手を伸ばした。
その手が源氏の君のお着物に触れたとき、あたりにすばらしい匂いが漂ったの。
女房は不審な男の正体に気づいたわ。
「抱きかかえていらっしゃるのは奥様ね。なんて困ったことを」
と思ったけれど、相手が源氏の君では何も申し上げられない。
ふつうの人が相手なら、無理やり引き離して女主人を守ったでしょうけれどね。
その場合にしてもあまりに騒ぎたてたら別の問題が起きるわね。
とにかく女房は源氏の君のあとをついていくことにした。
源氏の君は平然となさっていたわ。
女君を抱きかかえたまま、ご自分の寝室の方に歩いていかれる。
開けたままにしていた戸のところで源氏の君は少しだけ後ろを振り返って、
「明け方に参れ」
と低い声でおっしゃった。
女房が呆然と見つめる先で、戸がぴしゃりと閉まったの。
女君は女房に見られてしまったことを恥じていらっしゃった。
流れるほどの汗をかいておられる。
源氏の君はその様子が愛おしくて、言葉を尽くして女君をおなぐさめになったわ。
いつもそうなの。
どこからそんな言葉が出てくるのかしらというほど、源氏の君は甘く優しく女性を口説かれる。
それでもこの女君は身を固くしたまま。
ようやく口を開いて、
「数にも入らない私ですが、このようなお扱いを受けるとは。ほんのお遊びでございましょう。私のような身分の者に、あなた様が本気になられるはずはありません」
とおっしゃった。
独身時代の自尊心は、つまらない老人の後妻になったことで粉々に砕けていたけれど、それ以外の恥はつくるまいと気をつけて生きてこられたのよ。
源氏の君は、
「身分だなんて。そんなものを気にする男と一緒にしないでください。普段の私は女性が嫌がることなどできないのです。でも今は、自分でも信じられないほど心が乱れています。あなたに何と責められても仕方がありませんね」
と、女君を思いやるようなことをおっしゃる。
そのご様子があまりに優雅なので、女君はますますご自分との差を感じてしまわれた。
「かわいげのない女だと思われてもよいから、このまま拒否しつづけよう」
と、源氏の君が何をおっしゃっても冷たくあしらってしまわれるの。
女君はもともと物腰の柔らかい人よ。
でも、そういう人が相手を拒否しようとしたときって、一番手強いのよね。
源氏の君も手を出しかねていらっしゃったけれど、
「しかしこれで引き下がるのも残念だ」
とお決めになった。
女君はなぐさめようもないほど傷ついてしまわれた。
「どうしてそんなに私をお嫌いになるのですか。こういう運命だったと思ってください。男を知らなかった乙女のように悲しまれては、こちらまでつらくなる」
とおっしゃる。
女君は、
「まだ落ちぶれていない独身時代であれば、このような関係でもささやかな期待や希望をもてましたでしょうに。人妻になってからお遊び相手にされてしまうとは。せめてどうか無かったことにしてくださいませ」
とおっしゃる。
お気の毒すぎるわ。
源氏の君はあれこれとなぐさめて、これはけっして遊びではないとお約束なさった。
夜明けの鶏が鳴いた。
源氏の君のお供が起き出して、
「あぁ、寝坊してしまった。乗り物をお出しせよ」
と言うのが聞こえたわ。
紀伊の守も出てきたようで、
「まだ明け方でございますから、もう少しごゆっくりなさっても」
などとお供に言っている。
源氏の君は、
「もうこのような機会はないだろう。この先ここに来ることも、あやしまれず手紙をやりとりすることも難しい」
とお思いになって胸を痛めていらっしゃる。
女房の中将の君が女君のお迎えに来て、一刻も早く女主人を連れ戻そうとしたわ。
源氏の君は一度は女君をお放しになったけれど、「やはりもうしばらく」と引きとめてしまわれた。
「どうやって手紙を送ったらよいだろう。あなたは冷淡だったけれど、これでおしまいにはしたくないのです」
と思わず涙をこぼされるご様子が本当にお美しいの。
鶏がさかんに鳴いて、屋敷のなかが慌ただしくなってきた。
源氏の君は人目につくことを心配なさりながら、
「あなたの冷淡さに恨み言を言う前に夜明けの鶏が鳴いてしまいました。もう帰らなければなりません」
とおっしゃった。
女君は明るくなりはじめた部屋で源氏の君のお姿をご覧になって、
「この方と私は住む世界が違う」
とはっきり確信なさった。
源氏の君がどんなことをおっしゃっても、もう何も聞こえてこない。
ただ、いつもは嫌っている年老いた夫がこのことを夢にでも見ていないだろうかと恐れていらっしゃった。
「鶏と一緒に私も泣いております。自分の境遇も、先ほど起きたことも悲しくて」
とだけおっしゃったわ。
空はみるみる明るくなっていく。
屋敷のなかも外も騒がしくなってきたわ。
もうこれ以上ご一緒にいらっしゃることはできない。
源氏の君は、昨夜掛け金を外した戸のところまで女君をお見送りになった。
ここでお別れよ。
女君が女房にせかされて出ていかれる。
戸が閉められて、むこう側から掛け金をかける音が聞こえた。
源氏の君は、たった一枚の戸をこれほど恨めしいと思われたことはなかったわ。
打ちひしがれたようなお気持ちのまま着替えをなさって、縁側の手すりにもたれていらっしゃる。
そのお姿を女房たちが屋敷のなかからそっと覗いているの。
女君と切ない別れをしたあとの物思いにふけるご様子は、美しいもの好きの女房たちにはたまらなかったでしょうね。
早朝の西の空に白い月が浮かんでいたわ。
空って見る人の気持ちしだいで表情を変えるけれど、源氏の君にはどんなふうに映ったのかしら。
お手紙を届ける方法さえ思い浮かばないことを悲しまれながら、源氏の君は乗り物にお乗りになった。
そして何度もふり返りながら屋敷を出ていかれたわ。
と寝返りを打っていらっしゃると、ご寝室の奥の部屋あたりから人の気配がしたの。
「紀伊の守の継母の女房だろうか」
と源氏の君は起きあがって聞き耳をお立てになった。
すると、
「姉上、どちらにおいでですか」
と呼びかける少年の声が聞こえたの。
先ほどお会いになった、継母の弟の声だった。
「ここよ。お客様はお休みになったの? あまりお近くで寝るのは気が引けたけれど、思ったより遠くにいらっしゃるのかしら」
寝ぼけたような女性の声がする。
源氏の君は継母の声だろうとお気づきになったわ。
弟が小さな声で答える。
「それほど遠くではありませんが、あちら側の縁側でお休みになりました。評判の美しいご様子を拝見できましたよ。すばらしいお美しさでした」
「私もこっそり物陰から拝見したかったわ。でももう夜も遅いですからね」
と眠そうに言って、寝具にもぐる音が聞こえる。
源氏の君は、
「それだけか。もっと詳しく話を聞こうとはしてくれないのか」
と残念にお思いになった。
弟は、
「僕はむこう側の縁側で寝ます。あぁ疲れた」
とだけ言うと、行ってしまったの。
継母は気づいていないけれど、今、源氏の君はすぐ近くにいらっしゃるのよ。
引き戸を一枚はさんだだけのところで息をひそめていらっしゃる。
何かを予感したのか、継母は女房を呼んだ。
「中将の君はどこ? 誰も近くにいないなんて心細いじゃないの」
女房たちは継母の弟の近くで寝ているらしくて、一人の女房が遠くからお返事をする。
「中将の君はお風呂にまいりました」
継母は諦めたのか、それから戸の向こうは静かになったわ。
源氏の君と継母をへだてている戸には、掛け金、つまり簡単な鍵のようなものがついていたの。
こちら側の掛け金はかけてあったから、継母の方からは戸を開けられない状態ね。
継母の方でも掛け金をかけているだろうと思われたけれど、源氏の君はご自分の方の掛け金を外してから戸を少し動かしてごらんになった。
なんということかしら、あちらからは掛け金をかけていなかったの。
源氏の君はそっと戸をお開けになった。
ついたてが置いてあるのが見える。
そのむこうに入っていくと小柄な女君がお一人で寝ていらっしゃるの。
脱いだ着物を掛け布団のようにして頭までかぶっておられる。
源氏の君はその着物を引き下げて、お顔をご覧になった。
女君はやっと女房が来たと勘違いなさっていたのだけれど、目をお開けになったら源氏の君がいらっしゃるのだもの。
声も出せないご様子だったわ。
「中将をお呼びになりましたか。私も中将ですよ」
源氏の君はほほえんでおっしゃった。
女君がお呼びになったのは「中将の君」という女房なのだけれど、このとき源氏の君も偶然「近衛中将」というお役職でいらっしゃったから、こんなご冗談をおっしゃったのね。
驚く女君に、
「人知れずあなたに片思いをしていたのです。中将を呼んでいただいて、思いが通じたようでうれしい」
とおささやきになる。
嘘よ?
紀伊の守の話を聞いて、急に「昔そんな女性の話を聞いたことがある」程度に思い出しただけ。
でも源氏の君はこういうとき、息をするように嘘をおつきになる。
女君はもう何が何だか分からない。
妖怪に襲われたようにおびえていらっしゃるの。
かろうじて、
「あ、あ」
とだけ声をお出しになったけれど、離れたところに寝ている女房たちには聞こえないわ。
「遊びのつもりではありません。私はもう何年もあなたに恋をしているのです。この気持ちをお伝えする機会を待っておりました。信じてくださいますか」
と優しくお口説きになる。
あまりに美しくお優しいご様子なので、女君は大声を上げられない。
ただ、人妻である自分がこんな目に遭ったことに困惑して、無茶をする源氏の君にあきれはてていらっしゃった。
「お人違いでございましょう」
と小さな震える声でおっしゃる。
女君はつらすぎて消えてしまいたいと思っているご様子なので、源氏の君は心苦しくおなりになった。
かわいそうに思われるけれど、それと同時にかわいらしいともお思いになる。
「人違いなどするはずがありません。どれほどあなたに恋焦がれていたか。話を聞いてくださるだけでよいのです。失礼なことはいたしませんから」
とおっしゃって、女君の小さな体を抱き上げてしまわれた。
源氏の君はそのままご自分のお部屋まで連れていこうとなさった。
そこへ女房が通りかかったの。
さっき女君が呼んでいた中将の君が、お風呂から戻ってきたのね。
源氏の君は思わず、
「あ」
と声を漏らされた。
暗いからお互いの姿ははっきりと見えない。
女房は男の声を不審に思って手を伸ばした。
その手が源氏の君のお着物に触れたとき、あたりにすばらしい匂いが漂ったの。
女房は不審な男の正体に気づいたわ。
「抱きかかえていらっしゃるのは奥様ね。なんて困ったことを」
と思ったけれど、相手が源氏の君では何も申し上げられない。
ふつうの人が相手なら、無理やり引き離して女主人を守ったでしょうけれどね。
その場合にしてもあまりに騒ぎたてたら別の問題が起きるわね。
とにかく女房は源氏の君のあとをついていくことにした。
源氏の君は平然となさっていたわ。
女君を抱きかかえたまま、ご自分の寝室の方に歩いていかれる。
開けたままにしていた戸のところで源氏の君は少しだけ後ろを振り返って、
「明け方に参れ」
と低い声でおっしゃった。
女房が呆然と見つめる先で、戸がぴしゃりと閉まったの。
女君は女房に見られてしまったことを恥じていらっしゃった。
流れるほどの汗をかいておられる。
源氏の君はその様子が愛おしくて、言葉を尽くして女君をおなぐさめになったわ。
いつもそうなの。
どこからそんな言葉が出てくるのかしらというほど、源氏の君は甘く優しく女性を口説かれる。
それでもこの女君は身を固くしたまま。
ようやく口を開いて、
「数にも入らない私ですが、このようなお扱いを受けるとは。ほんのお遊びでございましょう。私のような身分の者に、あなた様が本気になられるはずはありません」
とおっしゃった。
独身時代の自尊心は、つまらない老人の後妻になったことで粉々に砕けていたけれど、それ以外の恥はつくるまいと気をつけて生きてこられたのよ。
源氏の君は、
「身分だなんて。そんなものを気にする男と一緒にしないでください。普段の私は女性が嫌がることなどできないのです。でも今は、自分でも信じられないほど心が乱れています。あなたに何と責められても仕方がありませんね」
と、女君を思いやるようなことをおっしゃる。
そのご様子があまりに優雅なので、女君はますますご自分との差を感じてしまわれた。
「かわいげのない女だと思われてもよいから、このまま拒否しつづけよう」
と、源氏の君が何をおっしゃっても冷たくあしらってしまわれるの。
女君はもともと物腰の柔らかい人よ。
でも、そういう人が相手を拒否しようとしたときって、一番手強いのよね。
源氏の君も手を出しかねていらっしゃったけれど、
「しかしこれで引き下がるのも残念だ」
とお決めになった。
女君はなぐさめようもないほど傷ついてしまわれた。
「どうしてそんなに私をお嫌いになるのですか。こういう運命だったと思ってください。男を知らなかった乙女のように悲しまれては、こちらまでつらくなる」
とおっしゃる。
女君は、
「まだ落ちぶれていない独身時代であれば、このような関係でもささやかな期待や希望をもてましたでしょうに。人妻になってからお遊び相手にされてしまうとは。せめてどうか無かったことにしてくださいませ」
とおっしゃる。
お気の毒すぎるわ。
源氏の君はあれこれとなぐさめて、これはけっして遊びではないとお約束なさった。
夜明けの鶏が鳴いた。
源氏の君のお供が起き出して、
「あぁ、寝坊してしまった。乗り物をお出しせよ」
と言うのが聞こえたわ。
紀伊の守も出てきたようで、
「まだ明け方でございますから、もう少しごゆっくりなさっても」
などとお供に言っている。
源氏の君は、
「もうこのような機会はないだろう。この先ここに来ることも、あやしまれず手紙をやりとりすることも難しい」
とお思いになって胸を痛めていらっしゃる。
女房の中将の君が女君のお迎えに来て、一刻も早く女主人を連れ戻そうとしたわ。
源氏の君は一度は女君をお放しになったけれど、「やはりもうしばらく」と引きとめてしまわれた。
「どうやって手紙を送ったらよいだろう。あなたは冷淡だったけれど、これでおしまいにはしたくないのです」
と思わず涙をこぼされるご様子が本当にお美しいの。
鶏がさかんに鳴いて、屋敷のなかが慌ただしくなってきた。
源氏の君は人目につくことを心配なさりながら、
「あなたの冷淡さに恨み言を言う前に夜明けの鶏が鳴いてしまいました。もう帰らなければなりません」
とおっしゃった。
女君は明るくなりはじめた部屋で源氏の君のお姿をご覧になって、
「この方と私は住む世界が違う」
とはっきり確信なさった。
源氏の君がどんなことをおっしゃっても、もう何も聞こえてこない。
ただ、いつもは嫌っている年老いた夫がこのことを夢にでも見ていないだろうかと恐れていらっしゃった。
「鶏と一緒に私も泣いております。自分の境遇も、先ほど起きたことも悲しくて」
とだけおっしゃったわ。
空はみるみる明るくなっていく。
屋敷のなかも外も騒がしくなってきたわ。
もうこれ以上ご一緒にいらっしゃることはできない。
源氏の君は、昨夜掛け金を外した戸のところまで女君をお見送りになった。
ここでお別れよ。
女君が女房にせかされて出ていかれる。
戸が閉められて、むこう側から掛け金をかける音が聞こえた。
源氏の君は、たった一枚の戸をこれほど恨めしいと思われたことはなかったわ。
打ちひしがれたようなお気持ちのまま着替えをなさって、縁側の手すりにもたれていらっしゃる。
そのお姿を女房たちが屋敷のなかからそっと覗いているの。
女君と切ない別れをしたあとの物思いにふけるご様子は、美しいもの好きの女房たちにはたまらなかったでしょうね。
早朝の西の空に白い月が浮かんでいたわ。
空って見る人の気持ちしだいで表情を変えるけれど、源氏の君にはどんなふうに映ったのかしら。
お手紙を届ける方法さえ思い浮かばないことを悲しまれながら、源氏の君は乗り物にお乗りになった。
そして何度もふり返りながら屋敷を出ていかれたわ。



