野いちご源氏物語 〇二 帚木(ははきぎ)

<眠れない。ひとり寝なんてつまらないではないか>
 源氏の君が縁側で寝返りを打っていらっしゃると、ななめ奥の部屋から人の気配がした。
<やはり継母(ままはは)が残っているのだ>
 紀伊()(かみ)から気の毒な話を聞いたから、つい気になってしまわれる。起き上がって戸のそばまで行かれた。
姉君(あねぎみ)、どちらにおいでですか」
 かわいらしい少年の声が聞こえる。先ほどの継母の弟の声だった。
「ここですよ。お客様はお休みになったのかしら。あまり近くでは寝にくいと心配したけれど、意外と遠くにいらっしゃるようね」
 寝ぼけたような女性の声がする。少年の声とよく似ているから、これが紀伊の守の継母に違いない。

 少年が小声で答える。
「それほど遠くではありませんが、客室前の縁側(えんがわ)でお休みになりました。評判のお姿を拝見しましたよ。すばらしいお美しさでした」
「あら、そう。昼間なら私も物陰(ものかげ)から拝見するのだけれど」
 眠そうに言って、布団(ふとん)代わりの着物にもぐる音が聞こえた。
<それだけか。もっと詳しく話を聞こうとはしてくれないのか>
 源氏の君は残念にお思いになる。
「僕は向こうの縁側で寝ます。あぁ、疲れた」
 少年は反対側の縁側に行ってしまったみたい。

 源氏の君と継母の間には、引き戸が一枚あるだけ。継母は何かを感じたのか女房を呼んだ。
中将(ちゅうじょう)(きみ)はどこ。誰も近くにいないから、なんだか恐ろしいわ」
 遠くから返事が聞こえてくる。
「中将の君はお風呂ですが、『すぐに戻ります』とのことでございます」
 継母は(あきら)めたようで、それから戸の向こうは静かになった。

 この引き戸には()(がね)がついている。こちら側の掛け金はかけてあるから、継母の方からは戸を開けられない。
<当然向こう側もかけてあるだろう>
 と思いながらも、源氏の君はご自分の方の掛け金を外して、戸を少し動かしてごらんになった。
 なんということかしら、あちらは掛け金をかけていなかったの。

 源氏の君はそっと戸をお開けになった。
 すぐについたてが置いてある。その向こうの灯りは薄暗くて、収納箱のような物がいくつも置かれている。
 足元に気をつけて進んでいくと、小柄(こがら)女君(おんなぎみ)がひとりで寝ていた。脱いだ着物を頭までかぶっている。
 源氏の君がそれを引き下げなさるまで、女君は女房が入ってきたと思い込んでいた。でも、目を開けたら見知らぬ男性がいるのだもの。声も出せない。

中将(ちゅうじょう)をお呼びになりましたか。私も中将ですよ」
 源氏の君は微笑(ほほえ)んでおっしゃった。
 先ほど女君が呼んだのは中将の君という女房なのだけれど、このとき源氏の君も近衛(このえの)中将(ちゅうじょう)という官職だった。それでこんな冗談(じょうだん)をおっしゃる。
 茫然(ぼうぜん)とする女君に、
「人知れずあなたをお(した)いしていたのです。中将をお呼びになったから、思いが通じたようでうれしくて」
 とささやかれる。

 「お慕いしていた」なんてもちろん(うそ)
 紀伊()(かみ)の話を聞いて、「昔評判(ひょうばん)の姫君だったな」と思い出されただけ。源氏の君はこういうとき、息をするように嘘をおつきになる。
 女君はもう何が何だか分からない。妖怪(ようかい)(おそ)われたようにおびえている。
「あ、あ」
 と息が()れるけれど、顔にかかった着物のせいで声にならない。
「突然のことで驚かれたでしょう。しかし私は、ずっと前からあなたに恋をしていたのです。気持ちをお伝えする機会を待っておりました。ほんの気まぐれだとは思わないでください」
 あまりに優美なご様子なので、女君は大声を上げられない。ただ、人妻(ひとづま)の自分がこんな目に()ったことがつらい。あるまじきことだと不快に思う。
「お人違いでございましょう」
 きっぱり言ったつもりだったけれど、声は小さくかすれていた。

 消えてしまいたいと(ふる)えている様子が、源氏の君には心苦しくもかわいらしくもある。
「人違いなどするはずもないほど恋焦(こいこ)がれておりますのに、あなたははぐらかそうとなさるのですね。失礼なことはいたしません。話を聞いてくださるだけでよいのです」
 小柄な女君なので、さっと抱き上げてしまわれる。
 先ほどの引き戸から出ようとなさると、ちょうどお風呂に行っていた中将の君が戻ってきた。
 源氏の君は思わず、
「あ」
 と、お声を()らされる。

 暗いからお互いの姿ははっきりと見えない。中将の君は男の声を不審(ふしん)に思って、そろりそろりと近づいてくる。
 部屋にはすばらしい(にお)いが(ただよ)っている。中将の君は男の正体(しょうたい)に気づいた。
<抱きかかえていらっしゃるのは奥様ね。なんて困ったことを>
 かといって相手が源氏の君では何も申し上げられない。
 ふつうの人が相手なら、無理やり引き離して(おんな)主人(しゅじん)を守ったはず。その場合にしても、あまり騒ぎたてたら別の問題が起きるけれど。

 とにかく中将の君は源氏の君のあとをついていくことにした。
 源氏の君は平然としていらっしゃる。女君を抱きかかえたまま、ご自分の寝室の方に歩いていかれる。
 寝室にお入りになると、部屋の戸は中将の君の鼻先でぴしゃりと閉めきられた。
「明け方にお迎えにまいれ」
 戸の向こうから源氏の君のお声が聞こえた。

 女君は女房に見られてしまったことを死ぬほど恥じている。汗を流してぐったりしているのがかわいそうだけれど、源氏の君は言葉を()くしてお口説きになる。
 いつもこうなの。どこからそんな言葉が出てくるのかというほど。
 それでもこの女君は体を固くしたまま、ようやく口を開いて反論した。
「信じられません。たしかに身分の低い私ですが、こんな扱いを受けてどうして本気の恋だと思えましょう。身分には垣根(かきね)というものがあるのです。あなた様のような方が、身分の低い女にむやみに近づかれてはいけません」

「その身分の垣根というものを私はまだ知らない。それほど純情なのに、世間の浮気男と同列になさるなんて。あなたもお聞きになったことがあるでしょう。普段の私は女性が嫌がることなどできません。でも今はあなたから軽蔑(けいべつ)されても仕方がないほど強引なことをしている。自分でも不思議なのです」
 誠実そうにかき口説かれるけれど、そのご様子があまりに美しい。女君はますます格の違いを感じた。
<かわいげのない女だと思われてもよいから、はっきりと拒否しつづけよう>
 源氏の君が何をおっしゃっても冷たくあしらう。

 女君はもともと優しい性格だった。そういう人が無理に意地を張ると手強(てごわ)い。柔らかい竹のようで、簡単に折ってしまうことができない。
 女君は弱々しく泣いている。気の毒だけれど、
<しかしこれで引き下がるのも残念だ>
 と源氏の君はお決めになった。

 女君は(なぐさ)めようもないほど傷ついてしまった。
「どうしてそんなに私をお嫌いになるのですか。思いがけず始まった関係こそ、運命的だと思われませんか。生娘(きむすめ)のように悲しまれてはつらい」
「まだ落ちぶれていない(むすめ)時代でしたら、身の程知らずな期待や希望を持てましたでしょう。しかし私はもう人妻です。一夜の遊び相手にされて心が乱れきっております。せめてどうか無かったことにしてくださいませ」
 苦しんでいるのももっともなので、源氏の君はこれはけっして遊びではないとお約束なさった。

 夜明けの(とり)が鳴いた。
 源氏の君のお(とも)たちが起きてきて、
「あぁ、すっかり寝坊してしまった。乗り物をお出しせよ」
 と指示する声が聞こえる。そこへ紀伊の守もやって来たらしく、
「まだ明け方でございますから、もう少しごゆっくりなさっても」
 などとお供に言っている。
 源氏の君は、
<もうこのような機会はないだろう。この先ここに来ることも、(あや)しまれず手紙をやりとりすることも難しい>
 とお胸を痛めていらっしゃった。

 昨夜源氏の君から命じられたとおり、女房の中将の君がお迎えに上がった。一刻(いっこく)も早く女主人を連れ戻そうとする。
 源氏の君は一度は女君をお放しになったけれど、また引きとめておっしゃる。
「どうやって手紙を送ったらよいでしょう。あなたは冷淡(れいたん)だったけれど、これでおしまいにはしたくないのです」
 涙をこぼすお姿が美しい。

 鶏がさかんに鳴いて、屋敷のなかが(あわ)ただしくなってきた。
 源氏の君は人目(ひとめ)につくことを心配なさる。
(うら)(ごと)を言い終える前に鶏が鳴いてしまいました。もう帰らなければいけません」
 女君は地方長官の妻という自分の境遇(きょうぐう)を思うと、源氏の君の隣がふさわしいはずもなく、まばゆさばかりを感じる。
 源氏の君がどれほど優しくしてくださっても心は動かない。むしろ、普段は嫌っている老いた夫のことを思い出して、このことを夢に見ていたらどうしようかと恐れている。
「我が身の不幸を一晩中嘆きましたが、今はまた鶏と一緒に泣いております」
 とお返事した。

 空はみるみる明るくなっていく。
 源氏の君は、昨夜掛け金を外した戸のところまで女君をお見送りなさった。
 屋敷の中も外も(さわ)がしくなってきたから、女房が別れを()かす。源氏の君は心細くて、(へだ)ての戸を恨めしくご覧になった。

 着替えをすると濡れ縁に出て、手すりにもたれながらぼんやりとなさる。
 そのお姿を女君の女房たちが部屋の中から(のぞ)いている。美しいもの好きの女房たちにはたまらなかったでしょうね。
 月は有明の月で、もう光はないけれど空に白く浮かんでいる。風情のある明け方だった。空は見る人の気持ちしだいで印象が変わる。女房たちがうっとり(なが)める今朝の空も、源氏の君には寒々しい。
 乗り物にお乗りになったけれど、
<手紙を届ける方法さえないのに>
 とお胸が痛む。振りかえりがちにご出発なさった。