日も暮れてきたころよ。
女房の一人が、
「源氏の君は内裏からこちらにいらっしゃいましたでしょう。方角占いでは、今日はこちらのお屋敷の方角は縁起が悪うございます。お泊まりになることはできません」
と申し上げたの。
源氏の君は、
「そうだった。二条の院——桐壺の更衣様のご実家に行こうか。あぁ、あそこも内裏から見たらここと同じ方角だから泊まれないか。どこに泊まったらいいだろう。もう面倒だな」
とおっしゃって、ご寝室に入ってしまおうとなさる。
女房たちは、
「縁起が悪うございますよ。いけません」
とお止めしていたわ。
するとある女房が、
「紀伊の守の屋敷はいかがでございましょう。左大臣様のお役に立とうと、よくこちらに参っている者でございます。屋敷の近くの川から庭に水を引きこんで、涼しい工夫がしてあるようでございますよ」
と申し上げた。
源氏の君は、
「それがよい。疲れているから、乗り物に乗ったまま楽に入れるように手配せよ」
とおっしゃった。
本当はね、他にいくらでも行き先はあったのよ。
方角が悪くない恋人の家に移動してお泊まりになることもできたの。
でも、ひさしぶりに内裏から左大臣邸にいらっしゃったというのに、占いのせいで泊まりもしないで他の女の家に行かれたとあっては、左大臣様がお悲しみになるでしょう。
それで気を遣われたのね。
源氏の君のご希望を伝えると、紀伊の守は恐縮しながら承知したわ。
でも、
「私の継母が女房たちを連れて泊まりにきております。狭い家でございますので、失礼なことが起きてしまわないかどうか」
と心配していた。
源氏の君はその話を女房からお聞きになって、
「それはよいことを聞いた。女の匂いもしないような部屋で寝たくはない。ついたての向こうに誰かがいるくらいがよい」
とおっしゃる。
女房は、
「それならばよいお泊まり先でございましょう」
と苦笑いしていたわ。
まぁね、源氏の君だもの。
大人しくお泊まりになるだけのはずはないわ。
源氏の君はこっそりと出発された。
「一晩泊まるだけで、どうせ明日には戻ってくるのだから」
と左大臣様にごあいさつもなさらず、お供もたくさんはお連れにならなかった。
紀伊の守は、
「お早いご到着だ」
と慌てたけれど、どうしようもない。
一番よいお部屋を源氏の君のご寝室として整えさせたわ。
近くの川から水を引きこんだという庭には、人工の小川がよい雰囲気につくってある。
わざと田舎風の庭にして、花壇もよく手入れがされていた。
夜風が涼しく吹いて虫の音がほのかに聞こえ、蛍があちこちに飛んでいるのよ。
すてきじゃない?
渡り廊下のようなところにおもてなしの席が用意されていたわ。
庭の池を背に源氏の君はお座りになって、お酒を召し上がる。
紀伊の守は忙しそうに働いていた。
源氏の君はのんびりと屋敷の様子をお眺めになりながら、
「あの雨の夜に頭中将たちが言っていた中流の家とは、このくらいの家のことだろうか」
とお思いになっていたの。
そして、
「紀伊の守の継母が泊まりにきていると言っていたな。その人の噂は聞いたことがある。たしか独身時代は、自尊心の強い美しい女性だと評判だった」
とそわそわなさっていたわ。
耳をおすましになると、それほど遠くはないところに継母の女房たちの気配がする。
着物の音と、かわいらしい若い声が聞こえた。
笑い声を抑えようとする様子から、
「私が来ていることをあちらも意識しているようだ」
と源氏の君はほほえまれた。
気配のする方へ行ってみようとなさったけれど、紀伊の守が女房たちを注意して戸を閉めてしまったの。
灯りが少しだけ漏れている。
源氏の君はそっと近づいて、戸の向こうの様子をうかがっていらっしゃった。
女房たちのささやき声が聞こえる。
「ずいぶん真面目そうになさっているわね。まだお若いのにご立派な奥様がいらっしゃるなんてつまらない。でも、ひそかにあちこちの女性を恋人にしていらっしゃるみたいよ」
それをお聞きになった源氏の君は、
「まさかあのことを知っているのでは」
と息をのまれた。
女房たちは噂話を続ける。
「源氏の君は、あの皇族の姫君にお手紙をお送りになったのですって。朝顔の花が添えてあったらしいわ。そこに書かれていた和歌はね……」
と、以前源氏の君が女性に送った和歌を、ところどころ間違えながら披露する。
源氏の君は安心して、小さくため息をおつきになった。
「万が一にもあのことが世間に漏れて、こんなふうに噂になってしまったら」
と想像してぞっとなさる。
結局、女房たちの噂話は気になさるほどの内容ではなくて、
「こんな女房たちに世話をされている女性では、継母もたいした人ではないだろう」
とお思いになったようね。
お部屋に戻られると、紀伊の守が灯りの調節をして軽いお食事を差し上げたわ。
紀伊の守には、自分の子どもたちの他に、まだ小さい弟たちも何人かいた。
どの子もかわいらしいのだけれど、ひときわ美しい十二、三歳の男の子がいる。
源氏の君が、
「この子は誰の子だ」
とお尋ねになると、紀伊の守は、
「私の継母の弟でございます。父親を亡くしたため、姉である継母が引き取ったのです。なかなかよくできた子なので内裏で見習いとして働かせたいと思っておりますが、後見する親がいなくては難しいようでございます」
とお答えする。
源氏の君は、
「それは気の毒なことだ。この子の父親は亡くなる前、娘を内裏に上げたいと申していただろう。結局うやむやになってしまったと帝が仰せだったが、そなたの継母になっていたとは。まだそのような年齢ではあるまい。世の中とは分からぬものだな」
と、大人びたことをおっしゃったわ。
紀伊の守は、
「内裏に上がるはずだったのが、突然父の後妻などになってしまったのでございます。世の中とは昔から本当によく分からないものですが、特に女性は翻弄されて気の毒なことも多いようでございます」
と申し上げた。
「そなたの父はさぞかし大切にしているであろう。まるで妻を主人と思って仕えているのではないか」
とお尋ねになると、
「おっしゃるとおりでございます。若い後妻に夢中になっているのがあまりに見苦しくて、私どもも困っております」
と申し上げる。
「年齢ではそなたの方が釣り合うくらいだろうが、そなたの父は男ぶりがよいからね。譲る気はあるまい」
と源氏の君はお笑いになった。
紀伊の守の父は、年をとってはいるけれど堂々とした色気のある人なのよ。
「今夜はどのあたりにいるのだ」
さりげなくお尋ねになる。
「継母もその女房たちもそろって別の建物に移ったはずでございますが、何人かはこちらに残っているかもしれません」
とお答えする。
源氏の君のお供たちは、お酒に酔って寝息を立てはじめていたわ。
源氏の君は紀伊の守に、ご寝室に女性を参らせるよう遠回しにお命じになった。
紀伊の守はご命令に気づいたのか気づかなかったのか、はっきりとしたお返事は申し上げない。
おそらく気づかないふりを決めこんでいたわね。
源氏の君は仕方なくご寝室の前の縁側で横になられた。
女房の一人が、
「源氏の君は内裏からこちらにいらっしゃいましたでしょう。方角占いでは、今日はこちらのお屋敷の方角は縁起が悪うございます。お泊まりになることはできません」
と申し上げたの。
源氏の君は、
「そうだった。二条の院——桐壺の更衣様のご実家に行こうか。あぁ、あそこも内裏から見たらここと同じ方角だから泊まれないか。どこに泊まったらいいだろう。もう面倒だな」
とおっしゃって、ご寝室に入ってしまおうとなさる。
女房たちは、
「縁起が悪うございますよ。いけません」
とお止めしていたわ。
するとある女房が、
「紀伊の守の屋敷はいかがでございましょう。左大臣様のお役に立とうと、よくこちらに参っている者でございます。屋敷の近くの川から庭に水を引きこんで、涼しい工夫がしてあるようでございますよ」
と申し上げた。
源氏の君は、
「それがよい。疲れているから、乗り物に乗ったまま楽に入れるように手配せよ」
とおっしゃった。
本当はね、他にいくらでも行き先はあったのよ。
方角が悪くない恋人の家に移動してお泊まりになることもできたの。
でも、ひさしぶりに内裏から左大臣邸にいらっしゃったというのに、占いのせいで泊まりもしないで他の女の家に行かれたとあっては、左大臣様がお悲しみになるでしょう。
それで気を遣われたのね。
源氏の君のご希望を伝えると、紀伊の守は恐縮しながら承知したわ。
でも、
「私の継母が女房たちを連れて泊まりにきております。狭い家でございますので、失礼なことが起きてしまわないかどうか」
と心配していた。
源氏の君はその話を女房からお聞きになって、
「それはよいことを聞いた。女の匂いもしないような部屋で寝たくはない。ついたての向こうに誰かがいるくらいがよい」
とおっしゃる。
女房は、
「それならばよいお泊まり先でございましょう」
と苦笑いしていたわ。
まぁね、源氏の君だもの。
大人しくお泊まりになるだけのはずはないわ。
源氏の君はこっそりと出発された。
「一晩泊まるだけで、どうせ明日には戻ってくるのだから」
と左大臣様にごあいさつもなさらず、お供もたくさんはお連れにならなかった。
紀伊の守は、
「お早いご到着だ」
と慌てたけれど、どうしようもない。
一番よいお部屋を源氏の君のご寝室として整えさせたわ。
近くの川から水を引きこんだという庭には、人工の小川がよい雰囲気につくってある。
わざと田舎風の庭にして、花壇もよく手入れがされていた。
夜風が涼しく吹いて虫の音がほのかに聞こえ、蛍があちこちに飛んでいるのよ。
すてきじゃない?
渡り廊下のようなところにおもてなしの席が用意されていたわ。
庭の池を背に源氏の君はお座りになって、お酒を召し上がる。
紀伊の守は忙しそうに働いていた。
源氏の君はのんびりと屋敷の様子をお眺めになりながら、
「あの雨の夜に頭中将たちが言っていた中流の家とは、このくらいの家のことだろうか」
とお思いになっていたの。
そして、
「紀伊の守の継母が泊まりにきていると言っていたな。その人の噂は聞いたことがある。たしか独身時代は、自尊心の強い美しい女性だと評判だった」
とそわそわなさっていたわ。
耳をおすましになると、それほど遠くはないところに継母の女房たちの気配がする。
着物の音と、かわいらしい若い声が聞こえた。
笑い声を抑えようとする様子から、
「私が来ていることをあちらも意識しているようだ」
と源氏の君はほほえまれた。
気配のする方へ行ってみようとなさったけれど、紀伊の守が女房たちを注意して戸を閉めてしまったの。
灯りが少しだけ漏れている。
源氏の君はそっと近づいて、戸の向こうの様子をうかがっていらっしゃった。
女房たちのささやき声が聞こえる。
「ずいぶん真面目そうになさっているわね。まだお若いのにご立派な奥様がいらっしゃるなんてつまらない。でも、ひそかにあちこちの女性を恋人にしていらっしゃるみたいよ」
それをお聞きになった源氏の君は、
「まさかあのことを知っているのでは」
と息をのまれた。
女房たちは噂話を続ける。
「源氏の君は、あの皇族の姫君にお手紙をお送りになったのですって。朝顔の花が添えてあったらしいわ。そこに書かれていた和歌はね……」
と、以前源氏の君が女性に送った和歌を、ところどころ間違えながら披露する。
源氏の君は安心して、小さくため息をおつきになった。
「万が一にもあのことが世間に漏れて、こんなふうに噂になってしまったら」
と想像してぞっとなさる。
結局、女房たちの噂話は気になさるほどの内容ではなくて、
「こんな女房たちに世話をされている女性では、継母もたいした人ではないだろう」
とお思いになったようね。
お部屋に戻られると、紀伊の守が灯りの調節をして軽いお食事を差し上げたわ。
紀伊の守には、自分の子どもたちの他に、まだ小さい弟たちも何人かいた。
どの子もかわいらしいのだけれど、ひときわ美しい十二、三歳の男の子がいる。
源氏の君が、
「この子は誰の子だ」
とお尋ねになると、紀伊の守は、
「私の継母の弟でございます。父親を亡くしたため、姉である継母が引き取ったのです。なかなかよくできた子なので内裏で見習いとして働かせたいと思っておりますが、後見する親がいなくては難しいようでございます」
とお答えする。
源氏の君は、
「それは気の毒なことだ。この子の父親は亡くなる前、娘を内裏に上げたいと申していただろう。結局うやむやになってしまったと帝が仰せだったが、そなたの継母になっていたとは。まだそのような年齢ではあるまい。世の中とは分からぬものだな」
と、大人びたことをおっしゃったわ。
紀伊の守は、
「内裏に上がるはずだったのが、突然父の後妻などになってしまったのでございます。世の中とは昔から本当によく分からないものですが、特に女性は翻弄されて気の毒なことも多いようでございます」
と申し上げた。
「そなたの父はさぞかし大切にしているであろう。まるで妻を主人と思って仕えているのではないか」
とお尋ねになると、
「おっしゃるとおりでございます。若い後妻に夢中になっているのがあまりに見苦しくて、私どもも困っております」
と申し上げる。
「年齢ではそなたの方が釣り合うくらいだろうが、そなたの父は男ぶりがよいからね。譲る気はあるまい」
と源氏の君はお笑いになった。
紀伊の守の父は、年をとってはいるけれど堂々とした色気のある人なのよ。
「今夜はどのあたりにいるのだ」
さりげなくお尋ねになる。
「継母もその女房たちもそろって別の建物に移ったはずでございますが、何人かはこちらに残っているかもしれません」
とお答えする。
源氏の君のお供たちは、お酒に酔って寝息を立てはじめていたわ。
源氏の君は紀伊の守に、ご寝室に女性を参らせるよう遠回しにお命じになった。
紀伊の守はご命令に気づいたのか気づかなかったのか、はっきりとしたお返事は申し上げない。
おそらく気づかないふりを決めこんでいたわね。
源氏の君は仕方なくご寝室の前の縁側で横になられた。



