周先生といっしょに『氷雪大世界』へ行ってから、十日後に、元宵節がやってきました。春節のあと最初に訪れる満月の日が元宵節です。小正月とも呼ばれていて、人々はこの日を境に新たな気持ちで年明けの活動を始めていきます。元宵節が過ぎたら学校も始まり、教師や学生たちは新学期を迎えます。元宵節の日には、玄関の前に提灯をさげたり、川に灯篭船を浮かべたり、公園で獅子舞いや龍踊りが行われたりします。元宵団子を食べながら月見をするという習慣も中国各地で広く根づいています。元宵団子は団子を鍋に入れて蒸して食べるし、形が満月のように丸いので『湯円』とも呼ばれています。満月を眺めながら、家族みんなで元宵団子を食べることは家庭円満を表す習慣となっています。元宵団子はスーパーでも売ってあるので、かおりは1パック買ってきて、窓から降り注ぐ満月の光を見ながら食べていました。月は中国の人にとって美しさと純潔を象徴するものであり、自分の心を月に例えて詩を詠んだり、歌を歌ったりすることもよくあります。
月を見ているときに、『月亮代表我的心(月は私の心を表す)』や、『但愿人长久(ただひたすら長寿を願う)』という歌が、かおりの脳裏に、ふっと浮かびました。どちらの曲にも、月に託して自分の気持ちを伝える深い思いが感動的に描かれているので、かおりが大好きな曲です。『月亮代表我的心』には好きな人に寄せる女性の一途な愛が描かれています。『但愿人长久』には月を見ながら長寿を願う気持ちが切々と描かれていて、静かで柔らかな雰囲気が漂っています。陽と陰の対照的な曲ですが、月に満ち欠けがあるように、人の一生にも喜びと悲しみがあります。だからこそ人は月を見ると、自分の人生を重ね合わせて深い思いになるのだと、かおりは思いました。今宵、元宵節の夜に、かおりは窓から射し込んでくる月明りに照らされながら、ハープで『月亮代表我的心』と、『但愿人长久』を心をこめて弾きながら深い思いに浸っていました。
月はその美しさゆえに、故事や物語にも象徴的によく描かれています。日本では『竹取物語』に出てくる、かぐや姫の物語がよく知られていますが、中国では、月に住んでいると言われている『嫦娥(じょうが)』の物語がよく知られています。かおりは『嫦娥(じょうが)』の絵本を持っていたので、絵本を見ながらロマンチックな気分に浸りながら、中国の人たちの月に寄せる思いに胸の思いをはせていました。中国の人たちは中秋節だけでなく、元宵節のときもお月見をするので、月に寄せる思いは、日本人よりも中国人のほうが強いのかなあと、かおりは思いました。元宵節のことを日本では小正月と呼んで、小豆粥(あずきがゆ)を食べたりお正月飾りを焚くという習慣がありますが、中国にはそのような習慣はないので、かおりは小豆粥を食べたり、お正月飾りを焚くことはしませんでした。
元宵節を過ぎると、キャンパスのなかに、学生たちの姿が再び見られるようになってきました。先生方も帰省先から戻ってこられて、かおりに故郷のお土産をくださったり、楽しかった春節のことを話してくださいました。かおりも先生方や学生たちに『氷雪大世界』に行って楽しかったことを話したり、氷像や雪像の写真を見せたりしていました。
新学期が始まると、かおりはまたいつものように多忙な日々を送っていました。ハルピンの春はまだ浅くて、吹く風は冷たいのですが、それでも確実に春が近づいているのは確かなので、積もっている雪のなかから草木が目覚めていく、かすかな音が聞こえてきたように、かおりは思いました。
三月のなかばごろ、長春の王艶さんからメールが来ました。
「来月の清明節のときに、お時間があられたら、遊びにいらっしゃいませんか」
メールにはそのように書かれていました。
清明節といったら、春節、端午節、中秋節とならんで、中国の四大祝日の一つだと言われています。四月三日から四月五日までの三日間が清明節で、この期間にご先祖様のお墓参りに行く習慣があります。日本でいえば、お盆か、お彼岸のようなものです。行く時季が日本とは違うし、習慣も違うようなので、清明節がどのようなものなのか、かおりは知りたいと思いました。
「いいですよ。父を育ててくださった養父母のお墓にもう一度お参りにうかがいます」
かおりは、そう返信しました。
三月も下旬になると、ハルピンもようやく少し春の息吹が感じられるようになってきました。一日の平均気温が-5度くらいまで上がってきたからです。『冰城(氷の町)』と呼ばれているハルピンに遅い春が訪れるのはもうすぐです。期待に胸を膨らませながら、かおりは毎日、仕事に励んでいました。
四月四日に、かおりは長春に行きました。朝の十時ごろ高速鉄道の駅に着くと、王艶さんが出迎えにきてくださっていました。お礼を言ってから、バスで王艶さんのうちまで行きました。ジャスミン茶とお菓子をいただいて、ひと休みしてから、近くの小高い丘の上にあるご先祖様のお墓参りに出かけることにしました。
「お墓参りに行くときは、お墓の周りを掃除したり、線香や花を手向けるだけでなく、食べ物や飲み物もお供えしてご先祖様といっしょにいただいたりするの」
王艶さんがそうおっしゃいました。
「へぇー、そうなんだ」
日本にはない習慣を知って、かおりは、興味深そうな顔をしていました。
「どんなものをお供えするのですか」
かおりは好奇心に駆り立てられていました。
「肉、豆腐、ご飯、お茶、お酒、ヨモギ餅などをお供えするわ。食べ物や飲み物だけでなく、紙幣に似せて作った『纸钱』もお供えするわ。ご先祖様がお金に困らないようにするためよ」
「へえ、そうなのですか。ご先祖様は過去の人ではなくて、今も身近にいらっしゃって、いつもご家族を守っていてくださるのですね。ご先祖様を大切になさる気持ちが中国の方はとても強いのですね。日本では食べ物や飲み物やお金をお墓にお供えしたり、お墓の前でお供え物をいただく習慣はありません」
「そうですか。中華民族である私たちは、ご先祖様を敬う気持ちが大和民族よりも強いのでしょうか」
王艶さんがそうおっしゃいました。
お墓参りに出かける前に王艶さんが、お墓に持っていくものの割り当てを、ご家族の一人ひとりに指示しておられました。その指示に従って、ご家族一人ひとりが持ち物を分担してリュックに入れておられました。かおりも何か持っていきたいと申し出て、線香とろうそくと香斗(線香を立てるのに用いる木箱)を預かりました。王艶さんがそのあと、みんなに、柳の枝で作った丸い輪を渡して頭に載せるようにおっしゃいました。
「清明節にはこれを載せてお墓参りに行く習慣があるのよ。柳は、春の早い時季から青々とした芽が芽吹いてくるので、柳を頭に載せることで柳から元気をもらい、長く健康で生きられて、終生幸福でいられるといういわれがあるの」
王艶さんがそうおっしゃいました。
「へえ、そうなんですか」
「柳の枝を頭の上に載せていかないと、病気になったり、貧困になったり、早く老いたりすると言われているわ」
王艶さんの話を、かおりは興味深そうに聞いていました。
「柳のたくましい生命力から生きる力をもらって元気に生きていこうという願いが、この飾りにはこめられているのですね」
かおりは、受け取った柳の飾りを頭に載せると、そう言いました。
「そうよ。そのとおりよ」
王艶さんがそう、おっしゃいました。
それからまもなく、かおりは王艶さんのご家族といっしょにうちを出て、近くにある小高いお墓の上にあるご先祖様を祀ってあるお墓に向かいました。
歩いて十分ほどのところにお墓はありました。お墓に着くと、かおりは預かってきた線香とろうそくと香斗を袋のなかから取り出してお墓の前に置きました。王艶さんや、ご主人や、ご両親はお墓の前にある円卓の上に食べ物を並べました。娘の小静ちゃんはお墓の前に『纸钱』を供えました。そのあとお墓の周りの草を抜いたり、盛り土をしたり、墓石に水をかけてお墓を清めました。それから線香やろうそくに火をつけて、みんなで礼拝をしました。日本では礼拝のときは手を合わせてお祈りすることが一般的ですが、中国では手は合わせないで、墓石の前にひざまずいて、お辞儀を3回することが一般的です。かおりは日本式の礼拝をしました。そのほうが慣れていたし、中国式の礼拝には何となく違和感を感じて、うまくできなかったからです。
「おじい様、おばあ様、私の父を救って大切に育ててくださってありがとうございました。ご恩は一生忘れません」
かおりは手に数珠をかけて拝みながら、誠心誠意、感謝の気持ちを伝えました。
礼拝を終えたあと、王艶さんが
「さあ、これからみんなでご先祖様といっしょにお供え物をいただきましょう」と、おっしゃって円卓の上にテーブルクロスを敷きました。そのあとみんなで輪になって、お供えしたものをいただいたり、『纸钱』を焚いたりしました。三十分ほどお墓の前にいて楽しく語らったり、ご先祖様の思い出に花を咲かせてから、お墓をあとにしました。
「佐倉さんが来てくださったので、おじいさんもおばあさんも、きっと喜んでくれていると思うわ。今日は本当にありがとう」
王艶さんがそう、おっしゃってくださったので、かおりはうれしくなりました。「明日は踏青に出かけて、野原で凧揚げをしたり、大地に木を植えたりする予定よ。これも清明節によく行われる習慣なの」
と、王艶さんがおっしゃいました。
「踏青って何ですか」
かおりは、けげんに思って、聞き返しました。
「青々とした草を踏みながら郊外を散策することよ」王艶さんが教えてくださいました。
清明節は日本のお盆やお彼岸に相当する行事ですが、日本にはない習慣や風習があることを知って、かおりは来てよかったと思いました。
それからまもなく、かおりは王艶さんたちとの別れを惜しみながら、長春の駅に向かうバスに乗って帰途に就きました。
それから二週間ほどたった四月の半ばに、学校の外事局の陳麗紅さんから声をかけられました。
「佐倉先生、来月一日の労働節のときに、虎頭という町で『抗日戦争勝利七十周年記念式典』が開かれるので、それに参加していただけないでしょうか」
陳さんがそうおっしゃいました。唐突なことだったので、かおりはびっくりしました。
(日本と戦って勝利を収めたことを記念する式典に、どうして日本人の私が参加しなければならないのだろう)
飛んで火に入る夏の虫のように思えたので、すぐには「はい」とは言えませんでした。でも中国人の先生がいっしょに行ってくださることになったので、かおりは渋々思い腰を上げることにしました。
韓国人の留学生一人と、陳さんも参加することになり、四月三十日の夜、総勢四人で夜行列車に乗って、黒竜江省の東端にある虎頭へ向かいました。
虎頭はロシアとの国境地帯にある小さな町で、ウスリー川を隔てて、川向こうはロシアという地理的位置にあります。虎頭にはかつて日本人が築いた堅固な要塞があってロシアに、にらみを利かせるための軍事基地が置かれていました。一九四五年八月九日に川を渡って虎頭に出兵してきたロシアと激しく交戦して壊滅状態に陥り、八月二十六日に陥落して戦争が終結しました。第二次世界大戦の最後の戦いが行われた町、そこが虎頭でした。
当時の面影がしのばれるような要塞跡や、大砲の発射台や、戦闘機の模型を見たり、貴重な資料が展示されている博物館のなかを見学したりしているうちに、複雑な思いに駆られて、胸のなかが締めつけられるようでした。終戦を知らされずに、十日以上も戦い続けて命を落とした日本人やロシア人もかわいそうですが、要塞を築くために過酷な労働を強いられ、犠牲になった中国人が一万二千人以上もいたということを知って、かおりは中国の方々に対して申し訳ない思いを切に感じました。
見学を終えてから、記念式典が行われている会場に着いたとき、来賓席には、ロシア人のご高齢の男性が十人ほど座っていらっしゃいました。どの方も胸に立派な勲章を下げていらっしゃったので、目を引きました。日本の軍国主義と戦って、優れた功績をあげた退役軍人の方だということが、一目瞭然でした。まばゆいほどの勇姿に圧倒されたかおりは、場違いのところに来てしまったように思えて、彼らの隣に、同じ来賓として列席することに気詰まりを感じていました。
式典の途中で、司会者からステージに上がるように言われたので、かおりが指示に従うと、ステージの上で、一人ひとりが紹介されていきました。ステージの上で浄水をひしゃくで汲んで、びんのなかに入れたり、ロシア人や中国人や韓国人と、かたい握手を交わして、不戦の誓いを立てたりしました。参列者のなかに日本人は、かおり一人でしたから、かおりは四面楚歌を感じましたが、衆人環視のなかで、神妙な顔をしながら一連の儀式につつましく参加させていただきました。
ステージの上で司会者からインタビューを受けて、
「今日はどういうお気持ちで、ご出席なさいましたか」
と、聞かれました。
「中国の方々に日本人がひどく残忍なことをしたことに、心がとても痛むので、申し訳ないという思いで出席させていただきました」
厳粛な面持ちで、かおりは、そう答えました。それを聞いて、会場のなかから拍手が起きました。
かおりは戦後生まれですから、戦争の残酷さや悲惨さは自らの体験としては感じることができません。しかし父親が中国残留孤児として中国人の養父母に育てられていたので、中国には子どものころから親しみを感じていました。これまで三年間、中国の大学や高校で日本語を教えてきたし、どこに行っても温かく迎えてもらえたので、中国の方々に深い愛情も抱いていました。それらのことを拙いながらも、中国語で一生懸命に、式典に参加しておられた方々にマイクで話しました。言葉がうまく出てこないときは、いっしょに来てくださった中国人の先生に通訳をしていただきながら話しました。かおりがインタビューを受けている場面はテレビでも放映されました。
式典の途中で祝砲が鳴り、それを合図に数百羽の白い鳩が一斉に放たれて、空高く舞っていきました。式典の参加者全員に、風船とTシャツが渡されたので、司会者の指示に従って、風船を一斉に空に飛ばしたり、そろいのTシャツを着て、平和の歌を合唱して、祝賀ムードを盛り上げていきました。風船にもTシャツにも「抗日戦争勝利七十周年記念」と書かれていたので、複雑な思いがしましたが、ほかの参加者に歩調を合わせて、かおりも指示に従いました。
式典の参加者は、そのあと、そろいのTシャツを着たまま、会場の外に出て、プラカードを持ったり、シュプレヒコールを上げながら、町のなかを練り歩きました。
プラカードには尖閣諸島の領有化の問題で、日本を非難する檄文(げきぶん)が書かれていました。かおりも平和行進に参加しましたが、周囲の人から何か言われるのではないかと思って、心中、穏やかではありませんでした。しかし四面楚歌のなか、一人で式典に参加した日本人を糾弾すべきではないという配慮を感じて、何も言われずにすんだので、かおりは、ほっとしていました。
「中国人が避難の矛先を向けているのは、日本政府であって、けっして文化人には向けていません。あなたは政治家ではなくて教師ですから大丈夫ですよ」
中国人の先生が、そうおっしゃいました。
平和行進を終えて、式典が行われた会場へ戻ってきたとき、ご年配の女の方が、かおりの方に近づいてこられました。その方のお父様が、虎頭に要塞を築くための労働に動員されていて、要塞の完成を祝って要塞のなかで酒盛りをしているさなかに銃殺されたそうです。
「悲しみは一生忘れることはできません。しかしいつまでも日本人を恨み続けることはやめることにしました。今は中国と日本の友好関係が発展することを心から望んでいます」
その方が、そうおっしゃったので、かおりは心にじんときました。
会場には中国残留日本人孤児と、幼なじみだったという方も来ておられました。「今は日本に帰国されましたが、その人と今も時々、連絡を取り合っています。いつか機会があったら日本に会いに行きたいです」
その方が、そうおっしゃいました。
その方がご自宅に誘ってくださったので、かおりたちは虎林という町についていきました。その方のご自宅に着くと、幼なじみの日本人の写真や、日本から届いた手紙を見せてくださったり、手作りの料理でもてなしてくださいました。
戦後七十年以上がたちましたが、戦時中に受けた中国人の悲しみや苦しみは、けっして心のなかから永遠に忘れ去られることはないだろうと思います。しかし中国の方々の多くは、そのことには、なるべく目をつむって、今の中国と日本の関係がよくなることを心から望んでおられることを、式典に参加して、かおりは、つくづくと感じました。中国の方々のそういった願いをくんで、自分にできることを通して、日中友好のために貢献していかなければならないという思いをあらたにしながら、かおりは帰途に就きました。
かおりが具体的に今、考えていることは、かつて中国残留日本人孤児と呼ばれて今は日本に帰国しておられる方々を精神的に支援したり、自分のような孤児二世や、孤児三世と、中国の人たちを結びつけるためのNPO法人を作ることです。帰国された人たちのなかには日本社会にうまく溶け込めなかったり、日本語でのコミュニケーションがうまく取れないで、孤独な高齢期を過ごしておられる方が多いと、かおりは聞いたことがありました。帰国された方のなかには、かつて中国で『小日本鬼子』と呼ばれて、いじめられた体験がある人がたくさんいらっしゃいます。辛い日々に長く耐えてきて、戦後三十年以上たってようやく帰国できた日本でも言葉の壁に直面してなかなか仕事に就けなくて、老後の生活資金が少ない方が多いです。その方たちの心のよりどころになればと思ってかおりはNPO法人を作ることを思い立ちました。孤児二世や孤児三世は日本社会への適応力もできているし、日本語も中国語も問題ない人が多いので、彼らを仲立ちにして帰国された方々の幸せな老後支援のためにボランティアとして働いてもらおうと思っていました。肉親が不明だったために日本に帰国できないまま今も中国で暮らしておられる方もいらっしゃいます。マスコミでは最近、残留孤児の問題を取り上げることは、ほとんどありませんが、もし彼らのなかに故国日本で、老後を送りたいと思っておられる方がいらっしゃるようでしたら、願いの実現に向けての努力をNPO活動の一環としておこなっていきたいとも思っていました。戦争を知らない二世、三世の人たちと、中国の若い人たちとの交流もおこなっていきたいと思っていました。
個人的には、中国で自由に活動ができる永住ビザが取れたらいいなと、かおりは思っていました。かおりは今、就労ビザで働いているので、雇用先との契約期間が切れたら日本に必ず帰国しなければなりません。そのために契約期間が切れる前に、新しい雇用先を探して、もし見つかったら、いったん帰国して、煩雑な手続きをしてから中国に戻ってこなければなりません。永住ビザの資格が取れたら、帰国する必要がなくなります。日本に帰国しても待っている人はいないし、日本で就職活動をしても、これまでのように誰からも採用されないのは分かっているし、これからも中国で働くつもりなので、永住ビザが取れたらいいなと、かおりは思っていました。永住ビザを取るための方法にはいくつかあることが分かりました。そのなかでも一番手っ取り早いのは中国人と婚姻関係を結ぶことです。そう思ったとき、かおりの心に、ふっと周先生のことが思い浮かびました。周先生のことをフィアンセとして意識したことは、これまで一度もなかったのですが、永住ビザを取りたいと思ったときに、ふっと彼のことを思ったので、自分でもおかしくなって苦笑いしました。周先生と婚姻関係を結ぶか、結ばないかは、これからの成り行きに任せるとして、いつかまた周先生とお会いして、いっしょに歌を作ったり、合奏したりして、楽しいひとときが過ごせたらいいなあと、かおりは思っていました。
アラフォーになって、中国へ来たかおりは、日本にいるころは見えなかった明るい将来の展望が見えてきたように感じていました。かおりが、もし中国に行けなかったら、社会から必要とされている喜びや、認められている幸福感を感じることなく一生を無為に終わっていたと思います。大学で教鞭を執るという、かおりにとっては夢のような仕事も経験できなかったはずです。
日本にいたころ、就職できなかったかおりは周囲から辛辣なことばかり言われていました。いつも冷たい視線を浴びせられて、辛くて、生きることにすっかり自信を失っていました。母以外の誰からも必要とされなかったし、母がいなくなったあと孤立無援の状態に陥って深い海の底に沈んでいました。そのとき、中国がかおりに救いの手を差し伸べてくれました。尖閣諸島の領有化の問題をめぐって日本と中国の政治状況が緊迫するなか、かおりは意を決して中国に行きました。そしてそこから道が開けてきました。中国はまばゆいほどの光をかおりに与えてくれました。そして温かくて幸せな気持ちにしてくれました。ストレスがたまり、疲れていたかおりの心を中国は大陸性のおおらかさで優しく包んでくれました。差し伸べてくれた救いの手は限りなく優しくて慈愛に満ちていました。そのことに感謝するとともに、どんなに辛くても生きてさえいれば、いつかは人生が開けていくと、かおりは今、切に感じていました。
月を見ているときに、『月亮代表我的心(月は私の心を表す)』や、『但愿人长久(ただひたすら長寿を願う)』という歌が、かおりの脳裏に、ふっと浮かびました。どちらの曲にも、月に託して自分の気持ちを伝える深い思いが感動的に描かれているので、かおりが大好きな曲です。『月亮代表我的心』には好きな人に寄せる女性の一途な愛が描かれています。『但愿人长久』には月を見ながら長寿を願う気持ちが切々と描かれていて、静かで柔らかな雰囲気が漂っています。陽と陰の対照的な曲ですが、月に満ち欠けがあるように、人の一生にも喜びと悲しみがあります。だからこそ人は月を見ると、自分の人生を重ね合わせて深い思いになるのだと、かおりは思いました。今宵、元宵節の夜に、かおりは窓から射し込んでくる月明りに照らされながら、ハープで『月亮代表我的心』と、『但愿人长久』を心をこめて弾きながら深い思いに浸っていました。
月はその美しさゆえに、故事や物語にも象徴的によく描かれています。日本では『竹取物語』に出てくる、かぐや姫の物語がよく知られていますが、中国では、月に住んでいると言われている『嫦娥(じょうが)』の物語がよく知られています。かおりは『嫦娥(じょうが)』の絵本を持っていたので、絵本を見ながらロマンチックな気分に浸りながら、中国の人たちの月に寄せる思いに胸の思いをはせていました。中国の人たちは中秋節だけでなく、元宵節のときもお月見をするので、月に寄せる思いは、日本人よりも中国人のほうが強いのかなあと、かおりは思いました。元宵節のことを日本では小正月と呼んで、小豆粥(あずきがゆ)を食べたりお正月飾りを焚くという習慣がありますが、中国にはそのような習慣はないので、かおりは小豆粥を食べたり、お正月飾りを焚くことはしませんでした。
元宵節を過ぎると、キャンパスのなかに、学生たちの姿が再び見られるようになってきました。先生方も帰省先から戻ってこられて、かおりに故郷のお土産をくださったり、楽しかった春節のことを話してくださいました。かおりも先生方や学生たちに『氷雪大世界』に行って楽しかったことを話したり、氷像や雪像の写真を見せたりしていました。
新学期が始まると、かおりはまたいつものように多忙な日々を送っていました。ハルピンの春はまだ浅くて、吹く風は冷たいのですが、それでも確実に春が近づいているのは確かなので、積もっている雪のなかから草木が目覚めていく、かすかな音が聞こえてきたように、かおりは思いました。
三月のなかばごろ、長春の王艶さんからメールが来ました。
「来月の清明節のときに、お時間があられたら、遊びにいらっしゃいませんか」
メールにはそのように書かれていました。
清明節といったら、春節、端午節、中秋節とならんで、中国の四大祝日の一つだと言われています。四月三日から四月五日までの三日間が清明節で、この期間にご先祖様のお墓参りに行く習慣があります。日本でいえば、お盆か、お彼岸のようなものです。行く時季が日本とは違うし、習慣も違うようなので、清明節がどのようなものなのか、かおりは知りたいと思いました。
「いいですよ。父を育ててくださった養父母のお墓にもう一度お参りにうかがいます」
かおりは、そう返信しました。
三月も下旬になると、ハルピンもようやく少し春の息吹が感じられるようになってきました。一日の平均気温が-5度くらいまで上がってきたからです。『冰城(氷の町)』と呼ばれているハルピンに遅い春が訪れるのはもうすぐです。期待に胸を膨らませながら、かおりは毎日、仕事に励んでいました。
四月四日に、かおりは長春に行きました。朝の十時ごろ高速鉄道の駅に着くと、王艶さんが出迎えにきてくださっていました。お礼を言ってから、バスで王艶さんのうちまで行きました。ジャスミン茶とお菓子をいただいて、ひと休みしてから、近くの小高い丘の上にあるご先祖様のお墓参りに出かけることにしました。
「お墓参りに行くときは、お墓の周りを掃除したり、線香や花を手向けるだけでなく、食べ物や飲み物もお供えしてご先祖様といっしょにいただいたりするの」
王艶さんがそうおっしゃいました。
「へぇー、そうなんだ」
日本にはない習慣を知って、かおりは、興味深そうな顔をしていました。
「どんなものをお供えするのですか」
かおりは好奇心に駆り立てられていました。
「肉、豆腐、ご飯、お茶、お酒、ヨモギ餅などをお供えするわ。食べ物や飲み物だけでなく、紙幣に似せて作った『纸钱』もお供えするわ。ご先祖様がお金に困らないようにするためよ」
「へえ、そうなのですか。ご先祖様は過去の人ではなくて、今も身近にいらっしゃって、いつもご家族を守っていてくださるのですね。ご先祖様を大切になさる気持ちが中国の方はとても強いのですね。日本では食べ物や飲み物やお金をお墓にお供えしたり、お墓の前でお供え物をいただく習慣はありません」
「そうですか。中華民族である私たちは、ご先祖様を敬う気持ちが大和民族よりも強いのでしょうか」
王艶さんがそうおっしゃいました。
お墓参りに出かける前に王艶さんが、お墓に持っていくものの割り当てを、ご家族の一人ひとりに指示しておられました。その指示に従って、ご家族一人ひとりが持ち物を分担してリュックに入れておられました。かおりも何か持っていきたいと申し出て、線香とろうそくと香斗(線香を立てるのに用いる木箱)を預かりました。王艶さんがそのあと、みんなに、柳の枝で作った丸い輪を渡して頭に載せるようにおっしゃいました。
「清明節にはこれを載せてお墓参りに行く習慣があるのよ。柳は、春の早い時季から青々とした芽が芽吹いてくるので、柳を頭に載せることで柳から元気をもらい、長く健康で生きられて、終生幸福でいられるといういわれがあるの」
王艶さんがそうおっしゃいました。
「へえ、そうなんですか」
「柳の枝を頭の上に載せていかないと、病気になったり、貧困になったり、早く老いたりすると言われているわ」
王艶さんの話を、かおりは興味深そうに聞いていました。
「柳のたくましい生命力から生きる力をもらって元気に生きていこうという願いが、この飾りにはこめられているのですね」
かおりは、受け取った柳の飾りを頭に載せると、そう言いました。
「そうよ。そのとおりよ」
王艶さんがそう、おっしゃいました。
それからまもなく、かおりは王艶さんのご家族といっしょにうちを出て、近くにある小高いお墓の上にあるご先祖様を祀ってあるお墓に向かいました。
歩いて十分ほどのところにお墓はありました。お墓に着くと、かおりは預かってきた線香とろうそくと香斗を袋のなかから取り出してお墓の前に置きました。王艶さんや、ご主人や、ご両親はお墓の前にある円卓の上に食べ物を並べました。娘の小静ちゃんはお墓の前に『纸钱』を供えました。そのあとお墓の周りの草を抜いたり、盛り土をしたり、墓石に水をかけてお墓を清めました。それから線香やろうそくに火をつけて、みんなで礼拝をしました。日本では礼拝のときは手を合わせてお祈りすることが一般的ですが、中国では手は合わせないで、墓石の前にひざまずいて、お辞儀を3回することが一般的です。かおりは日本式の礼拝をしました。そのほうが慣れていたし、中国式の礼拝には何となく違和感を感じて、うまくできなかったからです。
「おじい様、おばあ様、私の父を救って大切に育ててくださってありがとうございました。ご恩は一生忘れません」
かおりは手に数珠をかけて拝みながら、誠心誠意、感謝の気持ちを伝えました。
礼拝を終えたあと、王艶さんが
「さあ、これからみんなでご先祖様といっしょにお供え物をいただきましょう」と、おっしゃって円卓の上にテーブルクロスを敷きました。そのあとみんなで輪になって、お供えしたものをいただいたり、『纸钱』を焚いたりしました。三十分ほどお墓の前にいて楽しく語らったり、ご先祖様の思い出に花を咲かせてから、お墓をあとにしました。
「佐倉さんが来てくださったので、おじいさんもおばあさんも、きっと喜んでくれていると思うわ。今日は本当にありがとう」
王艶さんがそう、おっしゃってくださったので、かおりはうれしくなりました。「明日は踏青に出かけて、野原で凧揚げをしたり、大地に木を植えたりする予定よ。これも清明節によく行われる習慣なの」
と、王艶さんがおっしゃいました。
「踏青って何ですか」
かおりは、けげんに思って、聞き返しました。
「青々とした草を踏みながら郊外を散策することよ」王艶さんが教えてくださいました。
清明節は日本のお盆やお彼岸に相当する行事ですが、日本にはない習慣や風習があることを知って、かおりは来てよかったと思いました。
それからまもなく、かおりは王艶さんたちとの別れを惜しみながら、長春の駅に向かうバスに乗って帰途に就きました。
それから二週間ほどたった四月の半ばに、学校の外事局の陳麗紅さんから声をかけられました。
「佐倉先生、来月一日の労働節のときに、虎頭という町で『抗日戦争勝利七十周年記念式典』が開かれるので、それに参加していただけないでしょうか」
陳さんがそうおっしゃいました。唐突なことだったので、かおりはびっくりしました。
(日本と戦って勝利を収めたことを記念する式典に、どうして日本人の私が参加しなければならないのだろう)
飛んで火に入る夏の虫のように思えたので、すぐには「はい」とは言えませんでした。でも中国人の先生がいっしょに行ってくださることになったので、かおりは渋々思い腰を上げることにしました。
韓国人の留学生一人と、陳さんも参加することになり、四月三十日の夜、総勢四人で夜行列車に乗って、黒竜江省の東端にある虎頭へ向かいました。
虎頭はロシアとの国境地帯にある小さな町で、ウスリー川を隔てて、川向こうはロシアという地理的位置にあります。虎頭にはかつて日本人が築いた堅固な要塞があってロシアに、にらみを利かせるための軍事基地が置かれていました。一九四五年八月九日に川を渡って虎頭に出兵してきたロシアと激しく交戦して壊滅状態に陥り、八月二十六日に陥落して戦争が終結しました。第二次世界大戦の最後の戦いが行われた町、そこが虎頭でした。
当時の面影がしのばれるような要塞跡や、大砲の発射台や、戦闘機の模型を見たり、貴重な資料が展示されている博物館のなかを見学したりしているうちに、複雑な思いに駆られて、胸のなかが締めつけられるようでした。終戦を知らされずに、十日以上も戦い続けて命を落とした日本人やロシア人もかわいそうですが、要塞を築くために過酷な労働を強いられ、犠牲になった中国人が一万二千人以上もいたということを知って、かおりは中国の方々に対して申し訳ない思いを切に感じました。
見学を終えてから、記念式典が行われている会場に着いたとき、来賓席には、ロシア人のご高齢の男性が十人ほど座っていらっしゃいました。どの方も胸に立派な勲章を下げていらっしゃったので、目を引きました。日本の軍国主義と戦って、優れた功績をあげた退役軍人の方だということが、一目瞭然でした。まばゆいほどの勇姿に圧倒されたかおりは、場違いのところに来てしまったように思えて、彼らの隣に、同じ来賓として列席することに気詰まりを感じていました。
式典の途中で、司会者からステージに上がるように言われたので、かおりが指示に従うと、ステージの上で、一人ひとりが紹介されていきました。ステージの上で浄水をひしゃくで汲んで、びんのなかに入れたり、ロシア人や中国人や韓国人と、かたい握手を交わして、不戦の誓いを立てたりしました。参列者のなかに日本人は、かおり一人でしたから、かおりは四面楚歌を感じましたが、衆人環視のなかで、神妙な顔をしながら一連の儀式につつましく参加させていただきました。
ステージの上で司会者からインタビューを受けて、
「今日はどういうお気持ちで、ご出席なさいましたか」
と、聞かれました。
「中国の方々に日本人がひどく残忍なことをしたことに、心がとても痛むので、申し訳ないという思いで出席させていただきました」
厳粛な面持ちで、かおりは、そう答えました。それを聞いて、会場のなかから拍手が起きました。
かおりは戦後生まれですから、戦争の残酷さや悲惨さは自らの体験としては感じることができません。しかし父親が中国残留孤児として中国人の養父母に育てられていたので、中国には子どものころから親しみを感じていました。これまで三年間、中国の大学や高校で日本語を教えてきたし、どこに行っても温かく迎えてもらえたので、中国の方々に深い愛情も抱いていました。それらのことを拙いながらも、中国語で一生懸命に、式典に参加しておられた方々にマイクで話しました。言葉がうまく出てこないときは、いっしょに来てくださった中国人の先生に通訳をしていただきながら話しました。かおりがインタビューを受けている場面はテレビでも放映されました。
式典の途中で祝砲が鳴り、それを合図に数百羽の白い鳩が一斉に放たれて、空高く舞っていきました。式典の参加者全員に、風船とTシャツが渡されたので、司会者の指示に従って、風船を一斉に空に飛ばしたり、そろいのTシャツを着て、平和の歌を合唱して、祝賀ムードを盛り上げていきました。風船にもTシャツにも「抗日戦争勝利七十周年記念」と書かれていたので、複雑な思いがしましたが、ほかの参加者に歩調を合わせて、かおりも指示に従いました。
式典の参加者は、そのあと、そろいのTシャツを着たまま、会場の外に出て、プラカードを持ったり、シュプレヒコールを上げながら、町のなかを練り歩きました。
プラカードには尖閣諸島の領有化の問題で、日本を非難する檄文(げきぶん)が書かれていました。かおりも平和行進に参加しましたが、周囲の人から何か言われるのではないかと思って、心中、穏やかではありませんでした。しかし四面楚歌のなか、一人で式典に参加した日本人を糾弾すべきではないという配慮を感じて、何も言われずにすんだので、かおりは、ほっとしていました。
「中国人が避難の矛先を向けているのは、日本政府であって、けっして文化人には向けていません。あなたは政治家ではなくて教師ですから大丈夫ですよ」
中国人の先生が、そうおっしゃいました。
平和行進を終えて、式典が行われた会場へ戻ってきたとき、ご年配の女の方が、かおりの方に近づいてこられました。その方のお父様が、虎頭に要塞を築くための労働に動員されていて、要塞の完成を祝って要塞のなかで酒盛りをしているさなかに銃殺されたそうです。
「悲しみは一生忘れることはできません。しかしいつまでも日本人を恨み続けることはやめることにしました。今は中国と日本の友好関係が発展することを心から望んでいます」
その方が、そうおっしゃったので、かおりは心にじんときました。
会場には中国残留日本人孤児と、幼なじみだったという方も来ておられました。「今は日本に帰国されましたが、その人と今も時々、連絡を取り合っています。いつか機会があったら日本に会いに行きたいです」
その方が、そうおっしゃいました。
その方がご自宅に誘ってくださったので、かおりたちは虎林という町についていきました。その方のご自宅に着くと、幼なじみの日本人の写真や、日本から届いた手紙を見せてくださったり、手作りの料理でもてなしてくださいました。
戦後七十年以上がたちましたが、戦時中に受けた中国人の悲しみや苦しみは、けっして心のなかから永遠に忘れ去られることはないだろうと思います。しかし中国の方々の多くは、そのことには、なるべく目をつむって、今の中国と日本の関係がよくなることを心から望んでおられることを、式典に参加して、かおりは、つくづくと感じました。中国の方々のそういった願いをくんで、自分にできることを通して、日中友好のために貢献していかなければならないという思いをあらたにしながら、かおりは帰途に就きました。
かおりが具体的に今、考えていることは、かつて中国残留日本人孤児と呼ばれて今は日本に帰国しておられる方々を精神的に支援したり、自分のような孤児二世や、孤児三世と、中国の人たちを結びつけるためのNPO法人を作ることです。帰国された人たちのなかには日本社会にうまく溶け込めなかったり、日本語でのコミュニケーションがうまく取れないで、孤独な高齢期を過ごしておられる方が多いと、かおりは聞いたことがありました。帰国された方のなかには、かつて中国で『小日本鬼子』と呼ばれて、いじめられた体験がある人がたくさんいらっしゃいます。辛い日々に長く耐えてきて、戦後三十年以上たってようやく帰国できた日本でも言葉の壁に直面してなかなか仕事に就けなくて、老後の生活資金が少ない方が多いです。その方たちの心のよりどころになればと思ってかおりはNPO法人を作ることを思い立ちました。孤児二世や孤児三世は日本社会への適応力もできているし、日本語も中国語も問題ない人が多いので、彼らを仲立ちにして帰国された方々の幸せな老後支援のためにボランティアとして働いてもらおうと思っていました。肉親が不明だったために日本に帰国できないまま今も中国で暮らしておられる方もいらっしゃいます。マスコミでは最近、残留孤児の問題を取り上げることは、ほとんどありませんが、もし彼らのなかに故国日本で、老後を送りたいと思っておられる方がいらっしゃるようでしたら、願いの実現に向けての努力をNPO活動の一環としておこなっていきたいとも思っていました。戦争を知らない二世、三世の人たちと、中国の若い人たちとの交流もおこなっていきたいと思っていました。
個人的には、中国で自由に活動ができる永住ビザが取れたらいいなと、かおりは思っていました。かおりは今、就労ビザで働いているので、雇用先との契約期間が切れたら日本に必ず帰国しなければなりません。そのために契約期間が切れる前に、新しい雇用先を探して、もし見つかったら、いったん帰国して、煩雑な手続きをしてから中国に戻ってこなければなりません。永住ビザの資格が取れたら、帰国する必要がなくなります。日本に帰国しても待っている人はいないし、日本で就職活動をしても、これまでのように誰からも採用されないのは分かっているし、これからも中国で働くつもりなので、永住ビザが取れたらいいなと、かおりは思っていました。永住ビザを取るための方法にはいくつかあることが分かりました。そのなかでも一番手っ取り早いのは中国人と婚姻関係を結ぶことです。そう思ったとき、かおりの心に、ふっと周先生のことが思い浮かびました。周先生のことをフィアンセとして意識したことは、これまで一度もなかったのですが、永住ビザを取りたいと思ったときに、ふっと彼のことを思ったので、自分でもおかしくなって苦笑いしました。周先生と婚姻関係を結ぶか、結ばないかは、これからの成り行きに任せるとして、いつかまた周先生とお会いして、いっしょに歌を作ったり、合奏したりして、楽しいひとときが過ごせたらいいなあと、かおりは思っていました。
アラフォーになって、中国へ来たかおりは、日本にいるころは見えなかった明るい将来の展望が見えてきたように感じていました。かおりが、もし中国に行けなかったら、社会から必要とされている喜びや、認められている幸福感を感じることなく一生を無為に終わっていたと思います。大学で教鞭を執るという、かおりにとっては夢のような仕事も経験できなかったはずです。
日本にいたころ、就職できなかったかおりは周囲から辛辣なことばかり言われていました。いつも冷たい視線を浴びせられて、辛くて、生きることにすっかり自信を失っていました。母以外の誰からも必要とされなかったし、母がいなくなったあと孤立無援の状態に陥って深い海の底に沈んでいました。そのとき、中国がかおりに救いの手を差し伸べてくれました。尖閣諸島の領有化の問題をめぐって日本と中国の政治状況が緊迫するなか、かおりは意を決して中国に行きました。そしてそこから道が開けてきました。中国はまばゆいほどの光をかおりに与えてくれました。そして温かくて幸せな気持ちにしてくれました。ストレスがたまり、疲れていたかおりの心を中国は大陸性のおおらかさで優しく包んでくれました。差し伸べてくれた救いの手は限りなく優しくて慈愛に満ちていました。そのことに感謝するとともに、どんなに辛くても生きてさえいれば、いつかは人生が開けていくと、かおりは今、切に感じていました。

