第二十章 花と拍手に包まれて
天気……真昼の太陽は、頭がくらくらするほど暑くなってきた。午後、雷雨があった。雨がやんだあと、空に、うっすらと虹がかかっていた。
ここ数日、ぼくは毎日、パオパオのうちに行ったが、パオパオもパント―もいなかった。
(どこへ行ったのだろう)
ぼくは、ずっとそう思っていた。
今日、ようやく、パオパオとパント―の姿を見ることができた。パオパオはベッドで寝ていた。パント―もパオパオのそばで添い寝していた。ぼくに気がついて、パント―が目を覚ました。パント―がベッドの下におりてきたので、ぼくもベッドの下におりた。
「お前たち、どこに行っていたんだ」
ぼくが聞くと
「音楽の練習に行っていたの」
と、パントーが答えた。
「そうか、それで、ここ数日、うちにいなかったのか。しかし今日はどうしてうちにいるんだ。こんな真昼から寝ていて……。パオパオが病気になったのか」
ぼくは心配してパント―に聞いた。
「病気じゃない。少し疲れているだけだよ」
パント―の返事を聞いて、ぼくは少しほっとした。
「ここ数日、丁先生が毎日、パオパオを迎えに来て、楽団のホールで、指揮の練習をさせている。ぼくもパオパオについて行っている」
パント―が説明した。
そのとき、部屋の外で声がした。聞き覚えのある声だった。耳をそばだてると、丁先生の声だった。
「パオパオをぐっすり休ませてください。今晩、ステージに上がって観衆の前で指揮を執らせます。観衆の視線を一心に浴びることになると思います」
丁先生がパオパオのお父さんとお母さんに、そう言っていた。
(わぁ、すごいな。いよいよパオパオの晴れ舞台がやってきたのか)
ぼくはそう思いながら、パオパオの寝息をベッドの下で聞いていた。
「パンちゃんも連れてきてください。いっしょにステージに立たせます」
丁先生がそう言っているのも聞こえてきた。
「パント―、今晩、お前もパオパオといっしょにステージに上がるんだって。知っていたか」
ぼくは、びっくりして、丁先生の言葉をすぐにパント―に伝えた。
「知っていたよ。たぶん、そうじゃないかと思っていた」
パント―は、それほど驚いた様子ではなかった。
「パオパオの指揮のもとで、楽団がリハーサルを終えたあと、パオパオはぼくに
ピアノを弾かせてくれたよ。パオパオがいちばん好きなことは、ぼくのピアノに合わせて指揮棒を振ることだからね」
バント―がにこやかな顔で言った。
「そうか。そうだったのか。今晩の演奏会には、お母さんも連れていくよ」
ぼくがそう言うと、パント―がにっこり、うなずいた。
そのとき、窓の外で、稲妻が光った。激しい雨がすぐに降り出すはずだ。夕立は来るのも急だが過ぎ去るのもあっという間だ。雨がやむまで、ここでしばらく待つこともできる。しかし今日の夕方、パント―とパオパオの晴れ舞台があることを、妻猫に早く知らせなければと思って、ぼくは、パオパオの家を飛び出した。
町へ出たとたん、雷鳴がさく裂した。そのあと土砂降りの雨が降り出して、ぼくはたちまち、ぬれねずみ、いや、ぬれ猫になった。それでもめげずに狂ったように走り続けて、うちへ帰ってきた。
ずぶぬれになっているぼくを見て、妻猫がびっくりしていた。
「どこに行っていたの、そんなにぐっしょり、ぬれて。雨がやむまで、どこかで雨宿りでもしていたらよかったのに」
何も知らない妻猫が、とがめるような目をしていた。
「雨があがるまで、じっとして待っていられなかったんだよ」
ぼくは妻猫に、そう言った。
「いいニュースがあるので、いち早く、お母さんに知らせなければと思って、急いで帰ってきたんだ」
ぼくは息せき切って話した。
「今日はパント―に会えたの。いいニュースって何よ。早く話して」
妻猫がじれったさそうな顔をしていた。
「パント―が今晩、ステージに上がってピアノを弾くんだ」
「えー、本当、それはビッグニュースだわね」
妻猫が嬉しそうな顔をしていた。
「どこで弾くの」
「分からない。でも多くの人がパント―とパオパオを見にくると思う。パオパオのうちの下で待っていて、あとをついて会場まで行こうよ」
「じゃあ、遅れないように、さっそく今から出かけましょうよ」
妻猫はぼく以上に、気もそぞろだった。
ぼくと妻猫は雨が降っているなかを飛び出していった。雨がひどかったし、車が跳ね上げる水しぶきも歩道まで飛んできたので、ぼくと妻猫は、びっしょりぬれた。雷鳴が何度もとどろくなかを、ぼくと妻猫は無我夢中になって走り、パオパオのうちがあるマンションの下まで走りついた。雨はそのあとすぐにやんだ。
ぼくと妻猫はマンションの入口近くにある花壇の中に入って隠れた。そこからマンションの駐車場に止めてある車がよく見える。
「パオパオのうちの車は、あの赤いジープだよ」
ぼくは妻猫に教えた。
花壇の中には、雨に洗われたバラの花が、みずみずしく咲いていた。色彩豊かなバラの花から、かぐわしい香りが四方八方に、あまやかに広がっていた。
妻猫が咲きたてのバラの花を二本、摘んでいた。
「ステージが終わったら、パオパオとパント―に一本ずつあげようと思っているの」
妻猫の女性らしい細やかな気遣いに、ぼくは相好を崩した。
花壇の中でしばらく待っていると、パオパオのうちの赤いジープが駐車場から出てきた。
「さあ、行こう」
ぼくと妻猫は、花を一本ずつ、口にくわえてジープのあとを追って走り出した。歩道を歩いている人たちは、ぼくと妻猫を変な目で見ていた。人の目が少し気になったが、それよりもぼくは、昔のことを、ふっと思い出していた。今日と同じように、バラの花を口にくわえて、道を急いでいたことがあったからだ。あのときは、妻猫にあげるためにバラの花をくわえていた。今日は、パントーとパオパオにあげるために花をくわえていた。バラの花を再びくわえることがあるとは、ぼくはまったく思ってもいなかった。
パオパオのうちの赤いジープは劇場の前にある駐車場に入っていった。ぼくたちは劇場の正門から中に入って、パオパオたちが劇場にやってくるのを待っていた。劇場の入り口のわきにポスターが貼ってあった。ポスターには白いワイシャツを着て、その上に黒い燕尾服を着て、黒い蝶ネクタイを結んでいるパオパオの写真が載っていた。指揮台の上に立って、スマートに指揮棒を振っている姿がとてもきまっていた。パオパオのそばには、太めの猫が、一匹写っていた。パント―だ。
ぼくと妻猫は、多くの人でごった返している劇場の中に、そっと、しのびこんだ。通路近くの座席の下に隠れるようにして、ぼくと妻猫は、しゃがみこんだ。観客はみんなステージの上に目を注いでいたので、会場の中に花をくわえた猫が二匹まぎれこんでいることに、だれも気がつかないでいた。
ステージの照明が暗くなって深紅色のベルベットの幕が徐々に開いて、いよいよ開演の時間がやってきた。幕が完全に開くと、ステージの中央に白いピアノが
置かれているのが見えた。ピアノの後ろには大編成の管弦楽団が控えていた。男性の楽団員は黒の燕尾服を着ていた。女性の楽団員は白のロングスカートをはいていた。クラシックコンサートの厳かな雰囲気が、ステージ全体に、りんとして漂っていた。
降るような熱い拍手に迎えられながら、パオパオがステージの上に姿を現した。黒の燕尾服と白のワイシャツを着て、襟元には黒の蝶ネクタイを締めていた。パオパオは観客に向かって、深々とお辞儀をしてから、指揮台の上にあがっていった。楽団員に向かってぺこんと頭をさげると、銀色の指揮棒を高々と挙げた。その瞬間、会場のなかは、空気がぴんと張り詰めたように、シーンとなった。
演奏が始まった。最初の曲は、ベートーヴェンの『歓びの歌』だった。尊厳さと熱烈さを併せ持つ歓喜の調べが会場全体を包みこみ、曲が進むにつれて、会場の雰囲気が、ぐんぐん盛り上がって、観客を酔わせていった。観客は手拍子をたたきながら立ち上がっていた。パオパオは観客のほうをくるっと振り向いて、観客と向かい合った。観客の興奮は最高潮に達して、だれかれとなく、シラーの詩をパオパオの指揮に合わせて歌い出した。
「歓びの女神は神聖でけがれなく
輝く光で大地を照らす
神殿の中は熱い思いに溢れ
人々への愛で満ちている
愛は人々の傷を癒やし
明日への活力を与える
愛はあまねくこの世を包み
人類をみな兄弟とする
愛はあまねくこの世を包み
人々はすべての傷を癒される」
『歓びの歌』の大合唱が終わると、人々はまた席に着いて、静かに演奏を聞き始めた。パオパオの指揮のもとで、優美なワルツや、叙情的なセレナーデや、軽快な行進曲が次々と演奏されていった。会場の中では雷鳴がとどろくような激しい拍手の音が、曲が終わるたびに嵐のように何度も起きていた。
「さあ、ここでみなさんに特別ゲストを紹介いたします。本日の指揮者、パオパオくんの、いちばんのお友だち、パンちゃんです」
司会者がそう言うと、ステージのそでから、パント―が係員に抱えられて出てきた。
観客は熱烈な拍手を送りながら、パントーを温かく迎えた。
「パンちゃんは、ピアノが弾けるんです。皆さん、信じられますか。百聞は一見にしかず。パンちゃんに、さっそく一曲、弾いてもらいましょう」
司会者はそう言って、観客にパント―を紹介していた。パント―は世界中をとりこにするような微笑みを会場にふりまいて観客にあいさつをした。それを見て、会場の中に、どよめきが起きた。猫がまさか笑えるとは、だれも思っていなかったのだろう。会場が、しばらく、ざわざわしていた。
それを見て、司会者が「しー」と言った。すると会場は再び水が引いたように静かになった。会場のざわめきが収まったのを見て、パント―が鍵盤の上に載った。パント―は、そのあと指揮台の上に立っているパオパオを見て、視線を合わせた。パオパオが、にっこり、うなずいた。パントーも、にっこり、うなずいた。
それからまもなく、パオパオとパント―の競演が始まった。パオパオの指揮棒が高く上がっているときは、パント―は鍵盤の上を高く跳びはねて、観客を鳥の世界にいざなっていた。自由に空を飛んでいるような浮き浮きする音が、深い感銘をともなって、ステージの上に響いていた。パオパオが行雲流水のように、ゆったりと指揮棒を振っているときには、パント―は両手両足をゆったりと広げて、鍵盤の上を、そぞろ歩きしていた。するとそのときピアノからは、のどかな春風のような柔らかな音が聞こえてきた。パオパオの指揮棒が小刻みに振られていて、弾むようなリズム感を刻んでいたときには、パントーは鍵盤の上を弾むように跳びはねていた。このときピアノからは大小様々な真珠を、ぱらぱらぱらっと転がすようなアルペジオの音が出ていた。パオパオが髪を振り乱しながら、全身の力をこめて激しさを指揮棒にぶつけていたときは、パント―は体を横にして、激しく転がっていって、燃えるような熱い思いを音にたくしていた。このときピアノからは情熱的で聞く人の胸を焦がすような旋律が、ほとばしり出ていた。
パオパオとパント―の息がぴったり合った指揮と演奏に、観客はみんな思わず息をのんでいた。演目の最後の曲が終わり、アンコールにも応えたとき、会場の中が異様な雰囲気に包まれるほどの余韻が残っていた。その中をパオパオは観客に向かって、お辞儀をしてカーテンコールに応えていた。パント―も、もう一度、世界じゅうの人を、とりこにするような微笑みを浮かべながら、観客に感謝の気持ちを伝えていた。
ぼくと妻猫はバラの花ををくわえて、ステージの上に飛び上がった。妻猫は花をパント―にあげた。ぼくは花をパオパオにあげた。パント―は妻猫からもらった花をくわえて、指揮台に走っていった。パオパオはパントーからバラの花を受け取ると、片手にパントー、片手にバラを抱えた。観客はそれを見て、幸福感に満たされていた。パントーは、そのときまた百万ドルの微笑みを浮かべた。
パオパオを地球人の子どもにした歓びと、才能を開花させた歓びに、パント―は浸っていた。パオパオは宇宙人の子どもではなくて自閉症の子どもであることを、ぼくはパント―にまだ話していない。いつかは話すつもりでいる。パント―とパオパオの晴れ舞台が大成功を収めたので、ほくは、嬉しくてたまらない。
天気……真昼の太陽は、頭がくらくらするほど暑くなってきた。午後、雷雨があった。雨がやんだあと、空に、うっすらと虹がかかっていた。
ここ数日、ぼくは毎日、パオパオのうちに行ったが、パオパオもパント―もいなかった。
(どこへ行ったのだろう)
ぼくは、ずっとそう思っていた。
今日、ようやく、パオパオとパント―の姿を見ることができた。パオパオはベッドで寝ていた。パント―もパオパオのそばで添い寝していた。ぼくに気がついて、パント―が目を覚ました。パント―がベッドの下におりてきたので、ぼくもベッドの下におりた。
「お前たち、どこに行っていたんだ」
ぼくが聞くと
「音楽の練習に行っていたの」
と、パントーが答えた。
「そうか、それで、ここ数日、うちにいなかったのか。しかし今日はどうしてうちにいるんだ。こんな真昼から寝ていて……。パオパオが病気になったのか」
ぼくは心配してパント―に聞いた。
「病気じゃない。少し疲れているだけだよ」
パント―の返事を聞いて、ぼくは少しほっとした。
「ここ数日、丁先生が毎日、パオパオを迎えに来て、楽団のホールで、指揮の練習をさせている。ぼくもパオパオについて行っている」
パント―が説明した。
そのとき、部屋の外で声がした。聞き覚えのある声だった。耳をそばだてると、丁先生の声だった。
「パオパオをぐっすり休ませてください。今晩、ステージに上がって観衆の前で指揮を執らせます。観衆の視線を一心に浴びることになると思います」
丁先生がパオパオのお父さんとお母さんに、そう言っていた。
(わぁ、すごいな。いよいよパオパオの晴れ舞台がやってきたのか)
ぼくはそう思いながら、パオパオの寝息をベッドの下で聞いていた。
「パンちゃんも連れてきてください。いっしょにステージに立たせます」
丁先生がそう言っているのも聞こえてきた。
「パント―、今晩、お前もパオパオといっしょにステージに上がるんだって。知っていたか」
ぼくは、びっくりして、丁先生の言葉をすぐにパント―に伝えた。
「知っていたよ。たぶん、そうじゃないかと思っていた」
パント―は、それほど驚いた様子ではなかった。
「パオパオの指揮のもとで、楽団がリハーサルを終えたあと、パオパオはぼくに
ピアノを弾かせてくれたよ。パオパオがいちばん好きなことは、ぼくのピアノに合わせて指揮棒を振ることだからね」
バント―がにこやかな顔で言った。
「そうか。そうだったのか。今晩の演奏会には、お母さんも連れていくよ」
ぼくがそう言うと、パント―がにっこり、うなずいた。
そのとき、窓の外で、稲妻が光った。激しい雨がすぐに降り出すはずだ。夕立は来るのも急だが過ぎ去るのもあっという間だ。雨がやむまで、ここでしばらく待つこともできる。しかし今日の夕方、パント―とパオパオの晴れ舞台があることを、妻猫に早く知らせなければと思って、ぼくは、パオパオの家を飛び出した。
町へ出たとたん、雷鳴がさく裂した。そのあと土砂降りの雨が降り出して、ぼくはたちまち、ぬれねずみ、いや、ぬれ猫になった。それでもめげずに狂ったように走り続けて、うちへ帰ってきた。
ずぶぬれになっているぼくを見て、妻猫がびっくりしていた。
「どこに行っていたの、そんなにぐっしょり、ぬれて。雨がやむまで、どこかで雨宿りでもしていたらよかったのに」
何も知らない妻猫が、とがめるような目をしていた。
「雨があがるまで、じっとして待っていられなかったんだよ」
ぼくは妻猫に、そう言った。
「いいニュースがあるので、いち早く、お母さんに知らせなければと思って、急いで帰ってきたんだ」
ぼくは息せき切って話した。
「今日はパント―に会えたの。いいニュースって何よ。早く話して」
妻猫がじれったさそうな顔をしていた。
「パント―が今晩、ステージに上がってピアノを弾くんだ」
「えー、本当、それはビッグニュースだわね」
妻猫が嬉しそうな顔をしていた。
「どこで弾くの」
「分からない。でも多くの人がパント―とパオパオを見にくると思う。パオパオのうちの下で待っていて、あとをついて会場まで行こうよ」
「じゃあ、遅れないように、さっそく今から出かけましょうよ」
妻猫はぼく以上に、気もそぞろだった。
ぼくと妻猫は雨が降っているなかを飛び出していった。雨がひどかったし、車が跳ね上げる水しぶきも歩道まで飛んできたので、ぼくと妻猫は、びっしょりぬれた。雷鳴が何度もとどろくなかを、ぼくと妻猫は無我夢中になって走り、パオパオのうちがあるマンションの下まで走りついた。雨はそのあとすぐにやんだ。
ぼくと妻猫はマンションの入口近くにある花壇の中に入って隠れた。そこからマンションの駐車場に止めてある車がよく見える。
「パオパオのうちの車は、あの赤いジープだよ」
ぼくは妻猫に教えた。
花壇の中には、雨に洗われたバラの花が、みずみずしく咲いていた。色彩豊かなバラの花から、かぐわしい香りが四方八方に、あまやかに広がっていた。
妻猫が咲きたてのバラの花を二本、摘んでいた。
「ステージが終わったら、パオパオとパント―に一本ずつあげようと思っているの」
妻猫の女性らしい細やかな気遣いに、ぼくは相好を崩した。
花壇の中でしばらく待っていると、パオパオのうちの赤いジープが駐車場から出てきた。
「さあ、行こう」
ぼくと妻猫は、花を一本ずつ、口にくわえてジープのあとを追って走り出した。歩道を歩いている人たちは、ぼくと妻猫を変な目で見ていた。人の目が少し気になったが、それよりもぼくは、昔のことを、ふっと思い出していた。今日と同じように、バラの花を口にくわえて、道を急いでいたことがあったからだ。あのときは、妻猫にあげるためにバラの花をくわえていた。今日は、パントーとパオパオにあげるために花をくわえていた。バラの花を再びくわえることがあるとは、ぼくはまったく思ってもいなかった。
パオパオのうちの赤いジープは劇場の前にある駐車場に入っていった。ぼくたちは劇場の正門から中に入って、パオパオたちが劇場にやってくるのを待っていた。劇場の入り口のわきにポスターが貼ってあった。ポスターには白いワイシャツを着て、その上に黒い燕尾服を着て、黒い蝶ネクタイを結んでいるパオパオの写真が載っていた。指揮台の上に立って、スマートに指揮棒を振っている姿がとてもきまっていた。パオパオのそばには、太めの猫が、一匹写っていた。パント―だ。
ぼくと妻猫は、多くの人でごった返している劇場の中に、そっと、しのびこんだ。通路近くの座席の下に隠れるようにして、ぼくと妻猫は、しゃがみこんだ。観客はみんなステージの上に目を注いでいたので、会場の中に花をくわえた猫が二匹まぎれこんでいることに、だれも気がつかないでいた。
ステージの照明が暗くなって深紅色のベルベットの幕が徐々に開いて、いよいよ開演の時間がやってきた。幕が完全に開くと、ステージの中央に白いピアノが
置かれているのが見えた。ピアノの後ろには大編成の管弦楽団が控えていた。男性の楽団員は黒の燕尾服を着ていた。女性の楽団員は白のロングスカートをはいていた。クラシックコンサートの厳かな雰囲気が、ステージ全体に、りんとして漂っていた。
降るような熱い拍手に迎えられながら、パオパオがステージの上に姿を現した。黒の燕尾服と白のワイシャツを着て、襟元には黒の蝶ネクタイを締めていた。パオパオは観客に向かって、深々とお辞儀をしてから、指揮台の上にあがっていった。楽団員に向かってぺこんと頭をさげると、銀色の指揮棒を高々と挙げた。その瞬間、会場のなかは、空気がぴんと張り詰めたように、シーンとなった。
演奏が始まった。最初の曲は、ベートーヴェンの『歓びの歌』だった。尊厳さと熱烈さを併せ持つ歓喜の調べが会場全体を包みこみ、曲が進むにつれて、会場の雰囲気が、ぐんぐん盛り上がって、観客を酔わせていった。観客は手拍子をたたきながら立ち上がっていた。パオパオは観客のほうをくるっと振り向いて、観客と向かい合った。観客の興奮は最高潮に達して、だれかれとなく、シラーの詩をパオパオの指揮に合わせて歌い出した。
「歓びの女神は神聖でけがれなく
輝く光で大地を照らす
神殿の中は熱い思いに溢れ
人々への愛で満ちている
愛は人々の傷を癒やし
明日への活力を与える
愛はあまねくこの世を包み
人類をみな兄弟とする
愛はあまねくこの世を包み
人々はすべての傷を癒される」
『歓びの歌』の大合唱が終わると、人々はまた席に着いて、静かに演奏を聞き始めた。パオパオの指揮のもとで、優美なワルツや、叙情的なセレナーデや、軽快な行進曲が次々と演奏されていった。会場の中では雷鳴がとどろくような激しい拍手の音が、曲が終わるたびに嵐のように何度も起きていた。
「さあ、ここでみなさんに特別ゲストを紹介いたします。本日の指揮者、パオパオくんの、いちばんのお友だち、パンちゃんです」
司会者がそう言うと、ステージのそでから、パント―が係員に抱えられて出てきた。
観客は熱烈な拍手を送りながら、パントーを温かく迎えた。
「パンちゃんは、ピアノが弾けるんです。皆さん、信じられますか。百聞は一見にしかず。パンちゃんに、さっそく一曲、弾いてもらいましょう」
司会者はそう言って、観客にパント―を紹介していた。パント―は世界中をとりこにするような微笑みを会場にふりまいて観客にあいさつをした。それを見て、会場の中に、どよめきが起きた。猫がまさか笑えるとは、だれも思っていなかったのだろう。会場が、しばらく、ざわざわしていた。
それを見て、司会者が「しー」と言った。すると会場は再び水が引いたように静かになった。会場のざわめきが収まったのを見て、パント―が鍵盤の上に載った。パント―は、そのあと指揮台の上に立っているパオパオを見て、視線を合わせた。パオパオが、にっこり、うなずいた。パントーも、にっこり、うなずいた。
それからまもなく、パオパオとパント―の競演が始まった。パオパオの指揮棒が高く上がっているときは、パント―は鍵盤の上を高く跳びはねて、観客を鳥の世界にいざなっていた。自由に空を飛んでいるような浮き浮きする音が、深い感銘をともなって、ステージの上に響いていた。パオパオが行雲流水のように、ゆったりと指揮棒を振っているときには、パント―は両手両足をゆったりと広げて、鍵盤の上を、そぞろ歩きしていた。するとそのときピアノからは、のどかな春風のような柔らかな音が聞こえてきた。パオパオの指揮棒が小刻みに振られていて、弾むようなリズム感を刻んでいたときには、パントーは鍵盤の上を弾むように跳びはねていた。このときピアノからは大小様々な真珠を、ぱらぱらぱらっと転がすようなアルペジオの音が出ていた。パオパオが髪を振り乱しながら、全身の力をこめて激しさを指揮棒にぶつけていたときは、パント―は体を横にして、激しく転がっていって、燃えるような熱い思いを音にたくしていた。このときピアノからは情熱的で聞く人の胸を焦がすような旋律が、ほとばしり出ていた。
パオパオとパント―の息がぴったり合った指揮と演奏に、観客はみんな思わず息をのんでいた。演目の最後の曲が終わり、アンコールにも応えたとき、会場の中が異様な雰囲気に包まれるほどの余韻が残っていた。その中をパオパオは観客に向かって、お辞儀をしてカーテンコールに応えていた。パント―も、もう一度、世界じゅうの人を、とりこにするような微笑みを浮かべながら、観客に感謝の気持ちを伝えていた。
ぼくと妻猫はバラの花ををくわえて、ステージの上に飛び上がった。妻猫は花をパント―にあげた。ぼくは花をパオパオにあげた。パント―は妻猫からもらった花をくわえて、指揮台に走っていった。パオパオはパントーからバラの花を受け取ると、片手にパントー、片手にバラを抱えた。観客はそれを見て、幸福感に満たされていた。パントーは、そのときまた百万ドルの微笑みを浮かべた。
パオパオを地球人の子どもにした歓びと、才能を開花させた歓びに、パント―は浸っていた。パオパオは宇宙人の子どもではなくて自閉症の子どもであることを、ぼくはパント―にまだ話していない。いつかは話すつもりでいる。パント―とパオパオの晴れ舞台が大成功を収めたので、ほくは、嬉しくてたまらない。

