マスクをした猫

第八章『新型コロナウイルス』

天気……空はくまなく晴れているが、風はまだ冷たくて、寒さが骨身に染みる。翠湖は、明るくてまばゆいほどの日の光に照らされていて、きらきらと輝いている。湖面には薄い氷が張っていて、水鏡のように美しく透き通っていて、湖畔の風景を、くっきりと映し出している。

ぼくと老いらくさんは、昨日、マスクをして町のなかを歩いたので『歩く広告塔』となった。街中に大きなセンセーションを巻き起こして人目を引き、予想をはるかに超えた反響の大きさに、ぼくも老いらくさんもびっくりしたが、悪い気はしなかった。ぼくと老いらくさんは、微力ながらも少しでも人々に微笑ましい話題を提供できたことを知って、とてもうれしく思っていた。ぼくと老いらくさんは、春節休みの期間中、ずっとマスクをして、町の大通りや路地を、くまなく歩くことにした。ぼくと老いらくさんがマスクをしている姿を見て、人々の心のなかに、マスク着用の意識が記憶として深く残って印象づけられることを、ぼくも老いらくさんも心から願っていた。
(ああ、それにしてもまだ本当に寒い)
ぼくと妻猫が暮らしている山洞のなかは、まるで氷室のように冷たいので、体がぶるぶると震えてたまらない。ぼくと妻猫は昨夜は一晩中、体をぴったりとくっつけて、お互いの体温で相手の体を温め合って、朝までなんとか寒さをしのいできた。今朝もまだ寒いが、今日はしなければならないことがたくさんあるので、いつまでも、ぐずぐずと、寝床のなかでまどろんでいるわけにはいかない。昼間は老いらくさんといっしょにマスクをして、町のなかを歩き、日が暮れたら馬小跳のうちに行って、万年亀を訪ねることにしていた。昨日は、あたふたしていたから、万年亀とじっくり腰を落ち着けて話す時間がなかったので、今日はぜひ万年亀と話さなければと、ぼくは思っていた。
朝早く寝床から、がばっと起きると、ぼくはびっくりして、目を白黒させた。いつの間にか、ぼくと妻猫の体のうえに、赤くて大きな布団が掛けられていたからだ。ぼくは妻猫の体を慌てて揺り動かして目を覚めさせた。
「ほら、見て。この赤い掛け布団。どこから来たんだろう」
ぼくはけげんそうな声で妻猫に聞いた。妻猫もびっくりしていた。「どうりで、ふわふわしたものを感じたわけだわ」
妻猫がそう言った。
「うちには、薄くて小さな掛け布団が一枚あるだけだわよね。こんなに厚くて大きな掛け布団は、うちにはないわ……」
妻猫が小首をかしげていた。
(凍てつくように寒い夜に、誰かここにこっそり来て、ぼくと妻猫が白河夜船をこいでいるときに、布団をそっと掛けていってくれたんだ)
不思議なことができるのは、神様か、それに近い誰かしかいないと、ぼくは思った。このとき、ぼくの頭にふっと、万年亀のことが浮かんだ。
(彼ならできないこともない。神通力があるので、甲羅に掛け布団を載せて、ここまで運んできてくれたのだ)
ぼくはそう思った。
(もしかしたら、彼はまだ近くにいるかもしれない)
そんな予感がしたので、ぼくは寝床を勢いよく抜け出して外に向かって矢のようにかけ出した。
「やあ、笑い猫」
万年亀の声が山洞の入り口付近から聞こえてきた。
(やはり彼だったか)
ぼくはそう思った。万年亀の声は、楽器のチェロの音のように重厚で威厳があるので、聞くとお腹にずっしりと響いてくる。姿を見なくても声だけで万年亀だと分かる。その万年亀が、まさかぼくのうちまで来てくれるとは思ってもいなかったので、ぼくはうれしくてたまらなかった。
「大先生、大先生」
ぼくは万年亀に、そう呼びかけた。神様のように偉くて、不可能ということを知らない万年亀に、ぼくはいつも、そう呼びかけている。
「掛け布団のプレゼント、ありがとうございます」
ぼくがお礼を言うと、万年亀は、うなずいて
「春節のお祝いだよ」
と言った。
「わしはお前に別れのあいさつに来たのだ」
万年亀は首を甲羅のなかから、すっと伸ばして、ぼくのすぐ前まで、そろそろと寄ってきて、重々しい声でそう言った。
「どちらへお出かけになるのですか」
ぼくが聞くと、万年亀は苦渋に満ちた表情をした。
「わしは今、心配でたまらなくて、じっとしていられないのだ」
万年亀がそう言った。万年亀はこれまで何が起きても、心をそれほど動かされることなく、達観的な観点から考えていたが、今は居ても立ってもいられないほど憂えているのが、顔色からうかがえた。
「『新型コロナウイルス』が今、地球上にまん延しているが、ほとんどの国では、まだそれほど深刻な問題としてとらえていないのだ」
万年亀の顔の表情は、雪曇りの空のように、どんよりとしていた。
「この国ではとても深刻な問題としてとらえていて、まん延を防止するために、さまざまな施策を打ち出しているよ」
ぼくはそう答えた。
「疫病が発生したら、町をすぐに封鎖して、外にはなるべく出ないで、人との接触をできるだけ避けようとしている。やむをえず外に出るときは、必ずマスクの着用をするように、みんなが心がけている。春節のお祝いにもマスクを贈っているくらいなんだ」
ぼくがそう言うと、万年亀は、うなずいた。
「そうか。この国では、そのようなことをしているのか。たいしたものだ」
万年亀が、この国のことを賞賛してくれた。
「たいしたものかどうかは分からないけど、世界の大国である中国が、模範的なことを率先しておこなうことは、当然のことだからね」
ぼくがそう答えると、万年亀が次のように言った。
「この国は『新型コロナウイルス』が世界で最も早く発見された国だが、そのときウイルスはもうすでに地球上にまん延していた。しかし誰も気がつかないで、感染している患者をインフルエンザや、肺炎と誤診した国もあって、深刻な問題としてとらえなかった。この国で初めて発見されたウイルスはこれまでになかった新しいタイプのウイルスであり、生命を脅かす危険性の高いものだと人々に意識させるために、この国では町を封鎖して、疫病の感染拡大を封じこめたものだと思われる」
万年亀の説明に、ぼくは静かに聞き入っていた。
万年亀は饒舌(じょうぜつ)に言葉を続けた。
「この国の人たちは本当にたいしたものだ」
万年亀が再び、中国や中国の人たちを賞賛してくれた。
「春節は本来なら、この国の人たちが最も盛大に祝う祭日のはずだが、感染拡大を防止するために、今年はみんな自粛して、肉親に会いに行ったり、年始回りのあいさつに行くことを控えている。大切な親子の情や、伝統的な行事を自粛自戒するのは本当に辛いだろうが、みんなよく我慢している。本当に偉い。高尚な民族精神や、私心のない奉仕精神の一端を垣間見る思いだ」
万年亀の褒め言葉を聞いて、ぼくは、この国に生まれてよかったと思った。
万年亀はこれまで、ぼくにたいして、こんなに多く話してくれたことはあまりなかったので、万年亀の偽りのない本心に触れる機会があまりなかったが、今回、彼の本当の気持ちに触れたような気がして、ぼくはとてもうれしくなった。別れの間際に、万年亀が
「今度のウイルスは、この国で最初に発見されたことを知って、わしはお前や馬小跳のことをとても心配していたが、どちらも元気そうでよかった。これからも気をつけるんだよ」
と、言ってくれた。
「ありがとう」
ぼくはそう答えた。万年亀がぼくのことを気にかけてくれているとは、まったく思ってもいなかったので、とてもうれしかった。馬小跳には万年亀が大好きな子どものにおいが、ぷんぷんするので、万年亀が気にかけているのは知っていた。万年亀は子どものにおいをかぐことで、年を取らないで長生きすることができるからだ。
万年亀との別れのときがやってきた。ぼくは山洞の外まで彼を見送った。彼は翠湖のほうに向かって歩いていった。姿が見えなくなるまで、ぼくは彼の後ろ姿をじっと見ていた。
それからしばらくしてから、ぼくは急いで梅園へ走っていった。老いらくさんがぼくを待っているからだ。ぼくと老いらくさんは今日もマスクをして、町を歩いて、疫病対策のための宣伝活動をするつもりでいる。
ぼくが梅園に着くと、老いらくさんはもうすでにマスクをして、ぼくを待っていた。
「遅いじゃないか。どうしたんだ。もうずいぶん待ってたぞ」
ぼくの姿が見えるとすぐに、老いらくさんは恨み言を述べた。
「大変なことが起きたんです」
ぼくはそう答えて、老いらくさんを、けむに巻いた。
「何があったんだ。もったいぶらないで、はやく言えよ」
老いらくの顔から、ぼくが遅れたことに対する不満の色は、たちまち消えて、じりじりしている様子に変わった。
「万年亀が、ぼくのうちに来たんです」
ぼくがそう答えると、老いらくさんは、びっくりして、弾かれたように飛び上がった。
「えっ、そうだったのか。大先生が、お前のうちにいらっしゃったのか。わしもまた、ぜひお目にかかって、ご教示を賜りたいものだ」
老いらくさんが、そう答えた。
万年亀は老いらくさんにとっては知遇を得た恩がある。万年亀に出会ったおかげで、老いらくさんの、それまでの生き方が、がらっと変わったからだ。万年亀との出会いによって、それまで悪いことばかりしていた老いらくさんが、悪事から足を洗って、まっとうな生き方をするようになった。万年亀と出会ったあと、老いらくさんの体と心に大きな変化が起きて、体はテニスボールのように丸くなり、心は浄化されて、真善美を求める生き方をするようになっていた。
「大先生は今、どこにいらっしゃるのだ」
老いらくさんは気持ちがせいていた。よほど会いたくてたまらなかったのだろう。
「残念ながら、もう遠くへ行ってしまわれたよ。たぶん、この近くにはもういらっしゃらないと思う」
ぼくはそう答えた。
「どうしてそう言えるのだ」
老いらくさんは諦め切れないような顔をしていた。
「大先生は地球全体の安寧をいつも考えていらっしゃるから、不穏な地域に行かれて、現状を視察することを、いつも心に置いていらっしゃるから」
ぼくがそう言うと、老いらくさんは、うなずいていた。万年亀がぼくに話してくれたことを思い出しながら、ぼくは老いらくさんに次のように言った。
「彼はこう言っていた。『この国ではウイルスが最初に発見されて、まん延を防ぐための様々な対処法が取られているが、世界にはまだ十分な対処法が取られていない国がある。心配でたまらないから、それらの国へ行って現状を視察したい』って」
「そうか、いかにも大先生らしいな」
老いらくさんが、感心していた。
「大先生には神様のような能力があって、一日に千里は移動できるので、大先生にとっては、地球全体がひとつの村に過ぎないのだろう」
老いらくさんが、万年亀のことを、とても羨ましそうに思っていた。
「わしにも、大先生のような能力があったら、地球のあらゆる国に行って貢献することができる。そうすれば、生きがいや喜びが感じられて、きらきらと輝いた一生を送ることができるだろう」
羨望にあふれた老いらくさんの気持ちが、ぼくにも、ひしひしと伝わってきた。
ぼくと老いらくさんは話しながら、翠湖公園の西門から外に出た。町のなかは、やはり、これまでとは違って、人や車がひしめきあうくような賑やかな光景はまったく見られなかった。それと引き換えるように今までにはなかった新しい光景が見られるようになっていた。荷物を積載した赤バイクと青バイクが大通りや路地をたくさん疾走していた。赤バイクには赤ヘルと赤の防護服を身にまとったあんちゃんが乗っていた。青バイクには青ヘルと青の防護服を身にまとったあんちゃんが乗っていた。荷台に積んであるものは、米や小麦粉やミネラルウォーターや牛乳や野菜や果物などの生活必需品ばかりだった。あんちゃんたちは、うちで自粛生活やテレワークをしている人たちから依頼されて生活物資を宅配しているところだった。
老いらくさんは、この光景を見て
「いいね。このように配達してもらったら、買い物に出なくても食糧を心配せずに、家のなかで、じっとしていることができる……。もしあのとき……」
と言って、そのあと不意に口をつぐんでしまった。
目の前を猛スピードで、風のようにびゅんびゅん走り去っていくバイクのあんちゃんたちの姿を見ながら
(かっこいいなあ)
と、ぼくは思った。道端に立って、ぼくは、あんちゃんたちに目礼をした。ある赤バイクが、ぼくのほうに向かって勢いよく突っ込んできた。ぼくはびっくりして、よけるのが間に合わなかった。危うく跳ね飛ばされるところだった。幸い、赤バイクはぼくの直前で急停車をしたので、事なきを得た。赤バイクのあんちゃんは、ポケットに手をつっこんで、スマートフォンを取り出して、画面をぼくに向けてから、「パチパチ」と写真を何枚も撮っていた。あんちゃんはヘルメットの風防ガラスを上にあげると、ぼくを見ながら、「手を振ってくれないかなあ」という仕草をした。
ぼくは右の前足をあげて、スマートフォンに向かって、横にぷるる振った。
「いいね」
あんちゃんは、そう言って、ぼくの頭を軽くなでた。
「じゃあ、ばいばーい」
あんちゃんがアクセルを踏んで、赤バイクは再び勢いよく走り去っていった。
「かっこいいあんちゃんだね」
老いらくさんが赤バイクを目で追いながら、そう言った。
「あんちゃんがどうして写真を撮っていたか分かるか」
老いらくさんが聞いた。
「とても珍しかったからじゃないの。マスクをした猫をこれまで見たことはなかっただろうから」
ぼくはそう答えた。
「マスクをしたネズミも見たことがなかっただろうね」
 老いらくさんが、そう言った。
「老いらくさんがネズミだとは思っていなかったような気がした」
ぼくはそう答えた。老いらくさんは、うなずいた。
「あれっ、あれは何かな」
空をふっと見上げた老いらくさんが、すっとんきょうな声を出した。ぼくは空を見た。空と言っても、高い空ではなくて、地上から数十メートル離れただけの低いところに無人の小型飛行機が一機、飛んでいた。
「あれはドローンだよ」
ぼくは老いらくさんに教えてあげた。
「何じゃ、それは」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「人が操縦しなくても、いろいろなことをすることができる無人の飛行機です」
ぼくはそう答えた。
「そうか、そんな飛行機が最近は飛んでいるのか。ちっとも知らなかった。わしも年老いたものだ」
老いらくさんは、そう言って、無人飛行機をじっと見ていた。
「最近の新しいおもちゃのことは、わしには、とんと分からなくなってきた。あれは今、何をしているのだ」
老いらくさんが聞いた。ドローンを注意深く見ると、機体の下から、霧のようなものが勢いよく出ているのが見えた。
「たぶん、この町を消毒しているのだと思う」
ぼくはそう答えた。
「そうか、こんな大きな町を、あの小さな飛行機で無人で消毒できるような世の中になったのか……もし、あのとき……」
老いらくさんが何か言いかけて、話を途中でやめた。老いらくさんが「もし、あのとき……」と言いかけてから、話を途中でやめたことは以前にもあった。最近の便利な世の中を見て、老いらくさんは、かつて経験したことのある悲惨な疫病のことを思い出して、時代の進歩を知って、感慨を催していたのではないだろうかと、ぼくは思った。