マスクをした猫

第六章 春節

天気……今年の春節は例年よりも早い。ぼくの記憶では、これまでで最も早いような気がする。寒さがまだ残る時季の春節となった。外気はまだ氷のように冷たい。震えるような空気が肌をさして、ちくちくする。ほのぼのと明けてきた黎明の空からは、時間が経つとともに陽の光が次第に射し込んできて、夜間の寒さも幾分和らいできた。しかし夜が明けても、凍てつくような冷たい風はまだ残っていて、正面から吹きつけてきた。ぼくは思わず、ぶるっとした。

今日は春節。中国で最も大切な祝日だ。中国の人はみんな、この日を盛大に祝う。古来から伝承されてきた習慣にのっとって、この日の朝、若年者は年長者に、新年のあいさつをし、年長者は若年者に、お年玉をやる。お年玉は赤い祝儀袋に入れて渡し、祝儀袋のなかにはお金や祝詞が入っている。
ぼくは妻猫といっしょに朝食をすませると、うちを出て梅園に向かった。老いらくさんに新年のあいさつをするためだ。老いらくさんは、ぼくよりもずっと年長なので、ぼくが老いらくさんのうちへ出向いて、新年のあいさつをするのが理の当然だ。ぼくと老いらくさんは、猫とネズミという天敵関係にあるが、気持ちが理解しあえるので、ぼくは老いらくさんのことを年長者として尊敬している。
ぼくが梅園に着くと、老いらくさんは、ぼくが年始のあいさつに来るのを見越していたかのように、石段の上にきちんと座って、ぼくが来るほうをじっと見ていた。
「やあ、笑い猫、待ってたぞ」
ぼくの姿を見つけると、老いらくさんが遠くから声をかけた。ぼくは老いらくさんのすぐそばまで駆け寄っていった。
「老いらくさん、明けましておめでとうございます。今年も息災延命であられますよう、心から願っております」
ぼくは恭しく、頭を三回、地面につけて、叩頭(こうとう)の礼をした。
「ありがとう」
老いらくさんは、年明けにふさわしく、清々しい顔をしていた。
「わしはずいぶん長く生きてきたので、今何歳なのか、自分でもよく分からないでいる。百年は生きているはずだ。山あり谷ありの波乱に富んだ行路のなかで、大きな災難に遭遇したことが何度もあった。幸い、大事に至らなかったので今日まで命を長らえることができた」
老いらくさんは満足そうな顔をしていた。
「災難に遭ったあったときは辛かったが、そのあと必ずよいことが起きた。なかでも強く心に残っているのは、万年亀との出会いだ。彼のおかげで今のわしがある。彼と出会ったことによって、わしは、それまでとは違った生き方ができるようになった。わしは、あと百年、いや、あと二百年は生きたいと思っている。できたら彼のように一万年、生きられたら最高によいと思っている……」
老いらくさんが途方もないことを、真剣そのものの顔で口にした。ぼくはおかしかったが、それでも心をとても打たれた。老いらくさんがこれからも息災で、千年、万年生きられることを願って、ぼくは再び、頭を三回、地面につけて、叩頭(こうとう)の礼をした。
「老いらくさんのご長寿を願って、万歳、バンザーイ、バンバーンザイ」
ぼくは万歳三唱をした。老いらくさんが、うなずいた。
「ありがとう。お礼に、わしからもお前に春節のお祝いをあげよう」
老いらくさんはそう言うと、ぼくに赤い祝儀袋を渡した。ぼくのために、わざわざ用意してくれていたのかと思うと、ぼくの胸に感激の念が、ふつふつと湧いてきた。
「開けてみろよ」
老いらくさんがそう言ったので、ぼくは、にっこり、うなずいた。
祝儀袋のなかには、玉の装身具が入っていた。赤いひもで結んであって、首にかけられるようになっていた。
「これが、わしからのプレゼントだ」
老いらくさんは、そう言ってから、ぼくの首に、装身具をネックレスのようにかけてくれた。
「これはただの装身具ではない。わしの大切なお守りだ。これのおかげで、わしはこれまで、たとえ危険にさらされてもいつも克服して、降りかかってきた災難を乗り越えることができた」
老いらくさんは、感慨にふけっていた。
「そんな大切なものを、ぼくはもらうわけにはいきませんよ。これからも自分で持っていてください。このお守りがこれからも千年、万年、老いらくさんを加護してくれるように」
ぼくはそう言って、老いらくさんの気持ちだけを受け取ろうとした。そのほうが、ぼくの心にかなっていたからだ。
「お前の気持ちも分からないことはないが、素直に受け取ってもらえないか。わしからの、ささやかなプレゼントだから」
老いらくさんがそう言った。
「前代未聞の大きな災禍が降りかかってきている今、わしはお前のことをとても心配している。このお守りを持っていたら、お前を加護してくれるかもしれない」
老いらくさんの思いやりが心にしみた。
「わしは本当はこれをサンパオにやるつもりでいたんだ」
老いらくさんが不意に、サンパオのことを話題にした。ぼくの子どもたちのなかで、サンパオのことを老いらくさんがいちばん気にかけていることは、ぼくも知っている。サンパオのことを話題にするたびに、老いらくさんは、心がちくちく痛むのか、いつも少し寂しそうな表情をする。
「だがサンパオも、大きくなったから、昔のように、わしがパンダに変装して、おじさんのふりをしてプレゼントをあげるのもどうかと、今は思っているんだ」
老いらくさんがそう言った。
老いらくさんがサンパオのことを気にかけてくれるのは、うれしい。しかし、サンパオは以前とは違って、今は血気盛んなオス猫なので、(ネズミを見たら襲いかかろう)と思っているはずだ。そのために老いらくさんがもし今、サンパオと会ったら大変なことになるのは必至である。これはどうしても避けがたい厳しい現実である。老いらくさんは、そのことをもっと強く認識しなければならない。ぼくは急いで話題を変えた。
「老いらくさんはどうして急に万年亀のことを思い出したのですか」
ぼくが聞くと、老いらくさんは首を横に振った。
「わしは今、急に万年亀のことを思い出したのではない。昨日の夜、彼のことを夢に見たんだ」
老いらくさんはそう答えた。
「非常時の今、万年亀はどこにいると思うか」
老いらくさんが聞いた。
「彼は子どものにおいが好きだから、子どもの近くにいるんじゃないかな」
ぼくはそう答えた。
「大みそかの夜、彼のことを夢に見たが、もしかしたら、ここからそれほど遠くないところにいるのじゃないかと、わしは思っている。お前はどう思うか」
老いらくさんが真剣な顔をして、ぼくにまた聞いた。ぼくには、どう答えてよいか分からなかった。でも、老いらくさんの予想はよく当たるので、もしかしたら彼は馬小跳のうちにいるんじゃないかと、ぼくは思った。馬小跳は子どもらしさが最も強く感じられる子どもなので、子どものにおいが好きな万年亀が、この非常時に心を癒すために、かぎたいと思っているのは馬小跳のにおいに違いないと、ぼくは思ったからだ。万年亀には、神通力があって、神業(かみわざ)とも言えるような摩訶不思議な魔術を身につけているので、どんなに遠いところでもすぐに行くことができるし、どんなに険しい山や壁が立ちはだかっていたり、広い海が目の前に広がっていても、彼は難なく行きたいところに行くことができる。彼にできないことはない。そんな彼が今、馬小跳のうちにいることは十分考えられる。突然、ぼくの心に降るように湧いてきた想像で、ぼくの感情は高ぶっていて、抑えることができなかったので、ぼくはすぐに馬小跳のうちへ行ってみることにした。
ぼくは翠湖公園を脱兎(だっと)の勢いで走り出て、町のなかに入っていった。今日は春節だというのに、大通りも路地もがらんとしていて、人影はほとんどなく、行けばいくほど、わびしい気持ちが胸のなかにつのってきて、ちくちくして、沈痛な思いにとらわれていた。でも昨夜、町全体に響きわたった大合唱や、歌のリズムに合わせて小刻みに揺れながら明るく輝いていたスマートフォンの画面を思い浮かべると、ぼくの体のなか全体に熱い血潮がまたふつふつとわいてきた。
ぼくは馬小跳のうちのベランダまでのぼってきた。馬小跳のうちのベランダはとても広い。ベランダのなかにはいろいろな草花が植えられていて、あたかも植物園のようだ。ベランダから、家のなかをのぞいたら、客室に人の姿はなかった。
ある年の夏のことを、ぼくはふっと思い出した。万年亀が馬小跳のうちへ来ていて、ベランダにある竹製の植木鉢の下に隠れていて、馬小跳から漂ってくる子どものにおいをかいでいた。馬小跳が何歳のころだったか、ぼくはよく覚えていないが、馬小跳の子どもらしい純粋で無垢なにおいが万年亀は気に入っていたようだ。
ぼくがあの時と同じようにベランダにある、竹製の植木鉢の下をちょっとのぞき込むと、そこから聞き覚えのある声がした。
「やあ、笑い猫か」
「えーっ」
ぼくはびっくりした。まさかと思ったが、ぼくの予感がぴたりと当たって、万年亀がここへ来ていたのだ。万年亀は頭を出さないで、甲羅のなかに縮こまっていた。見つかるのを恐れていたのだろうと、ぼくは思った。頭をちょっとだけ出すと、万年亀はすぐにまた甲羅のなかに頭を引っ込めた。
ダイニングルームから話し声が聞こえてきた。馬小跳の家族が食事をしているようだ。朝食なのか、昼食なのか、ぼくにはよく分からなかった。大みそかの夜は明け方まで起きていて、夜が白々と明け始めるころになって、ようやく床に入るのが春節を迎えるための中国の伝統的な習慣だからだ。起きる時間が遅いので、朝食と昼食は、たいてい、いっしょに食べることが多い。
ぼくがダイニングルームに入っていくと、ぼくの目に真っ先に留まったのは、馬小跳のお父さんの姿だった。お父さんはとても風格にあふれる人で、ユーモアも解する人だ。馬小跳が子どもらしい純粋で無垢なにおいがするのは、こんなお父さんがいたり、子どもの気持ちがよく分かる優しいお母さんがいることがすべてだと、ぼくは思った。
お父さんは、ぼくに気がつくと、びっくりしたような顔をしていた。でもすぐに、にこやかな笑みを浮かべながら、ぼくを抱えて、テーブルのうえに載せた。ぼくは腹ばいになって、お父さんや、お母さんや、馬小跳に、新年のあいさつをした。
お母さんがぼくの前に皿を置いて、いろいろな料理を盛ってくれた。ぼくが大好きな食べ物がたくさんあったので、どれから食べようかと思って目移りがして、なかなか決められないほどだった。
馬小跳のテーブルの前に赤い祝儀袋が二つ置かれていた。お父さんとお母さんからもらったのだろうと、ぼくは思った。馬小跳がお父さんとお母さんに新年のあいさつをして、そのあと、お父さんとお母さんが馬小跳にプレゼントしたもので、袋のなかにはお金が入っているはずだ。
「笑い猫も、ぼくたちに新年のあいさつをしてくれたから、赤い祝儀袋をやろうよ。袋のなかに何を入れたらいいかな」
馬小跳が、はたと困った顔をしていた。
「お金をやっても意味がないしな。それこそ『猫に小判』だよ」馬小跳は思案に思案を重ねていた。
そのときお父さんが、にんまりして
「お父さんはもうすでに笑い猫にやる祝儀を、ちゃんと用意しているよ」
と言った。お父さんはそう言うとダイニングルームから出ていって、しばらくしてから戻ってきた。手に赤い祝儀袋を持っていた。
「なかに何が入っているの」
馬小跳が聞いた。お父さんは、にやにや笑っているだけで何も答えなかった。業(ごう)を煮やした馬小跳は、お父さんが持っていた祝儀袋をひったくるようにして奪い取った。馬小跳は気もそぞろに袋を開けて、なかを見た。すると何と、袋のなかにはマスクが入っていた。それを見て馬小跳は思わず笑いが噴き出していた。お父さんはユーモアにあふれる人だということは馬小跳は知っていたが、まさか笑い猫にマスクをプレゼントしようとは思ってもいなかった。お父さんならではのユニークな発想に基づいた意外なプレゼントを見て、お母さんも、思わず噴き出していた。ぼくもおかしくてたまらなかった。でもお父さんの気づかいが、とてもうれしかった。
「よく、こんなことを思いつくね、お父さん。でも今年の春節のプレゼントには、これがいちばんかもね」
笑いが止まらないような顔をしながら、馬小跳はお父さんのプレゼントに賛意を表していた。
「私もそう思うわ。それにしてもお父さんの発想はすごい」
お母さんも、そう言って、お父さんの奇抜な思いつきをほめちぎっていた。
馬小跳やお母さんから、ほめちぎられたお父さんは照れくさそうな顔をしていた。
お父さんはそれからまもなくマスクの果たす役割の大きさについて、とくとくと話し始めた。
「『新型コロナウイルス』は、長い潜伏期間を経て、感染が広がっていくし、誰が感染するかどうか誰も分からない。でも感染者が出始めたら、みんながマスクをすることで感染拡大を抑えることができる。動物だってマスクをする必要がある」
お父さんの説明が終わったあと、お母さんが、ぼくにマスクをしてくれた。マスクの両側についているゴムひもを耳にかけて、口と鼻がしっかり隠れるように顔にぴったりかけてくれた。
「猫にも感染するの」
マスクをしたぼくの姿を見て、馬小跳が、けげんそうな顔をしていた。
「それは何とも言えないが、家を出るときは、みんなマスクをするように心がけることが大切なんだ」
お父さんがそう答えた。
「笑い猫がマスクをしているのを見たら、どんな効果が生じるか、ちょっと考えてみろよ」
お父さんがそう聞いた。馬小跳とお母さんが考え始めた。ぼくも考えた。しばらくしてからお母さんがふっと思いついて考えを述べた。
「『視覚に訴える効果』がすごくあると思うわ。笑い猫は『歩く広告塔』になって、(へえ、感心な猫)と思う人がたくさんいると思うわ。マスクをするための宣伝効果が抜群にあって、マスクをする人が増えていくわ。笑い猫はマスコミやインターネットでも取り上げられて、世界全体に、ほのぼのとした話題を提供して、人類に多大な貢献をすることができるわ」
お母さんは夢を膨らませていた。熱のこもったお母さんの話に、馬小跳も、お父さんも、ぼくも静かに耳を傾けていた。
「まさに、そのとおりだね。お父さんもお母さんも、すごい」
お父さんとお母さんがそこまで考えていたとは、馬小跳は思ってもいなかったので、すっかり感心していた。
「宣伝効果を考える天才的な才能が、お父さんにはあるわ。私以上だわ。完全に一本取られたわ。まいった」
お母さんがそう言って、お父さんに親指を立てて、賞賛しながら笑顔を浮かべていた。お母さんは、ショーウィンドーの飾りつけを仕事にしているプロのデザイナーだが、そのお母さんでさえも、すっかり、かぶとを脱いで、お父さんに一目置いていた。お母さんが話し終えると、馬小跳がぼくに
「お前はこれから『歩く広告塔』になるんだぞ。しっかり宣伝するんだよ」
と言って、ぼくを抱えて、玄関を出て、エレベーターに乗せてくれた。