マスクをした猫

第二十章 学校が始まる

天気……春と夏の境はどこにあるのだろうか。ぼくにはよく分からない。春はいつ終わり、夏はいつから始まるのだろうか。五月になると、日差しが強くなるので、春というよりも初夏に近い日もある。ぼくの感覚では、杜真子がミニスカートをはくようになった日から夏が始まると思っている。

五月になって、かぐわしいバラのかおりが、どこからともなく漂ってくるようになった。艶やかで、みずみずしい朝露がついているバラの花が、互いに美を競い合うようにして、公園のあちこちに、たくさん咲いている。真っ白いクチナシの花も咲いている。かんばしい花のにおいが初夏の清々しい朝風のなかに、静かにとけ込んでいて、日が高く昇るにつれて、あたり一面にぷんぷんと強いにおいを放っていた。
ぼくと妻猫がちょうど朝ご飯を食べていたとき、妻猫が、はっとして耳を立てた。
「お父さん、聞き覚えのある足音が近づいてきているわ」
妻猫がそう言ったので、ぼくはご飯を食べるのをやめて、耳を地面にぺたっとつけて、音を聞いた。
「馬小跳だ。馬小跳が来ている」
ぼくは思わず歓喜の声をあげた。
馬小跳や、杜真子や、馬小跳の友だちは、これまでいつも翠湖公園に来て、ぼくと妻猫にキャットフードを与えてくれた。しかし、コロナ禍の影響で最近はここへ来ることができないでいた。馬小跳がここへ久しぶりに来て、ぼくと妻猫に、おいしい食べ物を与えてくれるのだ。そう思うと、馬小跳の足音を聞いて、ぼくはうれしくてたまらなかった。
馬小跳や、馬小跳の友だちや、杜真子の歩き方には、それぞれとても特徴がある。足音を聞いたら、誰の足音なのか、ぼくには、はっきりと聞き分けることができる。馬小跳の歩き方は軽やかで、跳びはねるような歩き方。唐飛の歩き方は暗くて、のろのろした歩き方。張達の歩き方は勢いよく突き進むような歩き方。毛超の歩き方はずるずると引きずるような歩き方。杜真子の歩き方はしなやかな歩き方。それぞれの性格の違いが歩き方の特徴によく出ている。
馬小跳の足音を聞いたぼくは、居ても立ってもいられなくなったので、脱兎(だっと)の勢いでうちを飛び出して、馬小跳を出迎えに行った。はるか遠いところに、馬小跳がキャットフードを肩に担いで、こちらに近づいてきている姿が見えた。馬小跳は、ぼくに気がついて、走るようにして、ぼくに近づいてきた。ぼくも馬小跳のすぐそばまでかけていった。
「笑い猫、久しぶりだなあ。元気だったか」
馬小跳は、膝を曲げて、しゃがみ込むと、ぼくの頭を、そっと、なでてくれた。
そのあと、すぐに『だだだだー』という勢いのある足音が聞こえてきた。
(張達だ。張達もここへ来たのだ)
ぼくはそう思った。
「馬小跳、久しぶりだな」
「張達、会いたかったぞ」
二人はそう言って、抱き合っていた。顔と顔を、くっつけて、目をつむって感慨に浸りながら抱き合っていた。それからまもなく毛超がやってきた。馬小跳と張達は、そのときも目をつむったまま抱き合っていたので、毛超が来たことに気がつかないでいた。
「お前たちに会いたくてたまらなかったよ」
毛超が親しみのこもった声で、馬小跳と張達に呼びかけていた。
「この前会ってから何ヶ月ぶりかなあ。年が明けてから今日まで会えなかったから、三ヶ月ぶりだな。長かったよ。一日千秋の思いで待っていたよ……」
毛超はそう言ってから、馬小跳や張達と、かたく抱き合っていた。それからまもなく唐飛がやってきた。馬小跳と張達と毛超は、目をつむって感慨に浸りながら抱き合っていたので、唐飛が来たことに気がつかないでいた。唐飛は涙もろいところがあるので、目の前で三人が抱き合っているのを見て、涙腺が緩んできて、涙が、ぽろぽろと出てきた。唐飛がしくしくと泣いているのを見て、馬小跳たちは唐飛に気がついて、唐飛をきつく抱きしめた。唐飛の涙が馬小跳たちの涙を誘って、男の子たちは、みんな涙を流しながら、久しぶりに会えた喜びに浸っていた。幼いころから仲のよかった友だちと長い間会えなかった寂しさから、やっと解き放たれたので、馬小跳たちは心ゆくまで涙を流しながら、きつく抱き合ったり、心に積もっていたやるせない思いを吐露したりして、時間がたつのも忘れるくらいでいた。長い間会えなかったために、心と心の結びつきは、かえって強くなっていて、馬小跳たちは友情の絆(きずな)を、これまで以上に固く結びつけていた。
「はやく学校が始まらないかなあと、おれは毎日思っていたよ。ようやく明日から始まるんだね」
馬小跳が心を弾ませていた。
「本当に一日千秋の思いで、おれも待っていたよ。毎日、うちのなかにじっとしているのは気がふさぐし、もう少しで病気になるところだったよ」
毛超の顔には安堵感が漂っていた。
「学校が明日から始まるので、今日は何かして盛大に祝福しようよ」
張達が提案した。
男の子たちは、話せば話すほど気分が高揚してきて、楽しさに浮かれていた。唐飛は話の輪から、少し離れていて、心ここにあらずといった顔をして、さっきからずっと、公園の東門を見ていた。杜真子が公園に来るときは、いつも東門から入ってくるからだ。
馬小跳がそれに気がついて、わざと唐飛の視線をさえぎってから、
「お前はしばらく見ないうちに、また太ったんじゃないか。目方は今どれくらいあるんだ」
馬小跳が唐飛の気持ちを、そらすようにそう言った。
「杜真子はどうしてまだ来ないのだ」
唐飛は、とんちんかんな答をした。
「九時に来ると言ったんだろう。もうすでに九時二分だよ」
唐飛の心は杜真子から離れることができないでいた。
ぼくが知っているところでは、杜真子は約束の時間をきちんと守る女の子なので、九時に来ると言ったのなら、もうすでに公園に来ているはずだ。ぼくは急いで地面に耳をくっつけて杜真子の足音がするかどうかを聞いた。すると杜真子の足音が聞こえていて、だんだん大きくなってきた。ぼくは杜真子が来ているほうに向かって、飛ぶように速くかけていった。唐飛も、ぼくのあとから、ついてきた。杜真子の姿が見えた。手に大きなかごを持っていた。ぼくに気がついて、杜真子がぼくのほうにかけてきた。ぼくも杜真子のすぐそばまでかけていった。杜真子はかごを下に置いて、両手を伸ばして、ぼくを高く抱き上げてくれた。
「笑い猫、会いたかったわ。毎日、お前のことを思っていたわ。お前も私のことを思っていてくれたの」
杜真子はそう言って、ぼくを高く抱えたまま、くるくる回した。杜真子はそのあと、ぼくの顔に、ほおずりをした。ぼくへの熱い気持ちが、ほおずりから伝わってきたので、ぼくはとてもうれしかった。ぼくも、もちろん、杜真子のことを毎日思っていた。その気持ちを伝えたいと思ったが、杜真子には、ぼくの言葉が分からないので、ぼくは杜真子の顔を愛情をこめて、ぺろぺろなめて気持ちを伝えた。
それからしばらくしてから、ぼくのあとから走って追いかけてきた唐飛が追いついて、ぼーっとした顔をして突っ立ったままでいた。久しぶりに杜真子に会えて、感激のあまり、筆舌に尽くしがたい思いが生じていたのかもしれない。杜真子に言葉をかけるのも忘れて、鼻をずるずるいわせて、唐飛はまた、うれし涙を流していた。
「唐飛、久しぶりね。元気だった。唐飛が今、何を一番思っているか、私、分かるわ」
杜真子がそう言ったので、唐飛は、杜真子への熱い思いを見抜かれたのかと思って、少し照れたような顔をしていた。
「唐飛が今、一番思っているのは、私が作るポテトサラダをまた食べたいことでしょう」
杜真子が軽口をたたいた。
「そう、そう、その通り。ぼくが今、一番思っているのは、いとこが作るポテトサラダ」
唐飛はそう答えた。
このとき、馬小跳と毛超と張達も走り込んできた。唐飛が杜真子のことを、いとこと呼ぶのが馬小跳の耳に入った。普段なら、馬小跳はむっとして、唐飛と、取っ組み合いのけんかをしていたかもしれない。でも今日は久しぶりに会うことができた喜びに浸っていたので、波風が立つのを避けて、黙認することにしていた。杜真子は、馬小跳のいとこだが、唐飛のいとこではない。でも馬小跳は今日は唐飛の言ったことを大目に見ることにしていた。
杜真子の家と馬小跳の家は親戚である。杜真子のお母さんと馬小跳のお母さんは実の姉妹だからだ。でもお母さんたちも、この三ヶ月間、コロナ禍で会っていなかった。大みそかの年越し料理は、例年なら、親戚一同が集まって食べるのが、この国の習わしだが、この前の大みそかはコロナ禍のために、集まることができなかった。それでも血のつながりがある親戚同士の結びつきは切っても切れないほど強いので、会えない期間が長くなればなるほど、親戚同士の結びつきはますます強くなっていくばかりだった。
杜真子と馬小跳は、いつもは、ああだ、こうだと言って対立することが多いが、今日は、いつもとは違っていた。久しぶりに会ったことで、お互いに懐かしく思って、我を張らなかったためかもしれない。でも、ぼくは、本当は杜真子も馬小跳も互いに好きであることを知っている。それなのに普段はどうしてよく喧嘩(けんか)ばかりするのか、ぼくにはどうしても分からないでいる。
「明日から学校が始まるので、今日はここで野外料理を食べたり、おいしいものを飲んだりして、楽しいひとときを過ごして、前祝いをしましょうよ」
杜真子が提案した。すると毛超が異を立てた。
「何もないじゃないか。どうやって前祝いをするんだよ」
「私が持ってきたわ」
杜真子はそう言って、かごを指さした。それを聞いた毛超が、かごをさっと開けた。
「なーんだ、みんな笑い猫の食べ物ばかりじゃないか。猫用のビスケットに、猫用の缶詰、それから……、なんだ、これは」
毛超はかごのなかから、きれいな包みに包装された細長いものを取り出して、手に持っていた。
「それは猫用のおやつ。今は、これが一番、人気があるのよ」
「そうか、でも、まさか、おれたちが、これを食べるわけじゃないよね」
毛超が不安そうな顔をしていた。
「当たり前じゃない」
杜真子が、おかしそうに、くすくすと笑った。
「笑い猫、このおやつはとても、おいしいけど、くれぐれも一度に食べ過ぎないようにしてね。一度に食べ過ぎたら、おなかによくないからね。あくまでも、キャットフードを主食として食べるのよ。分かったわね」
杜真子が、そう言ったので、
「分かった、分かった」
と、ぼくはうなずいた。
ぼくと妻猫に与えてくれる食べ物をかごのなかから取り出すと、さらにその下に、密封された五つの箱があった。箱のなかには、杜真子が作ってきたポテトサラダが入っていた。コーラのアルミ缶も五個、かごの底に入っていた。それを見て、男の子たちはとても喜んでいた。
「やったー、杜真子、気がきくねー」
「杜真子、最高」
「杜真子、ありがとう」
「杜真子、大好き」
男の子たちは、みんな歓喜の声を上げていた。
杜真子と馬小跳と、馬小跳の友だちは、ぼくと妻猫の食べ物を、ぼくのうちまで届けてくれた。そのあと杜真子や、馬小跳や、馬小跳の友だちは、野外で食事をするための場所を探しに行った。楠の木がたくさん植えられていて、林のようになっているところで食事をすることに決めて、杜真子や馬小跳や、馬小跳の友だちは、そちらのほうに向かって行った。ぼくもあとからついていった。
途中で、ぼくの友だちの地包天の姿が遠くに見えた。ぼくに気がつくと、地包天はうれしそうに走ってきて、ぼくを迎えてくれた。ペキニーズ犬の地包天に会うのは久しぶりだった。ぼくもとてもうれしかった。
「笑い猫のあんちゃん、会いたかったわ。あんちゃんのことをずっと思ってたわ」
地包天が、懐かしそうな顔をして、そう言った。
「こんなに長い間、うちから出ることができなかったから、もう一生、あんちゃんと会うことはできないのじゃないかと、私はずっと思っていたわ」
地包天の目が、うるうるしているように見えた。
「そんなことあるわけないじゃないか」
地包天はいつもオーバーな言い方をするので、思わず苦笑させられる。地包天の目がうるんでいるのを見て、ぼくも知らず知らずのうちに、もらい泣きをした。
「ぼくと地包天は友だちだから、いつでも会えるよ。現に今、こうしてまた会っているじゃないか」
ぼくがそう言うと、地包天はうなずいた。
地包天の特徴は、大きくてきれいな尻尾(しっぽ)がついていることだ。地包天はその尻尾(しっぽ)を振りながら、一転して弾んだ声で言った。
「笑い猫のあんちゃん、黒衣のイケメンダンサーのことをまだ覚えていますか」
「うん、覚えているよ」
「彼がまた翠湖公園に戻ってきて踊るようになったの」
「そうか、それはよかったね」
「ええ、よかったわ。それ以来、私の飼い主の女の人は毎日、私を連れて、翠湖公園に来るようになったの。私は、あんちゃんと毎日、公園で会うことができるわ」
地包天の声が弾んでいた。
「そうか、それはよかったね。何もかもうまくいくようになってきて、よかったね」
ぼくはそう答えた。
世界の情況はともかく、この国では疫病は収束に向かっていて、世の中が平和な状態に戻りつつあることを知って、ぼくはうれしかった。
(地包天がもたらしてくれた朗報を、妻猫にも早く伝えなければ)
ぼくはそう思った。妻猫は黒衣のイケメンダンサーのとりこになっているから、ニュースを聞いたら、とても喜ぶだろう。これからはまた毎日、音楽を聞きながら、黒衣のイケメンダンサーの華麗な踊りを見て、楽しい日々を過ごすことができるだろう。そう思うと、ぼくもうれしくなった。ぼくは地包天にお願いして、ぼくのうちへ行かせて、妻猫に、福音を届けさせることにした。
地包天と別れたあと、ぼくは杜真子や、馬小跳や、馬小跳の友だちを追いかけて、楠の木がたくさん植えられている林へ行った。ぼくが林へ着くと、杜真子や、馬小跳や、馬小跳の友だちは、コーラのアルミ缶を手に持って、高く掲げながら、お祝いをしていた。
「ぼくたちの再会を祝って、乾杯」
「学校の再開を祝って、乾杯」
「疫病への勝利を祝って、乾杯」
「翠湖公園の開放を祝って、乾杯」
「隔離生活からの開放を祝って、乾杯」
杜真子や、馬小跳や、馬小跳の友だちは、時がたつのも忘れるくらいに喜びに浸っていた。