マスクをした猫

第一章 黒衣のイケメンダンサー

天気……ロウバイの花が咲いた。町全体に花の香りがほのかに漂っていて、厳寒の時季のうら寂しい風情を遠くへ追いやっていた。早春の太陽が喜びにあふれた顔をのぞかせていて、うららかな陽射しを浴びながら、日光浴を楽しんでいる人たちの姿が、町のあちこちで見られた。

ぼくはこの町に住んでいる人たちと同じように、晩冬から早春にかけての、ぽかぽかと暖かい日に日光浴をすることがとても好きだ。
ぼくは妻猫を誘って、ぼくと彼女が初めて出会った翠湖公園のなかにある草むした傾斜地へ行った。草はまだ枯れたままで黄色かったが、とても柔らかくて、ふかふかしていた。ぼくは草の上に寝そべって、昼下がりの暖かい陽射しをいっぱい浴びながら、楽しかった昔の思い出を妻猫と話しながら、うとうとして、いつの間にか眠り込んでいた。
「笑い猫のあんちゃん、あんちゃん」
ペキニーズ犬の呼ぶ声がかすかに聞こえてきた。ぼくのことをそう呼ぶのは地包天しかいない。
ぼくは、ぱっと目を開けて、声がしたほうを見た。やはり思っていたとおり、地包天だった。久しぶりに友だちに会えて、うれしくてたまらなかったので、ぼくは顔をほころばせて笑みを浮かべた。
「笑い猫のあんちゃん、私が赤い服を着たら、おかしくてたまらないでしょう」
地包天が恥じらいがちに、そう聞いた。
地包天は赤いどんすの生地に、白い毛糸で模様が織り込んである服を着ていた。
「もうすぐ春節だから、飼い主さんがこれを着せてくれたの。『赤い服を着たら、きっといいことがあるわよ』と言ってね」
地包天と飼い主の女の人は、互いに必要としあいながら仲良く暮らしている。いっしょに生活するようになってから、もう十年になるので、地包天は飼い主さんの言うことが大体、分かるようになっていた。ぼくは地包天と、もうずいぶん長い間、会っていなかったので、会いたいなと、ちょうど思っていたところだった。
「今日は天気がよいので、飼い主さんといっしょに翠湖公園へ散歩に来たのかい」
ぼくが聞くと、地包天は首を横に振った。
「いいえ、そうじゃないわ。飼い主さんはダンスをするために公園に来たの」
地包天が、ぼくの耳元に顔を寄せて、小声で、そう言った。
(そうか、それなら別に、不思議なことではないな)
と、ぼくは思った。この町では、翠湖公園に限らず、静かで広いところがたくさんあって、空いている場所があったら、ダンスをすることが許可されていた。ダンスをする人のほとんどは、地包天の飼い主さんと同じくらいの、やや年増の女性で、体は太めの人が多い。ダンスが好きというよりも、軽快なリズムの音楽に合わせて踊ることで体をシェープアップするためにダンスをしている人たちだ。そう思うと納得がいったので、ぼくは何も言わないで、ただ、うなずいただけだった。すると地包天が、けげんそうな顔をしていた。
「どうしてちっとも、おかしいと思わないの」
「だって、よくあることだからね。お前の飼い主さんが、つま先立ちで、くるくる回って、かっこよく踊るのなら話は別だけど」
ぼくはそう答えた。
地包天の飼い主の女の人は、背が低くて、太っているので、つま先立ちで踊ったら、不格好で、おかしくて笑いがとまらないが、そうでなかったら少しもおかしくない。
地包天はそれでもまだ、けげんそうな顔をしていた。
「翠湖公園に黒衣のイケメンダンサーが来て、ビッグニュースになっていることを、あんちゃん、知ってる」
「知らない」
ぼくは首を横に振った。公園のシンボルである白玉塔の下に広場があって、そこが踊り場になっていることは知っていた。でも最近、その広場が急に踊り場として使えないようにされたので、地包天の飼い主さんは、どこで踊っているのだろうか。ぼくは首をかしげた。
「私のあとについてきて」
地包天がそう言った。ぼくは妻猫といっしょに地包天のあとを追いながら、青空のもとに広がっている茶畑のほうに走っていった。
真冬の翠湖公園は、寒くて人もまばらだが、晩冬から早春にかけて天気がよくて晴れているときは、茶畑に来て、茶店でお茶を飲む人が、わりと多い。暖かい陽の光を浴びながら、ぺちゃくちゃと、おしゃべりをして、太陽が西の空に傾いて沈んでいくときまで、茶店で過ごして、そのあと、心が満たされたような顔をして、人々はうちへ帰っていた。 
地包天は、茶畑をぐるっと回り込むようにして、ぼくと妻猫を、茶畑の裏のほうに連れて行った。そこには玉石を敷き詰めた小さくてあまり知られていない隠れ道があった。隠れ道の両側には竹が茂っていて、うっそうとしていた。隠れ道をずっと走っていくと、奧の方から、かすかにきれいな歌声が聞こえてきた。歌声は谷川を流れる清水のように澄んで透き通っていた。ゆったりとして、おおらかな歌声が耳を心地よく、くすぐり、人の姿も、竹林の向こうに、ちらちらと見えたり隠れたりしていた。
細く延びている隠れ道をずんずん走っていくと、竹林は途切れて、急に視界がぱっと開けて、目の前に広場があった。広場には人がたくさんいて、女性が圧倒的に多かった。広場の真ん中にステージがあって、黒衣のイケメンダンサーが音楽に合わせて華麗に踊っていた。服もスラックスも靴もすべて黒で統一していた。
「あの人が、今、女性の心をとりこにしているイケメンダンサーよ」
地包天がそう言った。
「そうか、あの人か」
「ハンサムだし、ダンスも抜群に上手ね」
妻猫が目を細めていた。
「人が多すぎて、なかに入っていけないから、あんちゃんたちは木に登って見たらいいよ」
地包天が、ぼくと妻猫にうながした。
「お前はどうするのか」
木に登れない地包天のことを、ぼくは気づかった。
「私は八角亭に行くわ。あそこにはペットの犬がたくさんいて、みんなおとなしく、飼い主さんを待っているから」
地包天がそう答えた。
「分かった」
ぼくはうなずいた。
妻猫は音楽が好きだから、聞こえてくるきれいな音楽に耳と心をを集中させるために目をつむってから、うっとりとした顔をして音楽に酔いしれていた。
「早く木に登りなさいよ」
ぼくは妻猫をせかした。妻猫はぼくの言葉には、うわの空で、
「何という歌かしら、とてもいい歌ね」
と、言った。
「歌声はみんなふわふわとして、風に乗って上へあがっているから、木に登ったら、もっと気持ちよく感じられるよ」
妻猫を早く木に登らせようと思って、ぼくは口から出まかせに、いい加減なことを言った。
「分かったわ」
妻猫はそう答えて、すぐに木に登った。ぼくも木に登った。木の上からは広場やステージがよく見えた。ステージを注視している女性のなかには、熱い視線を送ったり、スマートフォンで写真を撮っている人がたくさんいた。
黒衣のイケメンダンサーが、一曲踊り終えると、観客は万雷の拍手を送った。それに応えるように彼は軽く会釈をしてから、観客に歩み寄って握手に応じていた。とてもさわやかで、魅力あふれるダンサーのように思えた。多くの熱狂的な女性ファンに、熱いまなざしで見つめられたり、囲まれても、舞い上がったところは少しもなくて、淡々としていたし、照れくさそうに、はにかんだりもしていた。
ミネラルウォーターを口に含んで、のどの乾きをいやすと、黒衣のイケメンダンサーは再びステージに立った。女性ファンの握手に応じたり、飲み物を口にしていたときの彼の姿は、明るくて、はつらつとした、かっこいい、普通の若者という感じだったが、ステージに立ったとたんに、感じが一変して、近寄りがたいほどのオーラがあって、高貴な王子様のような雰囲気を漂わせていた。
スマートフォンから、メルヘン的で美しい『雲は流れる』の音楽が流れ出すと、黒衣のイケメンダンサーは再び踊り始めた。 

水には雲の愛が注がれ
雲には水の心が映じる
水は雲から生まれ
雲はいつか水になる
雲は空を流れ
水は地を流れる
過去と今は美しく
とわに回っていく

風雅な雰囲気と伸びやかさにあふれた黒衣のイケメンダンサーの華麗な舞いは『雲は流れる』に込められた詩情と曲想を余すところなく、あでやかで、巧みに表現していた。あたかも雲の上からここへ降りてきた王子様のように神々しく舞い、しなやかさと、たくましさを兼ね備えた美しい舞いが観客を魅了していた。
「なんて綺麗なんだろう」
目をつむって音楽に集中していた妻猫が、目を大きく開けて、黒衣のイケメンダンサーの華麗な舞いに、魅入っていた。妻猫も女性たちと同じように彼の魅力のとりこになっていて、もう片時もイケメンダンサーから目を離すことができなくなっていた。
『雲は流れる』の曲が終わると、再び、観客の間から万雷の拍手が割れるように起きた。会釈をして観客の拍手に答えたイケメンダンサーは次の曲をスマートフォンにセットした。誰でもよく知っている『よい人はよい夢を抱いている』の歌が流れ出した。

心のなかであなたに誠意を尽くす
言葉に出さなくても
赤い糸の縁であなたを見守り続ける
人の感性はみな違い
人の世に情緒の種類はあまたある
されど私は一途にあなたに夢中になる
いつまでもあなたの幸せを心から願っている
よい人はよい夢を抱いている

黒衣のイケメンダンサーは、紛れもなく神性を帯びていて、体と心が一体となって、神々しいダンス表現ができる希有(けう)の踊り手だった。深い情がこめられたダンス表現は、この世には永遠不滅の真実の愛があることを人々にはっきりと伝えていた。見ていて、ぼくが最も陶酔させられたのは、彼の目の動きだった。体の動きにともなって自然に動き、純粋できらきらと輝いていた。目は心の窓であるが、彼の目には心が深く投影されていて、筆舌に尽くしがたいほど美しかった。
黒衣のイケメンダンサーの華麗なダンスに、息をのみながら魅入っていた観客は、やがて誰からともなく、イケメンダンサーの真似をして踊り始めた。踊っている観客のなかに地包天の飼い主さんの姿もあった。お世辞にもあまり上手とは言えなかった。手足の動きがまるっきり合っていなかったからだ。でも人の目は気にしないで、なりふり構わずに、一生懸命に踊っていた。飼い主さんの近くには、白髪の老紳士がいて、女性に混じって黒一点のように、遠慮がちにダンスをしていた。体の動きを見ていると、音楽の伴奏にまったく合っていなくて、ダンスをしているというよりも、太極拳をしているようにさえ思えた。でも笑う人は誰もいなかった。みんなイケメンダンサーの真似をして踊ることに夢中になっていて、人のことなど構っていられなかったからだ。観客はダンサーの体の動きを真似するだけでなくて、オーラのすべてを自分のなかに取り込もうとして、一心不乱になって踊っていた。イケメンダンサーの美しい踊りに感化されて、自分の心のなかにある思いを、このように昇華させて発散させたいと、みんな思っていたからである。黒衣のイケメンダンサーに観客が惹きつけられている最大の理由は、そこにあった。
やがて夕日が沈んで、空の色が暗くなってきたとき、イケメンダンサーは踊りをやめて、ステージを下りた。踊りを引き立てていた美しい音楽も聞こえなくなった。それからまもなく黒衣のダンサーは闇のなかに消えていった。観客も三々五々と連れ立って、広場から去っていった。地包天の飼い主さんも、八角亭に行って、そこで待っている地包天を連れて、うちへ帰ることにした。ぼくと妻猫は木から下りて、地包天の飼い主さんのあとについて八角亭に行った。
「笑い猫のあんちゃん、私は明日もここへ来るから、また会おうね。お昼の三時に来るわ」
地包天は尻尾(しっぽ)を振りながら、ぼくに別れのあいさつをした。
「うん、分かった。また会おう」
ぼくは笑顔でそう答えた。地包天の飼い主さんが地包天に、早く帰ろうと呼びかけているのが聞こえたので、地包天は「じゃあね」と言って、飼い主さんのほうに走っていった。途中で、振り返って、
「明日は傾斜地へ、あんちゃんを探しに行かないから、直接、この広場に来てね」
と、つけくわえた。
「うん、分かった」
ぼくは、そう答えた。
地包天の飼い主さんが、後ろを振り返って、地包天を見ていた。
「早く、行けよ。飼い主さんが待っているじゃないか。怒るぞ」
ぼくは地包天をせかした。
「大丈夫だわ。以前なら怒ったかもしれないけど、今は怒らないはずよ」
地包天は、そう答えて、ぼくの心配をまったく意に介していなかった。
「どうしてだよ」
ぼくには合点がいかなかった。
「ここに来て、黒衣のイケメンダンサーの真似をして踊るようになってから、性格が変わったからよ」
地包天が、うれしそうな顔をして、そう答えた。
「毎日が楽しくなったのか、いつもにこにこしているようになったわ。以前とは別人のようになっていることが、じっと観察したら、あんちゃんにも分かるわ」
地包天がそう言った。
「人の性格って、そう簡単に変わるものじゃないと思うけどな」
ぼくは半信半疑だった。
「そう思うのだったら、顔をあげて、飼い主さんの顔をじっと見てよ」
地包天が、ぼくをうながした。言われるままに、ぼくは顔をあげて、地包天の飼い主さんの顔をじっと見た。確かに顔の表情が以前とは明らかに違っていた。黒衣のイケメンダンサーの真似をして、踊るるようになっただけなのに、確かに大きな変化が生じていた。一番目につく大きな変化は、かりかりしないで見た目が優美になったことだった。