マスクをした猫

第十六章 陰湿な人ごころ

天気……昨夜は、小雨が一晩中、ぱらぱらと降っていた。春に降る雨は慈雨のように優しくて、大地にほどよい潤いをもたらして、万物の成長をうながしてくれる。一夜明けて、今日は朝から、うららかな行楽日和。柔らかな日差しをいっぱいに浴びて、翠湖公園には花々が咲き乱れて、百花繚乱の美しさに溢れていた。翠湖公園は町の中心部にあり、都市封鎖が解除されたばかりの町に、明るくて希望にあふれた春が再び戻ってきた喜びを抱いた人々の姿が次第にまた見られるようになってきた。花たちも人々の姿を見て、いつもの春が戻ってきた喜びを感じて、美を競い合うようにして咲き誇っていた。

翠湖に棲んでいる錦鯉にさらに元気を与えるために、ぼくと老いらくさんは売店にある錦鯉の餌を全部持ってきて、翠湖に投げ入れることにした。そうすることで、どれくらい多くの錦鯉の命を助けることができるだろうか。ぼくはそう思った。餌を盗むことに、気がとがめないこともなかったが、今はそれよりも錦鯉を助けることのほうが大事だと、ぼくは思った。老いらくさんも、そう思っていた。
「これは餌を盗む悪事ではない。功徳を施しているのだ」
老いらくさんがそう言った。ぼくは、うなずいた。
翠湖公園には橋が全部で十二あって、錦鯉は普段は、それぞれの橋の下に分散して棲んでいて、橋の上から人が投げる餌を食べて生活している。老いらくさんが昨日、そう教えてくれた。そこで今日は、十二の橋の下に行って、そこから餌をまくことにした。昨日と同じように万年亀の背中に乗せてもらって、橋を次から次に巡って、餌をまくことにした。老いらくさんのスケートボードに餌を載せて、売店から湖畔まで運んできて、しばらく待っていると万年亀がやってきた。ぼくが今日の計画を話すと、万年亀はうなずいてから、
「ここから離れるわけにはいかないなあ」
と言った。しかし、万年亀の心のなかには、ここで長く過ごすわけにはいかない気持ちがあるのが見て取れた。世界全体の平和をいつも視野に入れている万年亀にとって、疫病の感染情況を憂患に思っていたのだろう。
「せっかくこの国へ戻っていらっしゃったのだから、もうしばらく、ここで楽しい思い出を作ってくださいよ」
ぼくは万年亀にそう言った。万年亀は考えにふけっていた。
「大先生は、これまで長年、地球上で苦労を重ねてこられたから、しばらく、ここでゆっくりなさってくださいよ」
ぼくが重ねてそう言うと、万年亀は首を横に振った。
「世界全体に疫病がまん延している、この時期に、ゆっくり休んでなどいられないよ。わしは今、世界の感染情況が心配でたまらないのだ」
万年亀の顔が憂いに沈んでいた。
ぼくには返す言葉がなかった。万年亀はさらに話を続けた。
「西洋のなかには『新型コロナウイルス』は東洋の黄色人種だけが感染するものだと、偏見を抱いている国さえもある。その国の人たちは『新型コロナウイルス』に対して、傲慢な態度をとっていて、人から人に感染するものだとは思っていない。そのために人と人との密接な接触を避けることをしないし、外出するときにマスクをしない。医療スタッフや医療設備も十分に整っていない」
万年亀が、そう話した。万年亀の心のなかに暗雲が立ち込めているのが、ぼくには感じられた。
「わしが、これまで見てきたそれらの国では感染者の数や亡くなる人の数が、中国よりもすでにはるかに多くなっている。一般大衆だけでなく、貴族や、首相や、高級官僚や、芸能人も感染している。そのような情況なので、我々は世界的な視野に立って、人々の生命を尊び、慈しんでいかなければならない」
含蓄のある深い話に、ぼくは感服して聞き入っていた。疫病の感染情況が世界では、それほど深刻になっていることを、あらためて思い知らされたような気がした。
「他の国は、どうして、この国がウイルスの封じ込めに成功したのを見て、見習おうとしないのでしょうか」
ぼくは万年亀に再び聞いた。万年亀は次のように答えた。
「傲慢と偏見によって、その国の人たちは、疫病を封じ込めるための最良の時機を逸してしまったのだ。『新型コロナウイルス』は思いのままに世界全体に広がってしまったし、すでに収拾のつかないような深刻な状況にまで陥ってしまった。そのことに、わしはとても心を痛めている。しかし、それよりももっと、わしが心を痛めているのは、陰湿な人ごころだよ」
万年亀がそう言った。
「どういうことですか」
ぼくは万年亀に聞き返した。万年亀は次のように話した。
「『新型コロナウイルス』は、全人類にとっての敵であるが、西洋の国のなかには、ウイルスに抵抗することができない無能さを隠すために、よその国に責任転嫁をして罪をなすりつけたり、ぬれぎぬを着せている国もある。どの国が一番、風評被害を受けているか知っているか」
万年亀が、ぼくに聞いた。万年亀の憤懣(ふんまん)やるかたない表情を見て、
「もしかしたら、この国……ですか」
と、ぼくは、恐る恐る聞いた。
「そうだよ、まさにその通りだよ」
万年亀が悲憤慷慨(ひふんこうがい)していた。
「何て卑怯で恥知らずな」
ぼくは思わず激憤して、声を荒らげた。
「大先生は以前、おっしゃったじゃないですか、この国は疫病対策のための方策が最も英明であり、疫病を封じ込める力が最も強い国だと」
ぼくがそう言うと、万年亀はうなずいた。
「だったら中国はもうすでに『新型コロナウイルス』との戦いに勝った国だというべきだし、賞賛されることはあっても、けっして、罪をなすりつけられるべきではないと思います。一体どんな理由に基づいて、西洋の国は中国に汚名を着せるのでしょうか」
ぼくは興奮のあまり、取り乱していた。
「西洋の国のなかには、中国が世界全体に『新型コロナウイルス』を爆発的に引き起こした張本人だと考えている国もある」
万年亀がそう答えた。
「それは違うよ」
ぼくは即座に強く否定した。
「『新型コロナウイルス』が中国で初めて発見されて、感染者が増える前に、世界中にもうすでに、このウイルスに感染して亡くなった人がいたって、以前、大先生はおっしゃってたじゃないですか。その時にはまだ『新型コロナウイルス』だとは、はっきり分かっていなかったし、症状が流行性感冒と、あまり変わらなかったので、ただのインフルエンザだと思われていたって……」
万年亀が以前、ぼくに話してくれたことを思い出しながら、ぼくはそう言った。
「そうだよ、その通りだよ。わしは、自分の目で、じかに見てきた真実のことを話している」
万年亀は真剣なまなざしで、そう言った。
「この国には、わしが大好きな馬小跳や、胸襟(きょうきん)を開くことができるお前がいるが、だからと言って、けっして、この国の肩を持っているわけではない。真実を述べているだけだ」
万年亀の言葉には、せつせつとした思いがこめられていた。
「この国は本当に大したものだ。立派な国であるために、西洋の国のなかには、妬ましく思って、目の上のたんこぶや、目の敵(かたき)にしているところがある」
万年亀がそう言ったので、ぼくはやりきれない思いに駆られていた。
世界にはたくさんの国々があって、ぼくから見れば想像もつかないことがとても多い。しかし万年亀から見れば、世界の国々は一つの小さな地球村にしかすぎない。地球村には、いろいろな人がいるが、そのほとんどの人の性格のなかにある大きな欠点は、自己中心的で、嫉妬心が強いことだ。そのためにほかの人が正しく見えないし、中国が発展すれば発展するほど、西洋の国のなかには中国を目の上のたんこぶや、目の敵(かたき)にする国も自然と出てきた」
万年亀の話を聞いて、ぼくは納得がいった。
(そうか、中国の発展が著しくて、今ではアメリカに次ぐ世界第二の経済大国になったので、後塵を拝するようになった西洋の国のなかには、中国を嫉妬する国があって、そのために中国で功を奏した疫病の封じ込め対策を素直に見習おうとしないのか)
ぼくは、そう思った。
中国がまだ貧しかったころの話を、ぼくは以前、杜真子から聞いたことがある。それほど昔の話ではない。杜真子のお父さんやお母さんがまだ子どもだったころの話だ。今から三十年くらい前の話ということになる。その頃の中国は西洋とは比較にならないほど貧しかったそうだ。西洋では、どの家にもテレビがあったが、中国ではラジオしかなかった。西洋では、どの家にも車があったが、中国では自転車しかなかった。西洋では立派な高層マンションに人が住んでいたが、中国では粗末な小屋のような平屋住宅に人が寄り集まって住んでいた。西洋では牛乳や卵や牛肉や羊肉や鶏肉を日常よく食べたり飲んだりしていたが、中国では肉や牛乳をたくさん食べたり飲んだりすることはできずに、畑で取れた野菜を中心に栄養価値のそれほど高くない食べ物を、かろうじて食べていた。
そのことを万年亀に話すと、感慨深そうな顔をしていた。
「そうか、わずか三十年で、中国は大きく変わったなあ。日ごとに月ごとに変わった。天と地がひっくり返るほど変わった。ひと昔前とは比べものにならないほど変わった。新中国になって大きく発展した」
万年亀はそう言って、中国の進歩の速さに目を見張っていた。
「わしは今日もお前たちを手伝ってやろう」
万年亀はそう言って、錦鯉の餌まきを手伝ってくれることになった。ぼくと老いらくさんは万年亀の背中に乗って、翠湖にかかっている十二の橋の下まで行って、餌をまいた。錦鯉は以前棲んでいた場所で再び生活をすることができるようになった。昨日とは違って、餌を求めて一箇所に集まって押し合いへし合いしなくてもいいようになったので、錦鯉も喜んでいるように見えた。
餌をまくようになって、翠湖公園には、ぼくがこれまで気がつかないでいた、もうひとつの美しさがあることを今日初めて知った。十二の橋が公園に優美な彩りを添えていて、調和のとれた美しさを醸し出していたからだ。ぼくが暮らしている翠湖公園に新しい美しさを発見したので、ぼくの心は弾みかけた。でも万年亀が話してくれたことを思い出すと、翠湖公園の美しさにひたすら酔っているわけにはいかないと思った。万年亀も、きれいな湖のなかを泳ぎながら、あまり楽しそうな顔をしていなかった。でも万年亀は子どものにおいを嗅げば、心の痛みを癒すことができるので、今日もそうするのではないかと、ぼくは思った。子どものにおいを嗅ぐことが、万年亀にとって元気に生きていくための活力の素であり、これまでそうやって長く生きてきたからだ。
ぼくと老いらくさんを湖岸に下ろすと、万年亀の姿は、瞬く間に見えなくなった。
「あれっ、どこに行ったのかな」
老いらくさんが小首をかしげていた。
「もしかしたら馬小跳のうちへ行ったかもしれないよ」
ぼくは老いらくさんに、そう言った。
「そうだな。大先生は馬小跳が大好きだからな」
老いらくさんが、そう言ったので、ぼくはうなずいた。
「馬小跳の体についている子どもらしいにおいを嗅ぐことで、万年亀の気持ちがよくなることを、ぼくは願っています」
ぼくがそう言うと、老いらくさんが
「わしもそう願っている」
と答えた。