マスクをした猫

第十五章 万年亀の大先生

天気……春たけなわになった。桐の木は、すらりとして背が高く、空に向かって真っ直ぐに伸びている。枝には薄紫色の花がびっしりとついていて、今を盛りとばかりに咲き誇っている。桐の花は町全体に彩りを添えていて、コロナ禍で沈んだ町に元気を与えるかのように勢いよく上へ上へ向かって大きな円錐花序を作っている。

公園のなかは、あたり一面、春の色に染まっていて、さまざまな花が美を競い合うように、豪華絢爛たる競演を繰り広げていた。しかし花に誘われるようにして公園を訪れる人は、まだ誰もいなかった。以前はよく茶店にお茶を飲みに来る人がいたり、鳥かごを持ってきて鳥自慢をする人や、広場でダンスをする人や、散歩をする人がいたが、今は人影がまったく途絶えて、公園のなかは閑散としていた。みんなおとなしく、家のなかでじっとしていて、公園に行きたい気持ちをぐっと抑えているように思えた。賞賛に値する何と立派な心がけなんだろう。今が正念場だと思って、みんな国や社会のためを思って、気持ちを律している。
(何とけなげな人たちなんだろう)
ぼくはそう思うと、この町の人たちが、いとおしくてたまらなくなった。
公園がまだ閑散としているのは、致し方ないが、人が来ないことで、これまでなかった危機的な事態が公園で突如発生した。翠湖にいる錦鯉が飢えに瀕していたからだ。これまでは人が投げてくれる餌を食べて、丸々と太っていたが、今は人が誰も来なくなったので、ひもじくてたまらないでいた。なかには真っ白い腹を上に向けて、水面にぷかぷかと浮いている錦鯉もいた。それを見て、ぼくは居ても立ってもいられなくなったので、すぐに梅園までかけていって老いらくさんに報告した。
「老いらくさん、大変、大変。錦鯉が死に瀕しているよ。早く水辺に行ってみて」
ぼくは息せき切って、そう言った。
「そうか、それは大変なことになったな。食べ物がなくて、そういう事態が発生したのだ。行ってみるまでもないよ」
老いらくさんはそのように速断した。
「錦鯉はみな、人が投げてくれる餌を食べて大きくなってきたが、公園が封鎖されてから、もう一ヶ月以上にもなるからな。これから先、あとどれくらい公園が封鎖されていくのか知らないが、事態はもっと深刻になっていくだろう」
老いらくさんが沈痛な顔をしていた。
「錦鯉が死に瀕しているのを、手をこまねいて見ているわけにはいかないよ。何とかして助けてあげましょうよ」
ぼくは老いらくさんに、そう言って働きかけた。老いらくさんはうなずいた。
「分かった。じゃあ、これから、売店に行ってみよう」
老いらくさんが、そう提案した。
「錦鯉に餌を与える人はみな売店で餌を買っているから、売店に行けば餌があると思う」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね」
ぼくはうなずいた。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく湖畔にある売店までかけていった。売店はシャッターが下りていたが、老いらくさんは得意の知恵を働かせてよい方法を思いついた。シャッターの下を少し持ち上げて、隙間を作って、その隙間からなかに潜り込んでいった。カウンターの下に錦鯉の餌が入った袋が置かれているのが目についた。
「この袋を持ち出せば、錦鯉を助けることができるね」
ぼくは嬉々とした声で、老いらくさんにそう言った。
「そうだな。でもせっかく持ち出すのなら、わしの大好物であるソーセージも、ついでに持っていこうかな」
老いらくさんがそう言った。
「何を言っているんですか。今は錦鯉の命を助けることが先決でしょうが」
ぼくはすごい剣幕で老いらくさんの食い意地を圧倒した。
「早く、スケートボードを持ってきてくださいよ」
ぼくは老いらくさんをせかした。
「分かったよ」
老いらくさんはそう答えたが、それでもまだソーセージを持ち出さないことに未練を残しているようだった。
そのとき思いがけず、聞き馴染みのある声がした。
「その通りだよ。錦鯉の命を助けることが今は大事だよ」
何と万年亀がすぐ目の前にいた。ぼくはびっくりした。
「大先生、いつここへ戻っていらっしゃったのですか」
ぼくは目を丸くして、そう聞いた。
「錦鯉の命が危ないことを知って、今戻ってきたばかりだ。さあ、早く、わしの背中に錦鯉の餌を載せなさい。手伝ってあげるから」
万年亀がそう言った。
ぼくと老いらくさんは万年亀に言われる通りに、万年亀の背中に錦鯉の餌を載せた。たくさん載せたので、万年亀はきつそうな顔をしていたが、それでも四つの丈夫な足で踏ん張って、そろそろとした足取りで湖畔まで歩いていった。
湖畔に着くと、ぼくは餌の入った袋を、爪でひっかいて破った。老いらくさんが、そのあと餌を湖のなかにまき始めた。
「こーい、来い、来い」
老いらくさんが、錦鯉に、そう呼びかけながら、餌を投げると、たくさんの錦鯉がわあっと集まってきて、餌にありつこうして、押し合いへし合いのパニック状態になった。翠湖にいる錦鯉が全部集まってきているのではないかと思われるほどの大パニック状態に陥っていた。赤い鯉もいれば、白い鯉もいれば、黄色い鯉もいれば、まだら模様の鯉もいた。目の前に、目がちらちらするほど様々な錦鯉が、うず高く重なるほどに集まっていたので、ぼくはびっくりした。
(錦鯉たちは、よほどおなかをすかしていたのだろうなあ)
ぼくはそう思った。
「これじゃあ、だめだよ。餌にありつけない鯉も出てくるよ」
万年亀が心配そうな顔をしていた。
「鯉たちをいくつかのグループに分けなければだめだよ」
万年亀が提案した。
「どうやって分けるのですか」
ぼくは万年亀に聞き返した。
「わしにいい考えがある。わしの背中に乗りなさい」
万年亀はそう言って、ぼくと老いらくさんが、万年亀の背中に乗るようにうながした。言われる通りに、ぼくと老いらくさんは万年亀の背中に乗った。
「これから湖のなかを船のように進んでいくから、落ちないように気をつけながら餌をまいてくれないか」
万年亀がそう言った。
「分かりました」
「はい、そうします」
ぼくと老いらくさんは、そう答えた。
それからまもなく、万年亀は湖岸を離れて、湖のなかをゆっくりと進んでいった。ぼくと老いらくさんが後ろを振り返ると、たくさんの錦鯉があとに続いて来ているのが分かった。色とりどりの錦鯉が長い列をなして、後から後から、途切れることがなく、川の流れのように続いていた。
(何と壮観な眺めなんだろう)
きちんと隊列を作って、延々と続いている錦鯉の姿を見て、ぼくは一種の感動にも似たような熱い思いを感じていた。
万年亀の四つの足は本当に太くて丈夫なので、まるでスクリューのように力強く、水を蹴って推進していった。ぼくと老いらくさんは、万年亀の背中の上から、力いっぱい、餌をまいた。水の上に、餌がぷかぷかと、たくさん浮いていたので、錦鯉たちは餌を奪う合うこともなく、自然と分散して、餌を食べ始めるようになった。
ぼくと老いらくさんは、夢中になって、餌をまいた。餌の量が多すぎたので、時間がたつとともに少し疲れてきた。ぼくは老いらくさんに聞いた。
「それにしても錦鯉がとても多いですね」
「そうだね、いつもは十二の橋の下に分散して泳いでいるが、今は橋の上に人がいないので、餌がもらえないから、錦鯉たちはみんな、ここに集まってきているんだよ」
老いらくさんの説明を聞いて、ぼくはようやく合点がいった。
ぼくが翠湖公園で生活するようになってから、もうずいぶんたつが、そのほとんどの時間を妻猫といっしょに暮らしてきた。ぼくと妻猫は、老いらくさんのように一日中、翠湖公園のなかをぶらぶらとしているわけではない。そのために老いらくさんのように、翠湖公園のことを一から十まで知っているわけではない。その点、老いらくさんは翠湖公園のことを隅から隅までよく知っている。一木一草や、風景のすべてをとてもよく知っている。本当に感心させられる。
万年亀は、餌を全部まき終えたぼくと老いらくさんを湖岸に下ろすと、再び背中に乗せて、老いらくさんのうちがある梅園まで連れていってくれた。万年亀はぼくに以前、ロウバイの花が好きだと話してくれたことがあった。老いらくさんもロウバイの花が好きなので、ロウバイの木がたくさんある梅園は、万年亀にとっても、老いらくさんにとっても、心が安らぐ場所なのだろうと、ぼくは思った。梅園に着くと、万年亀が、がっかりしたような顔をしていた。
「おお、残念……、ロウバイの花はもうすっかり、しおれてしまっている。この前来たときは、ちょうど花の盛りで、いいにおいがぷんぷんしていたのに……」
万年亀は悲愁に沈んだ声でそう言った。
万年亀は甲羅のなかから首をにょっきり出して、かすかに感じられるロウバイの残り香のにおいを、鼻でくんくん嗅いでいた。
「大先生、これまで、どこにいらっしゃったのですか」
ぼくは万年亀のすぐ前に腰を下ろして聞いた。
「たぶん地球のあちこちに出かけられて、いろいろなことを見たり聞いたりなさったと思います。ぼくや老いらくさんに、それらを話していただけませんか」
ぼくが万年亀にそう言うと、万年亀は、うなずいた。
「わしはこれまで世界の各地を回って『新型コロナウイルス』の感染情況を見てきたが、多くの国で歯止めが効かないほど深刻な情況に陥っている」
万年亀は沈鬱な表情でそう言った。
「今の世界の情況は、かつての世界大戦の時よりも、ある意味では、もっとひどい情況になっていると言える」
万年亀が悲嘆に暮れていた。
「そんなにひどい情況になっているのですか」
ぼくが聞くと、万年亀が、やるせない顔で、うなずいた。
戦争よりもひどい情況になっているとは思ってもいなかったので、ぼくは自分の耳をにわかには信じられないほどだった。
「大先生は以前、ぼくに、『この国はしっかりと感染拡大の防止対策がなされているから、大丈夫だよ』と、おっしゃったじゃないですか。ぼくもずっとそう思っていました。ウイルスを研究する専門家である杜真子のお父さんもW市から帰ってきたので、この国では疫病は収束したと思っていました。でも杜真子のお父さんはうちへ帰ってくるとすぐにまた外国へ医療支援に行ったので、外国ではまだ感染情況が収束していないのではないかと思いました。でもまさか世界大戦よりも、ひどい情況だとは思ってもいませんでした」
ぼくは万年亀にそう言った。
万年亀は、うなずいた。
「そうか、そうだったのか。世界には感染情況が深刻な国がまだたくさんある。わしは、今、そういった国を視察してきたばかりなんだ」
万年亀が、そう言った。
「わしがここを離れたとき、『新型コロナウイルス』はもうすでに地球上にまん延していて、感染したり、亡くなったりする人がたくさんいた。しかし誰もみなこれが新型肺炎だとは思っていなくて、ただの流行性感冒だと思って、それほど重要視していなかった。それが原因で、こういった深刻な情況が世界中にもたらされたのだ」
万年亀の話に、ぼくはうなずいた。
「確かにその通りだと思います」
ぼくは相づちを打った。ぼくの顔を見ながら、万年亀は、さらに話を続けた。
「この国のW市で、世界で最も早く、これはただの流行性感冒ではなくて、人から人に感染する新型肺炎であることが判明した。そのためにすぐに都市封鎖をおこなったので、疫病の感染拡大を封じ込めることに成功した。偉いよ、この国は。この国で生まれたお前は運がよかったんだ。何しろ、この国は世界で一番、安全な国だからな」
万年亀は、そう言った。
それを聞いて、ぼくは、うれしかった。でもどうしても、納得のいかないことがあった。ぼくは万年亀に
「この国では、疫病の感染拡大を封じ込めることに成功したのに、ほかの国ではどうして、この国を見習おうとしないのですか」
と、素朴な疑問を投げかけた。
「お前の言う通りだよ。それは誰にでも分かる簡単な道理だよ。しかしな……、世界にはたくさんの国があって、どの国にも独自の文化や国民性があるし、人々の生活習慣や考え方が国によって異なっている。自由であることが何よりも大切であるという意識に基づいて行動する人がとても多い。そのために都市封鎖や家に閉じこもったり、マスクをすることに気が進まない人たちがたくさんいる。この国では自由であることよりも、人々の生命が何よりも大切であるという意識に基づいて行動する人がとても多い。都市封鎖と言われたら、すぐにそうするし、家でじっとしていろと言われたら、すぐにそうする。外出するときはマスクをするようにと言われたら、すぐにそうする。みんなが心を一つに合わせて、ウイルスに立ち向かっているので、こんなに早く疫病の感染拡大を封じ込めることができたのだ」
万年亀は、そのように説明した。ぼくは静かに耳を傾けていた。
万年亀は世界の国々の実情を、とてもよく知っている。名前の通りに、一万年以上も生きてきたし、世界のありとあらゆるところへ行ったことがあるので、話すことに偽りはない。ぼくの『隠れ友』である老いらくさんも、長く生きていて、話すことに偽りはない。老いらくさんは翠湖公園のことを何でも知っているが、万年亀は地球全体のことをよく知っている。どちらも互いの生活圏に詳しいので、本当に頭が下がる思いだ。万年亀には神通力があって、神業(かみわざ)のようなことができるので、翼はなくても空を飛んだり、急峻(きゅうしゅん)な山を越えたり、広い海を渡って、外国へ行くことができる。一日に一万里を移動できるすぐれた技術も身につけている。そのために午前中、東洋にいたかと思えば、午後には西洋にいたりする。昼は北半球にいたかと思えば、夜は南半球にいることもできる。今回、疫病が世界全体で猛威を振るっているなかで、万年亀は毎日、疫病の感染情況が深刻な国へ奔走しながら、情況を視察している。そのために万年亀は疫病に対して最も公正な立場から見ることができる生きた証人であり、話の一言一言が、すべて貴重な忠告であり、ぼくの心に深く刻みつけられていった。