マスクをした猫

第十四章 大地に春が帰ってきた

天気……春の柔らかな日差しのなかで、優しげな微風が吹き、そのなかを、細かな雨が慈雨のように大地を潤し、草木が、もこもこと成長していく、かすかな音が聞こえたような気がした。

元宵節が過ぎて春節の休みも終わった。しかしこの町にある学校はまだ始まっていない。大学も高校も中学校も小学校も幼稚園も授業はまだ始まっていない。臨時休校のために校門は固く閉ざされていて、校内は閑散としていて、猫の子一匹人影が見当たらない。学校に行けない子どもたちは家でオンライン授業を受けていた。
杜真子からこの前もらったキャットフードは、もうほとんど底を突きかけていたので、補給しなければならなかった。杜真子も心配しているのではないかと思った。でも今は何と言っても非常事態なので、これまでのように杜真子が、ぼくたちのうちまで持ってくることはできない。そう思ったので、ぼくは杜真子のうちへ行って食べ物をもらってくることにした。と言っても、もちろん、ぼくが杜真子のうちへ行く本当の理由は食べ物の補給ではない。杜真子に会いたいから行くのだ。食べ物の補給は、あくまでも会いにいくための口実に過ぎない。
杜真子のうちからキャットフードを運んでくるためには、老いらくさんが持っているスケートボードに載せてくるしかない。前回もそうやって運んできた。
しかし妻猫は、ぼくがスケートボードを誰から借りたのか、知らないでいる。ぼくがまだ話していないからだ。もちろん、これからも話すことはできない。妻猫が老いらくさんにネズミのにおいを感じたら、飛びかからないとも限らないからだ。猫とネズミはそういう関係にあることが普通であることを、ぼくも知っている。ぼくと老いらくさんの親密な関係は常識では考えられない特別な関係であり、公には堂々と言えない『隠れ友』の関係なのだ。ぼくと妻猫の間に秘密は、ほとんどないが、これだけはどうしても言うことができないでいる。スケートボードが誰のものなのか、ぼくが言わないので、妻猫はけげんそうな顔をするが、それでもぼくのことを深く信じているので、それ以上、深く追及しないので、妻猫は本当によいパートナーだ。
ぼくが梅園に来ると、ロウバイの花はもうすべてしおれていた。しかしまだ残り香が、ほんのりと漂っていた。
老いらくさんはちょうど今、朝食をとっているところだった。老いらくさんに言わせれば、朝食ではなくて、朝のディナーをとっているところだった。ぼくがこれまで老いらくさんに「朝食はすみましたか」と聞くたびに、おいらくさんは顔をしかめて「『朝のディナーはすみましたか』と言いなさい」と、指摘されたことが何度もあった。そのほうが丁寧な言い方だからだろうか。老いらくさんはスケートボードを食卓代わりに使っているし、格子模様のついたテーブルクロスを、その上に敷いて、ナプキンをして行儀よく食べるので、朝食ではなくて、朝のディナーをいただくという意識があるのかもしれない。ぼくはそう思った。老いらくさんが今日食べている朝のディナーは、元宵節の日に、ぼくが馬小跳のうちからもらってきたソーセージだった。生鮮品を何日も食べることができるのだろうか。ぼくはそう思ったので、老いらくさんに聞いた。
「大丈夫だよ。食べ物が悪くならないように保存するためには、ちょっとした秘訣があるんだ。わしは、その秘訣を知っている専門家だよ」
老いらくさんはそう言って、ぼくに保存の秘訣を教えてくれた。
「ソーセージを密封して缶に入れて、地下に埋めておけば一年たっても悪くならない。冷蔵庫に入れるよりもずっと長い時間、新鮮さを保つことができる」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか……、それなら、ぼくにもできそうだ。試してみようかなあ」
ぼくはそう答えた。
老いらくさんは生活に対する取り組み方がとても真摯なので、どのような情況のもとであっても、知恵を働かせて、うまくやっていけるだけの処世術を身につけている。老いらくさんの処世術に、ぼくは敬服せざるを得ない。たいしたものだ。ぼくはそう思った。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく、スケートボードを引きずりながら、翠湖公園を出た。
春節の前と比べると、疫病の感染情況は抑えられていて、徐々によい方向に向かってきていた。とは言え、今もまだ外出するときは必ずマスクをしなければならないことに変わりはなかった。ぼくと老いらくさんは、これからも毎日、マスクをして大通りや路地を歩いて、マスク着用の街頭宣伝をおこなうことにした。
杜真子のうちへ行くのは午後からにした。午前中は杜真子が自宅でオンライン授業を受けているので、授業の妨げにならないようにするためだ。午前中、ぼくと老いらくさんは、どんどん歩いて錦江の川のほとりまできた。川沿いに植えてある木は、どれもみな大きくて、枝には葉がびっしりと茂っていた。木の枝先はみな川面に垂れていて、川沿いに長く延びている小道は緑陰に包まれていた。枝葉の間を縫うように木漏れ日が射し込んでいて、川の水はきらきらと輝いていて、独特の風情にあふれていた。
大地に再び春が巡ってきた。丹頂鶴が遠いところから帰ってきて、翼を広げて、水面すれすれに滑走してから空に舞い上がったり、川のほとりの大きな木の上に止まって休んだりしていた。丹頂鶴の優雅な姿を見ながら、ぼくは老いらくさんに聞いた。
「鶴たちは今、世界中で、とても恐ろしい疫病が流行していることを知っていると思いますか」
老いらくさんはうなずいた。
「もちろん知っているさ。お前も知っているし、わしも知っているからな」
「そうですね」
ぼくは相槌(あいづち)を打った。
「鶴たちが楽しそうに飛んでいるのは、今度の疫病はもうすぐ収束することを教えているのではないかな」
老いらくさんがそう言った。ぼくにもそのように思えた。
午後四時を過ぎたころ、杜真子のオンライン授業はもうすでに終わっていると、ぼくは思った。ぼくと老いらくさんは、杜真子の家がある住宅団地の出入り口の門の前まで、やってきた。
「おー、マスクをした猫がやってきたぞ」
「あっ、本当だ」
「いらっしゃい、どうぞお入り。どうぞ、どうぞ」
門のところで、団地を出たり入ったりする人の体温を測っていた警備員がぼくを見つけて、そう言った。
ぼくと老いらくさんは、杜真子の家がある棟の下までやってきた。
「老いらくさんは、ここで待っていてください。かごが下りてくるのが見えたら、スケートボードを引っ張ってきてください」
ぼくは老いらくさんにそう言ってから、この前と同じように、窓伝いに外壁をよじのぼっていった。杜真子の部屋の窓台まできて、部屋のなかをのぞきこんだが、杜真子は部屋にはいなかった。でも窓は開いていた。ぼくがいつでもなかに入れるように、杜真子が気をつかって開けていてくれたのではないかと、ぼくは思った。
ぼくは杜真子の部屋に入った。客室から男の人の声が聞こえてきた。
(もしかしたら、杜真子のお父さんが帰ってきたのではないか)
ぼくはそう思った。
ぼくはこっそり杜真子の部屋を出て、部屋の出入り口のところから、客室をちらっと見た。すると杜真子のそばに、ぴったり寄り添うようにして、おっとりとして上品な感じがする中年の男性が座っているのが見えた。杜真子と仲睦まじく並んで腰を下ろしていて、杜真子の背中に手を回して杜真子の肩を軽く抱きしめていた。
(ああ、やっぱり、杜真子のお父さんだ)
ぼくは一目見て、そう思った。
(よかった、帰ってきたんだ)
杜真子のほっとしたような横顔を見て、ぼくもうれしくなった。
(しかし、それにしては少し変だ。お父さんが無事に帰ってきたのだから、家族みんなで、もっと喜んでもよさそうなのに、お母さんはどうして、しくしくと泣いているのだろう)
お母さんのすすり泣きが聞こえたので、ぼくにはどうしても合点がいかなかった。うれしくて泣いているのなら分からないこともないけど、悲しそうに泣いていたので、ぼくにはお母さんの涙の意味がよく分からなかった。
お母さんは涙を流しながら、次のように話していた。
「ニュースによると、あの国の人たちは、命よりも自由を大切に考えているから、家のなかにじっとしていないし、外に出るときもマスクをしないので、感染する人がとても多くて、亡くなる人がとても多いって……」
それを聞いて、杜真子のお父さんが
「安心しなさいよ、感染しないように十分に気をつけるから」
と言って、お母さんの心配を払拭(ふっしょく)しようとしていた。
「ぼくたちはW市で疫病を封じ込めることに成功したので、そのノウハウを授けるために、医療援助チームの一員として国際平和に貢献するために行くのだよ。けっして無理なことはしないから大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫」
お父さんはそう言った。
お母さんはそれを聞いても、まだすっきりしないような顔をしていた。
「W市であんなに長期にわたって、ご苦労をなさってきたし、ご飯もろくろく食べず、おちおち眠ることもできないで、辛苦を重ねてこられたのに、やっと帰ってきて、うちで数日間、心労を癒すこともできないのですか。せめて一日ぐらい、うちにいてもよさそうなのに、それもできないで、今すぐまた出かけていかなければならないのですか」
お母さんは未練がましく、くどくどと言っていた。
「時間が命なんだよ。一刻の猶予も許されないような情況なんだ。一日でも早く行って、助けてあげないと、かけがえのない命が、ますます失われていく。このことは医療従事者の一人として忍びないんだよ。どうか、ぼくの気持ちを分かってくれないか」
お父さんがお母さんに懇願していた。
そのとき、窓の外から車のクラクションが鳴るのが聞こえた。お父さんが窓の外を見た。
「あっ、迎えの車が来ている。早く、行かなければ」
お父さんがそう言った。
お母さんはまた涙を流した。お父さんがお母さんの肩をそっと抱いた。お父さんはそのあと、杜真子の顔を両手で捧げ持つようにしてから、杜真子にほおずりをした。
「いい子にしているんだよ。お父さんはお前のことをいつも思っているからね」
杜真子はうなずいた。
「お父さんが外国に行ってからも、毎日、テレビ電話でお話できるよね」
杜真子はお父さんをきつく抱きしめながら、そう聞いた。
「条件さえ整っていれば、できるよ。お父さんはお前に毎日、テレビ電話をかけるよ」
お父さんはそう答えてから、杜真子にまた、何度もほおずりをした。
「お父さんからのテレビ電話を待っているんだよ」
杜真子のお父さんは、そう言うと、それからまもなく、大きなスーツケースを持って、玄関のほうへ行った。杜真子とお母さんもあとに続いて部屋を出た。それを見て、ぼくは急いで、杜真子の部屋にもどって、窓台の上に飛び上がると、窓伝いに外壁を、そろそろと下りていった。一階まで下りると、老いらくさんがすぐにぼくに駆け寄ってきた。
「笑い猫、どうして、かごではなくて自力で下りてきたのだ。キャットフードはどうしたんだ」
「それどころじゃないです」
ぼくの気持ちは、せいていた。
「杜真子の家族が出てくるので、見つからないように隠れるんです」
ぼくは、せかせかしながら、そう言った。
住宅団地の出入り口の門の横に、花壇があるので、ぼくと老いらくさんは、そこまで走って行って、草のなかに隠れた。それからまもなく、杜真子の家族が棟のなかから出てきて、住宅団地の出入り口の前に止まっている公用車のほうに向かってまっすぐ歩いてきた。
公用車のすぐ横まで来ると、杜真子もお母さんも、お父さんとの別れを惜しむように、三人でかたく抱き合っていた。
「あなた、お元気でね。けっして無理はなさらないでね」
「お父さん、毎日、テレビ電話でお話しようね」
「うん、分かった。お母さんも杜真子もお父さんのことはあまり心配しないで元気にしているんだよ」
「はい、分かりました」
「うん、分かったわ」
「じゃあ、行ってくるね」
お父さんはそう言ってから、迎えに来ている公用車に乗り込んでいった。杜真子とお母さんは公用車の姿が小さくなって見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。お父さんも後ろを振り返って、杜真子とお母さんに手を振っていた。
杜真子とお母さんは、うちのなかへ戻るときに、ぼくと老いらくさんが隠れている花壇のそばを通ったが、二人ともぼくには気がつかなかった。でもぼくにはそのとき杜真子の長いまつげの上に、涙のつぶがきらきらと光っているのが見えた。
(大好きな杜真子が泣いている)
ぼくはそう思うと、心がちくちくと痛んだ。
「どういうことなのだ。あの男の人は誰だったのか」
老いらくさんが、けげんそうな顔をしていた。
「杜真子のお父さんです。W市で医療の仕事を終えて、今日帰ってきたばかりなのに、一日も休まないで、外国へ行くんです」
ぼくはそう答えた。
「そうか、そういうことだったのか」
老いらくさんには、ようやく先ほどの情景が飲み込めたようだった。
「今はウイルスによる感染があちこちで広まっているからな」
老いらくさんが、そう言った。
「そうなんです。『新型コロナウイルス』が世界中に広がって猛威を振るっているので、医療関係者は自分の国のことだけを考えているわけにはいかないのです」
ぼくはそう答えた。
「杜真子のお父さんはウイルスの研究をしている専門家だから、国から派遣されて、外国へ医療援助に行ったのです」
ぼくがそう説明すると、老いらくさんはうなずいた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは帰路に就いた。
「杜真子のお父さんのことを、これまでどうして、あまり、わしに話してくれなかったのだ」
老いらくさんが歩きながら、ぼくに聞いた。
「どんな人なのか、ぼくもよく知らなかったんです」
ぼくはそう答えた。
「どうしてだ」
老いらくさんが、けげんそうな顔をした。
「ぼくが杜真子のうちにいたとき、お父さんは外国で働いていて、うちには一度も帰ってこなかったからです。いつ帰ってくるかも分からないでいた。今度、W市で疫病が発見されたので、お父さんは急遽(きゅうきょ)、中国に帰ってきて、すぐにW市に行って医療支援に当たっていたんです」
ぼくはそう答えた。ぼくの説明を聞いて、老いらくさんはうなずいた。
「この前、杜真子がお父さんとテレビ電話で話をしているのを聞いて、ぼくはそのとき初めて、杜真子のお父さんがウイルスの研究をしている人であることを知ったんです」
ぼくがそう言うと
「そうか、それでお前は、わしにこれまでお父さんのことをあまり話してくれなかったのか」
と、老いらくさんが答えた。
朝、丹頂鶴が優雅な姿で飛んでいるのを見て、今度のウイルスはもうすぐ収束するのだとばかり思っていたが、そうではなくて、地球上のあちこちで、まだ猛威を振るい続けているとは、思ってもいなかった。
ぼくはこのときふっと万年亀が以前、話してくれたことが心に浮かんだ。今度のウイルスは、人から人に感染して、なかなか収束しないまま、世界全体に広がっていくと、話していたことがあったからだ。まさにその通りだった。
(万年亀は今、どこでどうしているのだろうか)
ぼくは万年亀に会いたくてたまらなくなった。