第十章 人気絶頂
天気……じりじりとして長くて寒い夜をじっと耐えて、目が覚めると、もうすでに東の空に朝日が昇っていた。希望にあふれた一日がまた始まった。正面から向かい風が吹いていたが、肌を刺すほどの冷たさはもうなくて、かすかに暖かささえ感じた。
今日は正月の三日目。疫病が流行していなかったら、人々はまだ正月気分に浸っていて、年始回りのあいさつに出かけたりしていただろう。
昨夜は、梅園で老いらくさんと話をした。老いらくさんは赤ワインを飲みながら、これまでに経験した何度かの疫病について話をしてくれた。赤ワインを少々、飲みすぎて、話しているうちに、老いらくさんは前後不覚に陥った。それを見て、ぼくは梅園をあとにした。
うちに帰ってからも、ぼくはずっと老いらくさんのことを思っていた。今朝、妻猫といっしょに朝食をとってから、ぼくはすぐにまた梅園へ老いらくさんを訪ねていった。老いらくさんは酔いがまだ十分に醒めていなかった。ぼくを見ると、とろりとした目で、
「お前、まだここにいたのか。早く、うちへ帰れよ。妻猫が気をもんでいるぞ」
と、言った。
「ぼくは昨夜、うちへ帰りましたよ。今朝早くまた来たのです」
ぼくはそう答えた。そのあと爪で、老いらくさんの顔を、とんとんと軽くたたいて、目をはっきりと覚まさせるために刺激した。
「もう朝になりましたよ。早く起きてくださいよ」
ぼくは老いらくさんをせきたてた。
「今日もしなければならないことが、たくさんありますから」
ぼくがそう言うと、ねぼけまなこの老いらくさんが
「何があるんだ。いつものとおりだろう……ああ、眠い、眠い」
と、言った。
「マスクをして町や路地を街宣して、それから、今日、もう一つしようと思っているのは、杜真子のうちへ行くことです」
ぼくはそう答えた。
「杜真子のお父さんは今、うちにいないので、うちには杜真子と、杜真子のお母さんしかいないから、ぼくは心配で……」
沈んだ声で、ぼくはそう言った。
「杜真子が塞いでいるのではないかと思って、心配しているんだな」
老いらくさんが聞いたので、ぼくはうなずいた。老いらくさんは杜真子のうちへ行ったことがあるし、老いらくさんも、ぼくと同じように、杜真子のお母さんが好きではない。
「あの人は口が多くて、いつも杜真子のことを監督して、がーがー言うので、杜真子はたまらないんじゃないかと思って、わしも心配している」
老いらくさんが、そう言った。
「これまでは、お父さんが中に入って、杜真子と、杜真子のお母さんの仲裁をしていたけど、お父さんは今、W市に行って、疫病の感染がまん延するのを防ぐ活動をしている。杜真子はお父さんのことをとても心配しているだろうし、気が晴れないと思う」
ぼくはそう答えた。
朝日をいっぱいに浴びながら、ぼくと老いらくさんはマスクをして、翠湖公園をあとにした。ぼくと老いらくさんが大通りや路地を歩いていると、赤バイクや青バイクに乗ったあんちゃんたちのほかに、黄色い防護服を着た人がいて、ゴミ箱のなかからゴミを取り出して、忙しそうに立ち働いていた。
「あの人たちはゴミ収集作業員だ」
老いらくさんが、そう言った。老いらくさんはいつもゴミ箱をあさっているので、よく知っていた。
「この町から出るゴミは全部、あの人たちがきれいに片付けてくれるんだ」
老いらくさんが、そう言ったので、ぼくは、あの人たちに敬意を表すために、右の前足をあげて敬礼のポーズをした。町の人たちがが家にこもっている今の時期に、彼らは、バイクのあんちゃんたちと同じように、みんなのために一生懸命働いている。その姿を見て、彼らも立派な人たちだなあと、ぼくは思った。
「あれっ、もしかしたら、お前が、今、うわさのマスク猫か」
ゴミ収集作業員の一人が、ひどく驚いたような声でそう言った。ぼくがうなずくと、彼はぼくに向かって右手を挙げて敬礼してくれた。
「まさか、マスク猫に会えるとは思ってもいなかったよ。縁があったのだろうな。運が向いてきたぞ」
ゴミ収集作業員が、にんまりしていた。
(どうしてあんなに嬉しそうな顔をしていたのだろう)
ぼくには、よく分からなかった。
「あの人は、ぼくのことを知っていたように思えたけど、そんなことありえないよね。だって、ぼくは今日初めて、あの人と会ったから」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「うん、ありえない。わしのことだったら、知っているかもしれない」
老いらくさんはそう答えた。
「お前はゴミ箱をあさることはしないので、あの人がお前を知っているはずがない。わしは毎日、ゴミ箱をあさっているので、あの人がわしを知っていても少しもおかしくない」
ぼくは、うなずいた。
ぼくと老いらくさんは、大通りや路地をぐるぐると歩き回って、予想をはるかに越えた大センセーションを町全体に引き起こした。どこに行っても、窓から顔を出して、ぼくに向かって手を振ったり、スマートフォンで写真を撮っている人の姿が以前よりもずっと多くなった。
「やったね、大成功だ」
老いらくさんが小躍りして喜んでいた。
「今が最高のときじゃないかな」
老いらくさんが絶頂感に浸っていた。
そろそろ杜真子のうちに行かなければならないときがやってきた。老いらくさんは今朝、眠気がまだよく覚めないうちに、ぼくに誘われるようにして町へ出てきたから、朝食をまだとっていなかった。昼ご飯もまだとっていなかったので、さっきから、老いらくさんのおなかの虫が、ぐうぐうなっていた。それを知って、ぼくは老いらくさんを翠湖公園に帰らせた。
それからまもなく、ぼくは杜真子のうちがあるマンションの下までやってきた。この前のように、マンションの外壁を、窓伝いにはうようにして登っていって、杜真子の部屋の窓の外まで行った。
杜真子は机の前に座って、ほおづえをついて、何か考え事にふけっていた。
(お父さんのことかな。それとも、ぼくのことかな)
ぼくにはよく分からなかった。
ぼーっとしていて、ぼくが来ていることに、杜真子はなかなか気がついてくれなかったので、ぼくは爪で、窓をこつこつと、たたいた。杜真子がようやく、ぼくに気がついてくれて、にっこりと笑みを浮かべながら、窓を開けて、ぼくを部屋のなかに入れてくれた。ぼくを机の上におろして、顔をぐんと近づけて、ほおずりをしてくれた。
「お前は今、ネット上で人気者になっているわ」
杜真子がそう言った。
「スマートフォンで、お前の動画をいつでも見ることができるわ」杜真子が嬉しそうな顔をしていた。
ぼくは、きょとんとしていた。ネット上で人気者とか、動画と言われても、ぼくには何のことだか、さっぱり分からなかったからだ。「ちょっと待って」
杜真子はそう言うと、スマートフォンを取り出して画面を開いた。感動を誘うような叙情的なメロディーが流れたかと思ったら、マスクをしたぼくの姿が画面に現れた。初めは体全体の映像、そのあと顔だけの大写し、そして最後には目だけの大写しになった。目のなかには希望と明るさがあふれていて、見る人の琴線に触れて、人々の心にがんばろうという気持ちを与えてくれる感動的な映像だった。
ぼくは今やっと分かった。ゴミ収集作業員がぼくを見て、どうしてあんなに嬉しそうな顔をしたり、窓からぼくを見ていた人たちが、どうしてあんなに明るい顔をしながら、ぼくを見ていたのかがよく分かった。みんなネット上で、ぼくを見て知っていたからだ。そう思うと、内心、誇らしい気持ちが、ふつふつと湧いてくるのを抑えることができないほどだった。
杜真子は話を続けた。
「マスクは、馬小跳のうちでもらったものでしょう。馬小跳に電話で聞いたわ。おじさんがくれた赤い祝儀袋のなかに、マスクが入っていたって、馬小跳が言ってたわ。こんな思わず笑っちゃうようなものをプレゼントとして思いつくなんて、おじさんらしいわ」
杜真子は、そう言ってから、くつくつと、おかしそうに笑っていた。
杜真子は馬小跳のお父さんである馬天笑さんがとても好きだ。杜真子に限らず、女の子はみんな馬天笑さんのように、人柄がよくて、ユーモアのセンスがある男の人が大好きだ。
杜真子は自分のお父さんのことについて、再び話し始めた。
「私は今、一日中ずっと、お父さんのことを思っているわ。毎日とても大変だろうなあって。忙しくて一日に四時間しか寝る時間がないと言っていた。分厚い防護服を着ているので、トイレに行くのが面倒だから、食べたり飲んだりする量を、できるだけ減らしているとも言っていた。スマートフォンの画面に映っているお父さんの姿は、以前よりもずっと痩せてた……」
杜真子の顔が曇っていた。お父さんのことを聞いて、ぼくは心が重くなった。
杜真子はそのあと、お母さんのことを話し始めた。
「お母さんはこれまでとは見違えるほど、大きく変わったわ。お母さんもお父さんのことを一日中心配していて、私のことにかまわなくなった。私のすることに、いちいち口を出さなくなったので、不満の気持ちをぶちまけたり、けんかをすることがなくなった」
杜真子が、そう答えた。それを聞いて、(よかった)と、ぼくは思った。
「私はお母さんのことをとても大切に思っているので、お母さんが疲れているときは、お母さんに代わって料理を作ってあげることもよくあるわ。家にいるときも化粧をするように言っているの。スマートフォンの画面に映っているお母さんの姿を見て、毎日の生活に負担がなくて、肌の手入れもしっかりできていることをお父さんに感じさせるためよ。そうすることでお父さんが安心して患者さんの治療に専念できるから」
杜真子が心のなかに抱いているお父さんへの思いを打ち明けるのを聞いて、ぼくは感動して、胸がぷるぷる震えるほど、うれしくてたまらなかった。
(今度の疫病によって杜真子は、親子のあり方を深く考えるようになって心が成長して、いままで以上に立派になった)
ぼくはそう思った。
そろそろ、ぼくがうちへ帰らなければならないときがやってきた。杜真子と別れるのは後ろ髪を引かれるようで本当に辛い。杜真子も名残惜しそうな顔をしていた。ぼくが頭をさげて別れのあいさつをすると、杜真子は何かをふっと思いついたような顔をした。
「ちょっと待って。おみやげをやるから」
杜真子はそう言って部屋から出ていった。ぼくの姿がお母さんに見られないように、ドアを閉めていった。しばらくしてから杜真子が部屋に戻ってきた。食べ物が入った袋を手に持っていて、ぼくの首にかけてくれた。そのあと、かごを持ってきて、縄できつく、かごを縛ってから、かごのなかにぼくを入れて、窓台からゆるゆると下に降ろしてくれた。かごが地面に着いて、ぼくがかごから出ると、杜真子が再びかごを少しずつ、上に引き上げていった。かごが杜真子のうちの窓台まで届くと、ぼくはもう一度、頭をさげて、杜真子に別れのあいさつをした。杜真子が手を振った。ぼくも手を振って応えた。それからまもなく、ぼくは翠湖公園のほうへかけていった。
天気……じりじりとして長くて寒い夜をじっと耐えて、目が覚めると、もうすでに東の空に朝日が昇っていた。希望にあふれた一日がまた始まった。正面から向かい風が吹いていたが、肌を刺すほどの冷たさはもうなくて、かすかに暖かささえ感じた。
今日は正月の三日目。疫病が流行していなかったら、人々はまだ正月気分に浸っていて、年始回りのあいさつに出かけたりしていただろう。
昨夜は、梅園で老いらくさんと話をした。老いらくさんは赤ワインを飲みながら、これまでに経験した何度かの疫病について話をしてくれた。赤ワインを少々、飲みすぎて、話しているうちに、老いらくさんは前後不覚に陥った。それを見て、ぼくは梅園をあとにした。
うちに帰ってからも、ぼくはずっと老いらくさんのことを思っていた。今朝、妻猫といっしょに朝食をとってから、ぼくはすぐにまた梅園へ老いらくさんを訪ねていった。老いらくさんは酔いがまだ十分に醒めていなかった。ぼくを見ると、とろりとした目で、
「お前、まだここにいたのか。早く、うちへ帰れよ。妻猫が気をもんでいるぞ」
と、言った。
「ぼくは昨夜、うちへ帰りましたよ。今朝早くまた来たのです」
ぼくはそう答えた。そのあと爪で、老いらくさんの顔を、とんとんと軽くたたいて、目をはっきりと覚まさせるために刺激した。
「もう朝になりましたよ。早く起きてくださいよ」
ぼくは老いらくさんをせきたてた。
「今日もしなければならないことが、たくさんありますから」
ぼくがそう言うと、ねぼけまなこの老いらくさんが
「何があるんだ。いつものとおりだろう……ああ、眠い、眠い」
と、言った。
「マスクをして町や路地を街宣して、それから、今日、もう一つしようと思っているのは、杜真子のうちへ行くことです」
ぼくはそう答えた。
「杜真子のお父さんは今、うちにいないので、うちには杜真子と、杜真子のお母さんしかいないから、ぼくは心配で……」
沈んだ声で、ぼくはそう言った。
「杜真子が塞いでいるのではないかと思って、心配しているんだな」
老いらくさんが聞いたので、ぼくはうなずいた。老いらくさんは杜真子のうちへ行ったことがあるし、老いらくさんも、ぼくと同じように、杜真子のお母さんが好きではない。
「あの人は口が多くて、いつも杜真子のことを監督して、がーがー言うので、杜真子はたまらないんじゃないかと思って、わしも心配している」
老いらくさんが、そう言った。
「これまでは、お父さんが中に入って、杜真子と、杜真子のお母さんの仲裁をしていたけど、お父さんは今、W市に行って、疫病の感染がまん延するのを防ぐ活動をしている。杜真子はお父さんのことをとても心配しているだろうし、気が晴れないと思う」
ぼくはそう答えた。
朝日をいっぱいに浴びながら、ぼくと老いらくさんはマスクをして、翠湖公園をあとにした。ぼくと老いらくさんが大通りや路地を歩いていると、赤バイクや青バイクに乗ったあんちゃんたちのほかに、黄色い防護服を着た人がいて、ゴミ箱のなかからゴミを取り出して、忙しそうに立ち働いていた。
「あの人たちはゴミ収集作業員だ」
老いらくさんが、そう言った。老いらくさんはいつもゴミ箱をあさっているので、よく知っていた。
「この町から出るゴミは全部、あの人たちがきれいに片付けてくれるんだ」
老いらくさんが、そう言ったので、ぼくは、あの人たちに敬意を表すために、右の前足をあげて敬礼のポーズをした。町の人たちがが家にこもっている今の時期に、彼らは、バイクのあんちゃんたちと同じように、みんなのために一生懸命働いている。その姿を見て、彼らも立派な人たちだなあと、ぼくは思った。
「あれっ、もしかしたら、お前が、今、うわさのマスク猫か」
ゴミ収集作業員の一人が、ひどく驚いたような声でそう言った。ぼくがうなずくと、彼はぼくに向かって右手を挙げて敬礼してくれた。
「まさか、マスク猫に会えるとは思ってもいなかったよ。縁があったのだろうな。運が向いてきたぞ」
ゴミ収集作業員が、にんまりしていた。
(どうしてあんなに嬉しそうな顔をしていたのだろう)
ぼくには、よく分からなかった。
「あの人は、ぼくのことを知っていたように思えたけど、そんなことありえないよね。だって、ぼくは今日初めて、あの人と会ったから」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「うん、ありえない。わしのことだったら、知っているかもしれない」
老いらくさんはそう答えた。
「お前はゴミ箱をあさることはしないので、あの人がお前を知っているはずがない。わしは毎日、ゴミ箱をあさっているので、あの人がわしを知っていても少しもおかしくない」
ぼくは、うなずいた。
ぼくと老いらくさんは、大通りや路地をぐるぐると歩き回って、予想をはるかに越えた大センセーションを町全体に引き起こした。どこに行っても、窓から顔を出して、ぼくに向かって手を振ったり、スマートフォンで写真を撮っている人の姿が以前よりもずっと多くなった。
「やったね、大成功だ」
老いらくさんが小躍りして喜んでいた。
「今が最高のときじゃないかな」
老いらくさんが絶頂感に浸っていた。
そろそろ杜真子のうちに行かなければならないときがやってきた。老いらくさんは今朝、眠気がまだよく覚めないうちに、ぼくに誘われるようにして町へ出てきたから、朝食をまだとっていなかった。昼ご飯もまだとっていなかったので、さっきから、老いらくさんのおなかの虫が、ぐうぐうなっていた。それを知って、ぼくは老いらくさんを翠湖公園に帰らせた。
それからまもなく、ぼくは杜真子のうちがあるマンションの下までやってきた。この前のように、マンションの外壁を、窓伝いにはうようにして登っていって、杜真子の部屋の窓の外まで行った。
杜真子は机の前に座って、ほおづえをついて、何か考え事にふけっていた。
(お父さんのことかな。それとも、ぼくのことかな)
ぼくにはよく分からなかった。
ぼーっとしていて、ぼくが来ていることに、杜真子はなかなか気がついてくれなかったので、ぼくは爪で、窓をこつこつと、たたいた。杜真子がようやく、ぼくに気がついてくれて、にっこりと笑みを浮かべながら、窓を開けて、ぼくを部屋のなかに入れてくれた。ぼくを机の上におろして、顔をぐんと近づけて、ほおずりをしてくれた。
「お前は今、ネット上で人気者になっているわ」
杜真子がそう言った。
「スマートフォンで、お前の動画をいつでも見ることができるわ」杜真子が嬉しそうな顔をしていた。
ぼくは、きょとんとしていた。ネット上で人気者とか、動画と言われても、ぼくには何のことだか、さっぱり分からなかったからだ。「ちょっと待って」
杜真子はそう言うと、スマートフォンを取り出して画面を開いた。感動を誘うような叙情的なメロディーが流れたかと思ったら、マスクをしたぼくの姿が画面に現れた。初めは体全体の映像、そのあと顔だけの大写し、そして最後には目だけの大写しになった。目のなかには希望と明るさがあふれていて、見る人の琴線に触れて、人々の心にがんばろうという気持ちを与えてくれる感動的な映像だった。
ぼくは今やっと分かった。ゴミ収集作業員がぼくを見て、どうしてあんなに嬉しそうな顔をしたり、窓からぼくを見ていた人たちが、どうしてあんなに明るい顔をしながら、ぼくを見ていたのかがよく分かった。みんなネット上で、ぼくを見て知っていたからだ。そう思うと、内心、誇らしい気持ちが、ふつふつと湧いてくるのを抑えることができないほどだった。
杜真子は話を続けた。
「マスクは、馬小跳のうちでもらったものでしょう。馬小跳に電話で聞いたわ。おじさんがくれた赤い祝儀袋のなかに、マスクが入っていたって、馬小跳が言ってたわ。こんな思わず笑っちゃうようなものをプレゼントとして思いつくなんて、おじさんらしいわ」
杜真子は、そう言ってから、くつくつと、おかしそうに笑っていた。
杜真子は馬小跳のお父さんである馬天笑さんがとても好きだ。杜真子に限らず、女の子はみんな馬天笑さんのように、人柄がよくて、ユーモアのセンスがある男の人が大好きだ。
杜真子は自分のお父さんのことについて、再び話し始めた。
「私は今、一日中ずっと、お父さんのことを思っているわ。毎日とても大変だろうなあって。忙しくて一日に四時間しか寝る時間がないと言っていた。分厚い防護服を着ているので、トイレに行くのが面倒だから、食べたり飲んだりする量を、できるだけ減らしているとも言っていた。スマートフォンの画面に映っているお父さんの姿は、以前よりもずっと痩せてた……」
杜真子の顔が曇っていた。お父さんのことを聞いて、ぼくは心が重くなった。
杜真子はそのあと、お母さんのことを話し始めた。
「お母さんはこれまでとは見違えるほど、大きく変わったわ。お母さんもお父さんのことを一日中心配していて、私のことにかまわなくなった。私のすることに、いちいち口を出さなくなったので、不満の気持ちをぶちまけたり、けんかをすることがなくなった」
杜真子が、そう答えた。それを聞いて、(よかった)と、ぼくは思った。
「私はお母さんのことをとても大切に思っているので、お母さんが疲れているときは、お母さんに代わって料理を作ってあげることもよくあるわ。家にいるときも化粧をするように言っているの。スマートフォンの画面に映っているお母さんの姿を見て、毎日の生活に負担がなくて、肌の手入れもしっかりできていることをお父さんに感じさせるためよ。そうすることでお父さんが安心して患者さんの治療に専念できるから」
杜真子が心のなかに抱いているお父さんへの思いを打ち明けるのを聞いて、ぼくは感動して、胸がぷるぷる震えるほど、うれしくてたまらなかった。
(今度の疫病によって杜真子は、親子のあり方を深く考えるようになって心が成長して、いままで以上に立派になった)
ぼくはそう思った。
そろそろ、ぼくがうちへ帰らなければならないときがやってきた。杜真子と別れるのは後ろ髪を引かれるようで本当に辛い。杜真子も名残惜しそうな顔をしていた。ぼくが頭をさげて別れのあいさつをすると、杜真子は何かをふっと思いついたような顔をした。
「ちょっと待って。おみやげをやるから」
杜真子はそう言って部屋から出ていった。ぼくの姿がお母さんに見られないように、ドアを閉めていった。しばらくしてから杜真子が部屋に戻ってきた。食べ物が入った袋を手に持っていて、ぼくの首にかけてくれた。そのあと、かごを持ってきて、縄できつく、かごを縛ってから、かごのなかにぼくを入れて、窓台からゆるゆると下に降ろしてくれた。かごが地面に着いて、ぼくがかごから出ると、杜真子が再びかごを少しずつ、上に引き上げていった。かごが杜真子のうちの窓台まで届くと、ぼくはもう一度、頭をさげて、杜真子に別れのあいさつをした。杜真子が手を振った。ぼくも手を振って応えた。それからまもなく、ぼくは翠湖公園のほうへかけていった。

