マスクをした猫

第九章 疫病神が来た

天気……オレンジ色に染まった夕焼けの空に、雲がふわふわ浮かんでいて、とてもきれいだ。こんなに美しい夕焼けの空を見るのは久しぶりだ。大きくて、あかあかとした太陽から放たれる残照は、燃え盛る炎のように、めらめらと輝きながら、町や錦江を明るく照らしていた。

日が暮れ始めたころ、ぼくと老いらくさんは、錦江に沿って歩きながら、翠湖公園への帰り道を急いでいた。空を見上げると、西の空が美しい夕焼けに染まっていて、大きなオレンジのような太陽が、今まさに錦江の向こうに沈もうとしていた。明るい残照が照り映えている錦江の水面はきらきらと金色に輝いていて、えも言われぬほどの美しさだった。
「この町の風景は本当にきれいだね」
老いらくさんが、うっとりした顔をしていた。
「わしはこれまで、どうしてこの美しさに気づかなかったのだろうか」
老いらくさんが小首をかしげていた。
「老いらくさんは、これまで、こんなに意気揚々として、町のなかを歩いたことがなかったからじゃないの」
ぼくはそう答えた。
「町をうろつく悪いネズミとして、みんなからの嫌われ者だったから景色を見る余裕がなかったからじゃないの」
ぼくは笑いながら、そう答えた。
「そうかもしれないな」
老いらくさんがうなずいた。
「しかしそれにしても、川の水がこんなにきれいだったことは、これまでなかったんじゃないかな。そう思わないか」
老いらくさんが聞いた。
そう言われると、確かにそんな気がする。錦江を流れる水は、これまでそれほどきれいではなかったが、今はとても美しく輝いている。夕陽に照り映えているせいだけではないように思える。
(もしかしたら、疫病が発生したために、工場がすべて操業を停止して、そのために汚染物質が川に流されなくなったからではないかな)
ぼくは、ふっと、そう思った。
「あれっ、ほら、あそこを見ろ。川の上を無人飛行機が飛んでいる。川の水を消毒しているのかな」
老いらくさんが、そう言った。
「そうかもしれないね」
ぼくは、そう答えた。
無人飛行機が人の助けを借りてできることが、最近、とみに多くなってきた。物資の緊急輸送や、被災者の支援、疫病のまん延防止、野生動物の観察、空撮などである。今、目の前を飛んでいる無人飛行機も、飛ぶ方向や高度を様々に変えながら動いているので、人が地上のどこかで操作しながら、航空写真を撮っているのかもしれないと、ぼくは思った。そのようにして撮られた貴重な映像は、疫病が流行しているときの町や川の風景として、これからずっと大切に保存されていくのだろう。ぼくはそう思った。
ぼくと老いらくさんは翠湖公園まで帰ってくると、アーチ橋のところで別れることにした。老いらくさんは梅園に帰り、ぼくは山洞へ帰っていくことにした。山洞のなかで、妻猫がぼくの帰りを待っているはずだ。
老いらくさんの寂しそうな後ろ姿を見ながら、ぼくはふっと、老いらくさんが、今日、二度言いかけて、二度とも途中で口をつぐんでしまった「もし、あのとき……」という話の続きが気になって仕方がなかった。老いらくさんに、以前、どんなことがあったのだろうか。どうしても聞きたいと思ったので、梅園に帰っていく老いらくさんに
「あとでまた梅園に行くからね」
と、呼びかけた。
山洞のなかにあるうちへ帰ってくると、ぼくは妻猫といっしょに夕ご飯を食べた。馬小跳のうちからもらってきた、おせち料理を食べた。とてもごちそうで、疫病がまん延していて、緊急事態にあるときの正月料理とは思えないほど豪華な料理だった。
夕ご飯を食べながら、ぼくは妻猫に、今日、町で見たり聞いたりしたことを話して聞かせた。生活物資を宅配していたバイクのあんちゃんや、あんちゃんが写真を撮ってくれたことを話した。老いらくさんといっしょに写真に映ったことは、言わなかった。ぼくと老いらくさんが親しくしていて、『隠れ友』であることは、妻猫はまだ知らないでいるからだ。
「写真に撮られたの。お父さん、すごいね」
妻猫が羨望(せんぼう)のまなざしで、ぼくを見ていた。
「バイクのあんちゃんが、どうして、お父さんの写真を撮っていたか分かりますか」
妻猫が聞いた。
「もちろん、分かるよ。とても珍しかったからじゃないの。マスクをした猫を見たことはなかっただろうから」
ぼくはそう答えた。
「それだけじゃないわ。お父さんが人類のために貢献していたからよ」
妻猫が、そう付け加えた。
妻猫は大義にとても明るい。ぼくがマスクをすることで人類にどのような意識を植えつけることができるかを、よく分かっている。人類に貢献しているという大げさな意識は、むろん、ぼくには少しもないが、妻猫にそう言われて、悪い気はしなかった。ぼくがすることを妻猫はいつも褒めてくれるし、ぼくの気持ちをよく分かってくれる。気持ちがぴったり合うので、これからも妻猫といっしょにずっと楽しく過ごしていくことができる。ぼくはそう思った。
夕ご飯を食べたあと、ぼくは梅園に行った。老いらくさんはまだ夕ご飯を食べている最中だった。ソーセージをつまみながら、赤ワインを飲んでいた。老いらくさんはぼくに晩酌のおともをさせた。ぼくが老いらくさんに聞きたいことを、まだ何も言わないうちに、老いらくさんは、ぼくの気持ちを察していた。
「お前がわしから何を聞きたいのか、わしには分かっている。疫病が流行している今、わしがこれまでに経験した疫病のいくつかを話さなければならないことは、わしもよく分かっている。されど、わしはもうずいぶん年をとったから、昔の悲惨な出来事は思い出したくないのだ。あとどれくらい生きられるか分からないが、今を楽しく生きていって、余生をまっとうしたいのだ」
葛藤に苦しむ老いらくさんの心のうちが、ひしひしと伝わってきた。
「分かりますよ。それにしても老いらくさんの余生は本当に長いですね。今、何歳なのか、ご存知ないし、これから先、どれくらい生きられるかもご存知ではない」
くつくつと笑いながら、ぼくがそう言うと、老いらくさんがうなずいた。
「これまで長く生きてきた老いらくさんにとって、一番大切な財産は何ですか。もしかしたら気がついておられないかもしれませんが」
ぼくがそう聞くと、老いらくさんは自慢げに
「わしの一番大切なものはこれだよ」
と言って、宝箱を取り出した。
「このなかには貴重なものが、いっぱい入っているので、実に大切なものだ」
老いらくさんの目が喜々としていた。
ぼくは首を横に振った。
「いや、そうじゃないと思います。老いらくさんにとって、一番大切なものは、その宝箱じゃなくて、老いらくさんの経験だと思います。さまざまな出来事を経験してこられたので、それらの経験を伝えることが何よりも大切だと思います」
ぼくがそう言うと、老いらくさんはうなずいた。
「今度の疫病が流行し始めたとき、『これは大変なことになるぞ』と、老いらくさんはどうして思われたのですか。初めはそう思って恐れおののき、絶望的な事態だと悲観しておられたのに、あとになると、手のひらを返すように、落ち着いて、事態を静観できるようになったのですか。自信にあふれた口調で、『人々は疫病に立ち向かい、必ず打ち勝つことができる』と、おっしゃったのですか。これまでの経験から、そのように思われたのではないのですか。ぼくには老いらくさんのような豊かな経験がないので、老いらくさんの話をとても聞きたいです」
ぼくは熱心にそう話した。
「そうか、分かった」
老いらくさんがうなずいた。
「わしが経験したことが、お前にとってそれほど価値あるものとは思ってもいなかった」
老いらくさんは、ぼくの誠意をこめた言葉に感動していた。
「ではウイルスのことから話を始めよう」
老いらくさんは、そう言って、頭のなかを整理していた。
「ウイルスはもうすでに数十億年前に地球に存在していた。人類が誕生する前から存在していたのだ。疫病が起きる原因はすべてウイルスによるものだ。細菌が感染を引き起こして、知らないうちに、マラリア、コレラ、天然痘、ペスト、はしか、肺結核、インフルエンザなどの伝染病が人から人に感染して広がっていく。これらの伝染病はまさに疫病神によってもたらされると言える。疫病神は地球上のあらゆるところに潜んでいて、行くところのどこにでも死のベールを、じわじわと覆いかぶせていく。わしがこれまでに経験した大小様々な疫病は数十回にも及び、そのほとんどが人から人に感染していった。一人が感染すれば、すぐに家族や周囲の人たちに感染し、その人たちがまた別の人たちに感染を広げて、社会全体に感染が広がっていった。感染者や、その家族や周囲の人たちには常に死の影がつきまとい、やがて家族全員や、村全体の人たちが感染して亡くなり、死体があたり一面に横たわっていて、空気中に死臭がぷんぷんしていた」
悲惨な情況がありありと目に浮かぶような老いらくさんの話に、ぼくの心はひどく痛んだ。老いらくさんの頭のなかは今、疫病で亡くなった人たちへの沈痛な思いでいっぱいなのだろうと、ぼくは思った。ぼくも今、今度の疫病によって亡くなった人の死臭を身近に感じていたので、過去の疫病のことを聞いて、思いが重なって、とても重苦しい気持ちになった。
「あのときは本当にむごくて見ていられなかった」
老いらくさんは苦渋に満ちた表情をしながら、昔の思い出を振り返りながら話を続けた。
「コレラと呼ばれる疫病が、ある時期とても流行していて、周囲数百里にわたって感染が拡大して、大変な事態に陥ったことがあった。あのときには、一つの村を除いて、住民のすべてが感染して助かった人は一人もいなかった」
老いらくさんの声は哀感を帯びていた。
「一つの村を除いてですか」
ぼくは聞き返した。老いらくさんはうなずいた。
「どうしてですか」
ぼくはすぐに追及した。
「その村は、コレラが流行し始めるとすぐに村を封鎖したからだ」
老いらくさんが、そう答えた。
「その村には小さな船着場があって、そこだけが外部と行き来できる場所だった。外部でコレラが流行して多くの人が感染して亡くなっているのを知った村長がすぐに船着場を封鎖した。そのために村外から人が入ってきたり、村民が外に出て行くことがなかったので、その村ではコレラに感染する人が一人もいなかった」
老いらくさんは昔のことを思い出しながら、そのように話してくれた。
「そうですか、そんなことがあったのですか。疫病に感染することを防ぐためには、外部との接触を断つことが有効であることが証明された例が過去にあったのですね。それで老いらくさんは、今度の疫病が発生して感染が広がっていったときに、ぼくを高速道路や空港に連れていって、封鎖されているのを知って、ほっとしたんですね」
ぼくにはやっと老いらくさんが、今、静観しているわけが分かった。
「そうだよ。そのとおりだよ。町が封鎖されているのを、この目でしかと見て、それでわしは安心したんだよ」
老いらくさんは、そう答えると、赤ワインを一口、飲んだ。
「わしが最も感心しているのは、何と言っても、この町の人たちだよ。みんな、一人ひとりが自覚して、家のなかでじっとしている。これはほかの人に対する一番の思いやりだし、社会に対する最大の貢献だよ」
老いらくさんが、そう言った。
お酒を飲んで、饒舌(じょうぜつ)になっていて、老いらくさんは、とうとうと述べて、話にきりがなかった。
「みんな、一人ひとりが自分にできる一番よいことをしなければならない。そのためには何をすればよいのか。答えは簡単。決まりを守ることだ。疫病が広がっている今、みんなが守らなければならない決まりとは何だろうか。お前ならどう答えるか……」
老いらくさんは赤ワインを飲みすぎて、だんだん、ろれつが回らなくなってきた。酔いが回ってきて、意識をだんだん失いかけていて、目も、もうろうとしていた。
「そうですねえ、おとなしく、うちのなかでじっとしていることじゃないかな。どうしても外に出なければならないときは、必ずマスクをして感染を防いで、人にも社会にも迷惑をかけないことじゃないかな……」
ぼくはそう答えた。
「うん、そうだよ。そのとおりだよ。そうすることが……決まりで……」
老いらくさんは、もうすでに、ぐでんぐでんになっていて、ろれつが怪しくなっていて、言葉がはっきり言えなくなっていた。老いらくさんはそれからまもなく、ぐうぐうといびきをかいて、前後不覚に陥った。それを見てぼくはもう、うちへ帰らなければと思った。
梅園の上には冷たい夜風がひゅうひゅう吹いていて、たくさんのロウバイの花びらが地面に散り落ちていた。ぼくはきれいな花びらを拾い上げて袋に入れて、うちへ持って帰ることにした。妻猫に枕としてプレゼントするつもりだ。