「……んじゃ、せめて咲耶サマの匂いだけでも嗅がせてもらうか~」

トホホ、と情けなく思いながらも嗅覚を最大限に活用するが──いろんな匂いに邪魔をされ、感じられる“主”の匂いは微量だ。

「……あ~。相変わらず良い匂いすんなぁ、咲耶サマは」

それでも、わずかに感じとれた匂いからは、“主”の健康状態も良く心理状態も落ち着いていて、不調はないと窺い知れる。

「そうだな」

素直な同意が頭上から降ってくる。
犬朗は驚きつつも、そういえば……と思い返す。

「旦那のことがあったから気にも止めなかったけどよ。愁月のオッサンの幻の邸で、咲耶サマの匂いによく似た匂いがしたんだよな」
「ああ、それは……」

複雑そうな口調で言いかけた犬貴の眼が、犬朗に向けられる。直後、ぎょっとしたように見開かれた。

「貴様ッ……まだ制御できないでいるのか……!」
「は? ……あ、つい。油断した?」

悪びれず、犬朗は笑いながら地面についたソレをぱたぱたと動かした──自らの尻に生える、赤虎毛の犬の垂れ尾を。

「貴様という奴は……阿呆だとは思っていたが、まさかこれほどとは……!」
「心配すんな、ダイジョブだって!
二葉チャンが言ってたけどな、万が一の場合は『こすぷれ』デ~スって、笑っとけばコッチじゃみんな、許容してくれんだとよ」
「何を訳分からぬことを言っているのだ、貴様はッ! いいから早く、それをしま──」
「まったく、あなた方には困ったものですね。大の男がコンビニの駐車場で口喧嘩(げんか)ですか。そのうち不審者として通報されますよ」

唐突に犬貴の言葉をさえぎったのは、直前まで自分たちに、気配も匂いも感じさせなかった存在。

「時間です」

短く告げ、大事な“主”との別れをさとらせる。
慇懃(いんぎん)無礼な口調と共に、見下すような視線を向けてくる若い男。
この世界において犬朗たちを問答無用で使役する者であった。





今日の仕事は、山間部の『とんねる』に現れるという、女の幽霊の“浄霊(じょうれい)”だった。

“浄霊”とは文字通り、霊を浄める──すなわち、成仏させてやること。

犬朗たちの役割は、その幽霊に複合的に引っ付いた(・・・・・)野狐(やこ)や入道の『化け物』の力を弱め、喰らうことだった。